■とつげき東北
 
 
  ―と呼ばれるものが、(現代の若者にとって)実際にはむしろ「キモイ」と感じられる場合が多いのは、過去と現在を比較して、コミュニケーションの性質が根本的に変化しているからである。
 
  年長者の多くが「良い」と感じるものが、若い人のそれと真逆であることはしばしばある。その際、少なくともその過渡期において、そこに生じている齟齬が「善悪」の差に基づいたものであるとされ、問題がすり替えられることは少なくない。
  例えば――女性が茶髪であることは、現代的に言えば美的問題であるが、過去には「不良であるかどうか」という文脈で論じられたし、電車内で携帯電話を用いてメールをやりとりすることさえ同様であった。
 
  全ての「善悪の問題」は、結局別の何がしかの問題に還元可能であるという真理についてはここで言及しないとしても、明らかに善悪の問題ではないはずの問題までもが、恣意的に「善悪の問題」に対応付けられるのは、ある種の対立を「善悪の問題」にしてしまえば、すべては一様で単純な問題となり、片方が持っている「『悪い』性質が改善されさえすればすべてがうまくいく」と信ずることができるからである。政治的な文脈においても二元論的図式は便利で、「対立候補」を叩くには相手を悪とするのが手っ取り早い。
 
  とはいえ、あらゆる対立の原因がもっとも稚拙な形で単純化される間に、本質は見失われていくのが常である。
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 - ''[[あ]]'' &new{2007-07-29 (日) 13:53:58};
 気持ちの良い挨拶が、(現代の若者にとって)実際にはむしろ「キモイ」と感じられる場合が多いのは
 ↑根拠全くねーな(笑)
 /(^o^)\ナンテコッタイ! 
  
 
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