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 *とつげき東北 [#f9c3d58e]
 
 
  ネット上等で行った「議論」や「ケンカ」などの記録の要旨をつづる。
 
  割と気軽に行っている議論も多いので、細かいところにつっこまないように。あくまでも実戦における論理の活用のネタ等として利用してください。
 
 →(議論記録2)
 
 
 **筆者の書籍『科学する麻雀』への批判における議論その1 [#w869597f]
 
 【相手】
 
 (とつげき東北は)麻雀というゲームそのものの本質を理解していないと言わざるを得ません。 
 統計に頼っている時点で麻雀に絶対戦術が無いことの証なのですが、それすら理解していませんね。 
 仮に東風ユーザーがこの本を買ってその通りに実戦すれば、東風荘の統計データは大幅に変わるでしょう。 
 するとその変化したデータに合わせて当然新たな検証をし、必然的に新たな戦術が生まれます。 
 そしてその新たな戦術が普及すればまた・・・という具合で無限に続くわけです。常に流動的な物なのです。 
 麻雀というゲームはそもそも解が一意に定まるゲームではないのです。 
  
 
 【とつげき東北】
  
 何が「麻雀というゲームそのものの本質」だか。
 「言わざるを得ません」て( ≧∇≦)ブハハハ!
 別に言わなくてもいいだろうが、こんな発言(笑)
 
 ヒント:不完全情報ゲームであり、相手の戦略や得点の取れ方は統計的にしか把握できないにもかかわらず、特定の戦略が最強の安定した戦略となり、他のどんな戦略もその戦略(しかも一定の打ち方)より得点期待値を高めることができないようなゲームを1つ
 定義せよ。
 
 こういう疑問を持った瞬間、当然これくらいの考察はするもんだと思うが、本を出した頃から、まぁ1年半ほどたった今でも、なおこの種の批判で満足する人がいるんだなぁ。すげーなー。
 
 もちろん、麻雀においてはさすがに「最強の1手」みたいなのはなかなか見つからないと思うけど、相手がどのような打ちかたをするのであれ「最強ではない1手」を一意に定めることが可能な状況はあるし、最強ではない1手が定められる以上、最強の1手を定めることができる可能性は(理論的な意味で)ある。
 そしてそれが「より強い打ち方」を許さない唯一のものである可能性もある。具体例は敢えて挙げない。考えて。
 
 何もかも理解せぬまま「本質」だけ語るのはやめて、個別具体論を論じてくだされ。
 実体なき「本質」は、実像を隠蔽するための虚構に過ぎないですよ。
 
 
 
 **筆者の書籍『科学する麻雀』への批判における議論その2 [#y0db5205]
 
 【相手】(麻雀プロ)
 
 「カンチャンよりシャンポンが有利」これを実戦の統計から構造を予想するのは間違い
 である。3と7のシャンポンでリーチする人はほとんどいないが、カン3や7はリーチを
 かける人が多い。カンチャンは19牌で待てないことが、和了率に差が出る原因ではない
 か?
 中張牌同士の場合はむしろ、相手がシュンツを作ると想定すると、シャンポンの当たり
 牌は相手の「欲しい牌」、カンチャンの当たり牌は「余り牌」になりやすいので出にくい
 という説もある。
 
 【とつげき東北】
 
 指摘を踏まえ、以下集計結果を示す。
 
 6〜11 順目における先制28カンチャン待ち
 有効局数1352 和了率44.4%
 6〜11 順目における先制37カンチャン待ち
 有効局数1484 和了率41.9%
 6〜11 順目における先制28と37のシャンポン待ち
 有効局数342 和了率52.6%
 6〜11 順目における先制37と456シャンポン待ち
 有効局数291 和了率44.3%
 
 実戦の統計と95 ページの考察とから、構造的にカンチャンよりシャンポンが有利と考え
 られる。
 
 あなたの指摘は思い込みに基づく誤解である。
 以上。
 
 
 **筆者の書籍『科学する麻雀』への批判における議論その3 [#a6d3d75d]
 
 【相手】
 「状況によって確率は変動する」という点を軽視しているのではないか心配になった。
 例えば、P.93 に6〜10 順目先制両面リーチの和了率は61%とあるが当然、常に61%では
 なく、51%だったり71%だったりするはずである。具体的には、染め手狙いと同じ色の待
 ちになった場合和了率は下がり、(本書では否定的な表現もあったが)場に出ている数も重要な要素であり、またフーロしている他家がいた場合、その人がアンパイに困って振り込んだり逆にその人に蹴られたりもし、それ以外にもいろいろ考えられる。
 
