*とつげき東北 [#ve25e2e3]
 
  差別という語が、集団から集団への「キライ」の正当化=暴力を表すと理解されたとき、一般人はいかに自分たちが差別を繰り返しているかをはじめて痛感する。例えば彼らは官僚差別や科学者差別を日常的に行っている。
  そのような中において、「差別はよくない」と信じ続けたい彼らが自らの行為を正当化するためには、同じ行為を「差別」ではない何かとして再定義せざるを得ない。そのために広まったのがこの名言である。
 
  もちろん実際には、フェミニストたちの感情的な「差別だ、差別だ」とみなす風潮に対する防護策としてこの名言が使われたといった経緯もあろう。いずれにせよ「差別はよくない」という制度が孕む構造的な問題(実際に差別と搾取によって成立せざるを得ない世界の現実と道徳的理想との乖離)によって生じた名言であり、そしてそれそのものが必然的に「差別するために」再利用されているという現状がある。
 
 →差別
 
 #htmlinsert(google.txt)
 - ''[[あ]]'' &new{2008-03-07 (金) 03:05:11};
 部落民はゴミ
  
 - '''' &new{2010-07-20 (火) 10:58:11};
 >ほとんどの対人間的あるいは対人間行為的「区別」は「差別」であるか、差別と捉えられかねないから、「区別は差別ではない」という「区別」をつける必要が生じた
 ~とツイッターで凸がいってたが、差別ではない区別というものは存在すると考えてよいの? 少なくとも、自分の中だけにおいては。
 この項目も、どうも前からしっくりこない。差別を
 ~>「キライ」を「集団化」し「一般化」し、しかるべき手段で「正当化」する視線であり、またそれが実際に正当なものとしてまかり通る一連の事態である
 ~と定義すれば(「差別」の項目より)、「差別といえる区別もある」とはいえるだろうけど、なんだか「区別は差別を隠すためにつくり出された概念」「区別のほとんどは差別」となってるような……。俺的には、まず単に「Aである(=A以外の何かではない)」という区別があり、区別されたそれぞれの何かを嫌い、それが「集団化」「一般化」「正当化」されるときに差別になる、という感じなのだが……。そんなのは「前提」であるのに、あえてわざわざ今頃になってなぜか「区別は差別ではない!」と後退して(しかも区別と差別の区別がごっちゃになって)語られ始めた、という珍現象を指摘したものであるなら問題ないんだけど。
  
 - ''[[ここまで読んだよ]]'' &new{2010-07-20 (火) 23:07:46};
 どのような1集合体も、区割り(≒区別)を行えば両者に何らかの差が生じる
 その差を、取るに足らないものと思えば何でもないただの区別だが、気に障る差を生み出したと思えば差別になる
 結局は、「誰が(そう考える)?」になるわけで
 ~結局、大衆は「区別」という言葉を用いて「差別」という言葉から分離することによって差別という言葉から生じる負のイメージの払拭を図っているということらしいが、区別自体が差を産むことに他ならないこと・その差を感じる人間がゼロではないことを大衆自身が見事に失念している
 だからこそ、掲題の説明もtwitterの戯言も「真」となる
  
 - '''' &new{2010-07-20 (火) 23:35:52};
 >結局は、「誰が(そう考える)?」になるわけで 
 ~んーまぁだから
 ~>少なくとも、自分の中だけにおいては
 ~と言った。取りあえず、他者評価抜きで「A」とだけ区別することはできるの? という質問。「負のイメージの払拭」のための「区別」が存在することは認めた上で。俺の考えは「その差を、取るに足らないものと思えば何でもないただの区別」だけど、凸説だと全体的に区別≒差別に思えたから、え、そうなの? ときいた。
  
 - ''[[ここまで読んだよ]]'' &new{2010-07-22 (木) 00:52:08};
 下段、全体的を大衆に置き換えるとわかるんでね?
 対象はおそらく「ゼロではない」に帰着するが、声高なのもなぜかそれらにほぼ一致する
  
 
 #comment

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