 【とつげき東北】
 全体表として61%のものをP91 に掲載している。
 順目別、待ち形別、先制かどうか別の表またはグラフ(P152 から)、及び他家の攻める度合い別期待値グラフを、リーチの得点と形別に掲出(P156 から)している。また相手の食い仕掛けが染め手である確率表を、相手の捨て牌の半分の位置までに捨てられた「染め色」の数別に掲出(P140)するなどしている。
 「フーロしている他家が振り込みやすくなる」ことに関してもP109 で言及しており、当たり牌の場に出ている数による和了率の変化についても、P98 でデータとともに論じている(これにより、場に出ている枚数が3枚か6枚かという差は、そのリーチが2待ちカンチャンか2待ちシャンポンかという程度の差と大差ないことが確認できる)。
 いうまでもなく、さらに細かい状況分類は無限に可能であり、発展研究の余地はあると
 ころだが、「それ以外にもいろいろ考えられる」というのはいささか投げやりではないか。
 本書に「それ以外にもいろいろ考えられる」と記述しておけば納得されたのか、疑問であ
 る。
 以上。
 
 
 
 **筆者の書籍『科学する麻雀』への批判における議論その4 [#w7a3e303]
 
 ※掲示板からの垂れ流しですが。余分な第三者の発言は除去しました。
 ※「たそ」という人物とは、昔から何度か議論しており、思想的に対立している。
 ※彼は「[[知の原理主義者>(解説)知の原理主義への批判]]」であり、筆者の著書に「原理的な観点からのみ」批判するブログをわざわざ公開しつつも、およそ科学的センスの欠如した仮説をばらまくという「センスのない麻雀プロ」である(と筆者は認識している)。
 
 ●たそ  何度も言ってるけども
 
 科学する麻雀の3章は確かに実用的で面白いね。
 でもその元となっている2章の数理モデルの有用性の考察すら行われていない以上、
 3章の内容の正しさなどについては従来の麻雀戦術書と大差ないですよん。
 
 まほ公氏が似たようなことを述べておられるが少し異なり、
 モデル(2章の内容)を理解しているかどうかが問題ではない。
 有用であることが示されているモデルを理解していなくても、モデルから導かれる戦術を信じて利用することは、
 従来の有用であるかどうかがわからない戦術を信じて利用することと大きく異なる。 
 
 ●とつげき東北
 
 >たそ
 ちと、うざいので長々と反論させていただくよ。
 
 3章には、君の言う「有用性の考察すら行われていない」モデルとは無関係の、統計データに基づく戦術の記述も多くある。シミュレーションを利用してはいても、実際には「リーチした瞬間の有利さ」の実測値を計算に組み込むためだけに利用している部分もある。
 君の納得する厳密さを満たしていないことを理由に、「正しさ」において、迷信的・経験的なもの――例えばカンチャンよりリャンメンの方が2倍上がりやすいという観点から書かれているとか、ウラスジの危険性を盲目的に信じているようなもの――と「大差ない」とする君の考え方は、実にとち狂っている。(「大差」をどこに置くかのみに依存するが、君のそのイメージ論法は不実だ)
 
 データやらモデルには、厳密さや精度に色々な段階がある。
 前を歩く人がいないのだから、君の思うような厳密性や精密さを持った理論がいきなりできあがってくるわけがない。
 コンピュータ将棋を研究していらっしゃる電気通信大学の先生と交流があるが(情報処理学会 ゲーム情報学研究会のワークショップ講演に推薦してくれた方)、かなり大胆な方法で色々試していらっしゃる(今は全数探索を一切つかわずに、上級者の「セオリー」に基づいた直感的な打ち方をさせることに挑戦されているようだ)。コンピュータ将棋の世界の話を聞いていると、試論も含めて実に「刺激的」な世界である。
 麻雀にもどって、上のkだって、試行錯誤してパラメータを決定しながら面白い試みをやってるじゃないか。例えばkの試みから得られた一つの「リーチすべきかどうか」の判断を見て、「パラメータの決定が恣意的で、相手の打ち方にも依存する。特定の打ち方に対するそれなりの解を1つ求めただけでは、ゲーム理論の世界では認められない」とか、「正しさは大差ない」とか評論してる人がいたなら、死んだらいい。
 
 ・余談1
 
 ところで私の方法の一つの特徴は、「リーチした瞬間(手がわりしないテンパイをした瞬間)」の有利さの部分を基本的に実測して、それもとに様々の有利さを計算する(その計算部分のためにシミュレーションを使う)というものだ。リーチした瞬間の有利さが実測できない色々な要素を、シミュレーションによって補いつつ、それ以前の状況から「リーチした瞬間の状況」までの過程を計算に押し込むことで状況を判断する。
 誰も指摘してくれないが(笑)、「リーチした瞬間」を計算の根拠にするという方法論が、コンピュータ麻雀において斬新で有効な(だと確信している)ものだ。
 そもそも、コンピュータを使うといっても、麻雀であり得る全ての場合を場合わけすると計算量が爆発する。つまり和了までのツモや他家の食いなどのパターンを全部計算するわけにはいかない。
 かといって安易に「自分の手の評価点」などを作ってしまうと現実から乖離する。
 そこで、ある程度明確な形でデータがとれる「リーチした瞬間の良さ」を出して、そこにつながる一連の変化を計算することで、評価をするわけだ(リーチした瞬間の良さは、より細かい場合わけなどで精密化していく余地がある)。
 こうするともっとも重要な「テンパイ時の判断」がそのデータの正確性に応じて正確にできるだけでなく、手代わりの形がある程度限定される1シャンテンや2シャンテンまで、不可能だった「計算=評価」を行うことができる。実測のデータだけだと細かい差を追えない(組み合わせが多くデータが足りないなどの理由で)ので、シミュレーションや計算に落とし込んで計算可能にしていこう、というのが私のやっている試みだ。
 私がこの手法を使ってからは、なにやらこれは当然のことのように話が進んでいくが、明示的にこの手法を取り入れた一貫した記述は見たことがない。
 
 またそれとは別に、序順で重要になる「役の狙い方」の指標を作ろうと、ホンイツのできやすさなどのデータも取っているところだ。
 
 将棋でもそうだが、全数探索をすれば「理論上は」完全な解が求まる。それが現実時間で計算不可能だから、複雑で未だ解明されていないゲームにおいては、どのように計算量を減らし、実装に落とし込んでいくかのアイデア、またそれをどのように現実の判断に適用していけるかというところがキモになる。細かい部分はあとからどんどん補正してゆけばよい(もちろん、補正する土台を作っていればだが)。
 それに対して、自分が知っている世界の教科書を読みながら、ああここが違いますねなどと評論してみせたり、試行錯誤の末出てきた式にちょこっと変形を加えて「こうした方が正確」などというのは(それが本当に有益でない限り)、実に刺激のない行為である。
 それならまだしも「流れ理論」に基づいた麻雀戦術を体系化してくれる方が楽しめるというものだ。
 
 ・余談2
 
 私の書いている「思想」系の文章を見て、「自分が漠然と思っていたことを文章にしてくれた」と評論する人がいるが、私はそれも疑う。東大入試数学の模範解答を見ながら、ああそうだ、これが正しいのだよ、と感じることは東大には全く及ばない生徒にもできる。
 彼が模範解答を見ずには「解答」を出せなかったとすれば、「これが自分の思っていた考え」などと、なぜ言えるのだろうか。
 各々の論理がごく断片的に一致することや、一致した全体を見て賛同できることと、実際にその全体を構成することとの間には大きな差がある。
 同様に、各々の論理の破片の一部のミスを指摘したからといって、全体を丸ごと否定できる(あるいは、その全体は価値がない)と考えるのは間違いである。計算間違いをいくつか含む、筋道の正しい答案の全体を作ることは、入試の数学においても、単にその計算間違いを指摘できるだけよりも高得点が得られるし、圧倒的に困難なことである。
 麻雀を体系化する作業を試みない者には(もちろんそれは長くて遠い作業だが、「状況や相手による」などと逃げ出さずに取り組まない者には)、麻雀を愛しているとは言わせない ← 
 
 ●キーパー
 
 >その元となっている2章の数理モデルの有用性の考察すら行われていない
 それは違うんじゃないでしょうか。2章ではその後の議論の根幹になる「平場では収支期待値と順位期待値がほぼ比例する」という事を詳細に検証しています。これは非常に重要で、この事により3章以降平場で局ごとに収支期待値のみを追って議論することの「有効性」は保証されているはずです。従ってその数理モデルが「正確」なら3章以降の議論での帰結は間違っていないということになります。このモデル、kさんが以前指摘したようにベタオリに関しては相当怪しいものがありますが、一方で(自分の)リーチのデータに関しては実測値との比較による検証がなされていますから十分な精度が見込めるものです。ですからその局単位の数理モデルもある程度の有効性はあると言えるので「内容の正しさなどについては従来の麻雀戦術書と大差ない」というのは外れていると思います(誤差がちょっと大きいけど、凸本自身にも「いずれこの理論など『誤差が大きすぎて』使えなくなることを望む」みたいなことが書いてありますし)。
 まあ終盤での押し引き判断に関しては本ではほとんど具体例が出て来ずに2章の表から判断するしかないから不親切っちゃ不親切ですね。実践編作るならやっぱこの辺ですか。
 
 ●たそ 
 
 >凸
 モデルが厳密でないからダメだと言っているのではない。
 複雑系を厳密に解くことやモデル化することが無理なのはわかりきっている。
 私が問題だとしているのは、そのモデルの有用性、大雑把に言うと、
 そのモデルで麻雀を打つとどの程度勝てるのかということ。
 例えば、凸の提案したモデルの自動打ちソフトで東風荘で自動対戦を行い好成績を収めたら、
 そのモデルは全体として(シミュレーション方法やパラメータ推定方法も含んで)有用であると判断できる。
 それを検証するテストが工学的には必要ではないだろうか?
 
 また、「強い人」が自身の経験に基づいた麻雀戦術書を書き、
 その人はその麻雀戦術書に従った麻雀を打っているのならば、
 その麻雀戦術書は有用であると判断できる。
 
 なお、k氏は自分で作られた麻雀ゲームを自身がテスト対戦することで、
 相対的にその強さを測ろうとしておられる。 
 
 ●とつげき東北
 
 >たそ
 モデルに基づけば、今まで全く計算できなかったものが、実測値と近い値で計算できるようになりました、とか、モデルに基づいて山読みをさせたら人間より好成績がでました、実測値によるとこうした方がこうするより良いです、というのではダメで、「実際の場で」打って「どの程度勝てるのか」検証する必要がどうしてもある、と考えるのは君の美学にしかすぎない。
 もちろんそうした方がいいことは当然だが、検証にも色々な段階がある。ある値の実測値を(複雑な条件については未知のまま)求め、それと合うかどうかで判断するのも一つの検証方法だ。
 君の言う「工学的に必要(最終的な部分でのみ検証に意味がある)」が工学としての必要条件なら、論文の多くがゴミになる(君がどんな分野にいてその世界ではどうなのかはしらんが)。
 
 そのくせ、その大半が実際の「実力」を計測できないと思われる「強い人」とやらを持ち出して、「戦術書に従った麻雀を打っているのならば」という得意の形而上学的前提を置いて、「麻雀戦術書は有用であると判断できる」とか、狂ってる。何が「判断できる」だ。ある局面でリーチすべきかどうかについて、ある本の筆者が必ず本のとおりうっていたかどうかなど、誰も検証してないだろうし、検証の方法は非常に難しい。
 君はブログで「本人は常に同じように打っていると思っていても、時間によって、ほんのわずかなとはいえ打ち方の違いが存在すると思われる。」などと書いていたではないか。わざわざ確率と統計の差を解説しながら、私のやり方にケチをつけていたではないか。
 それなのにその場合は(何か神がかりの方法を君が使って)「判断できる」わけか?
 あまりにもご都合主義的な原理主義が鬱陶しい。
 
 有用な部分を見るやいなや、それより下の原理の部分に戻って「原理的な観点から」無効にしつつ、自分の認めたいものについては原理どころか何の厳密性も担保せずに「判断できる」と断言できてしまう神=君の、「大差ない」発言についての釈明はどうなのか。
 
 >けいすけ
 いや、「有用性」とかいう段階にとどまった上でも、彼の言っていることは偏っている。彼とは今まで何度か(麻雀を別にして)議論してきたんだが、どうもかみ合わない。
 原理的にできるわけもない、または環境的に困難な理想を掲げて、あなたのやり方は理想と違う、と言って叩く割に、実効性のある対案を出さない。
 出てきたものを横目で見ながら賛同したり(ああ、私もそう思っていたのさ)、反発したり(それはこの部分が違うね)はするんだが。
 わざわざ自らのブログにまで「科学してない麻雀w」などと題して書いてる始末。
 それはあんたの想い描いている理想の「科学」の世界だろうが。
 
 ●たそ
 
 指摘されている美学(最終的な部分でのみ検証に意味がある)を私は持っていない。
 個別の研究でも優れた結果は素晴らしい。(山読みのやつなんてむちゃむちゃすごいと思ってるよん。)
 今は手元に本が無いため定かではないが、2章の概容は「○○によって打牌選択を決める。
 その計算のためにはこのようなシミュレーションを使う。そのためのパラメータはこうやって推定する。」
 といった感じだった記憶がある。そのモデルの性能をちゃんと調べていましたっけ?
 私は2章を否定しているのではなく、2章の応用である3章に疑問を持っている。
 
 「強い人の麻雀戦術書」の例だと前提が成り立たないという指摘は認める。
 その例は変更して、「強い人の打牌選択そのもの」にする。
 強い人という語は漠然としているので、例えば東風荘R2100以上の人と読み替えてくれてもいい。 
 
 ●r
  
 > たそさん 最後の3行
 意味が分からないのでちょっと噛み砕いてもらえませんか?
 横から読んでいておもしろい議論だと思うのですが。 
 
 ●けいすけ
 
 だんだん軟化 
 
 ●あきら
 
 最初のとつげき関東氏の書き込み内容からこの議論内容への変化の激しさが素晴らしい
 凸氏が食いついたあたりで激化が促進されておるw 
 
 
 ※とつげき東北注
  ちなみに3章の「相手のリーチに対する押し引きの判断」において、2章に基づく筆者の理論・シミュレーション結論が、k氏の実装プログラム同士の対戦においておおむね正しいことが後に示された。「たそ」氏は、言葉の戦いにおいてほとんど負けただけでなく、最後に言い放った「私は2章を否定しているのではなく、2章の応用である3章に疑問を持っている。」という記述においても、「直感能力」における欠如を露呈したのである。
  もっとも、「数学的厳密さが足りず、結果が出ていない理論」を否定するかわりに、単に偶然優勝した麻雀プロの打ち方を「結果が出ているのだから統計的に正しい可能性が高い」などと考える彼の底なしの浅はかさ(「結果」の出方そのものが極めて大きな統計的誤差をはらむという事実に関する統計的洞察力及び検証の不足)から、それは予め想定されていたことだが。
 
 
 **mixiにおける議論その1 [#w6a21edd]
 
 「mixiのみんなの日記つまんねーよ!」という感覚に基づき、ちょっと書いてみた文章から発展した議論。
 この種の筆者の「感覚」を具体化・文章化するために、本ウィキは作成された。
 
 ●とつげき東北
 
 【知】mixiという脆弱な磁場
 
  mixiというサービスにちりばめられた数多くの絶望的に退屈な日記の数々を見る作業は、私にとって、友達などというものはできるはずもないし、また一切必要とされることもないだろう事実を改めて確認する作業に他ならない。 
 日記を書く「主体」とそれに反応する「客体」といった2項対立が、事態をますますつまらなくしている。 
 
  形式上は他者と呼ばれなければならないはずの、同じ姿かたちをまとった能面のように無個性な人々=個性的な人々が口にすることになるたくさんの平凡な日常の公開に対する、私の心の奥底から湧き上がる本質的なコミュニケーションの拒絶は、学習性無気力に由来するのかもしれない。 
 立場による論理の交換不可能性が確かに存在するのだとすれば、ことによるとmixiにおいて、私と「美しい女性」と、時として現れる神がかった救い手以外の全ての存在は、冗長たらざるを得なくなるのではなかろうか。 
 
  脆弱な感情主義者によって世界に張り巡らされた安易な悲劇装置が発動し、同じ類型の無能たちによって秩序が「回復」してゆくかに上演される、詐欺としてのコミュニケーション。 
  彼らはこんなことだけを続けて生きてきたのだろうし、これからも生きてゆくのだろうか。 
 
 「私はかわいそう」「君はかわいそう、でもがんばろう」「うん、がんばろう」 
 「私はかわいそう」「君はかわいそう、でもがんばろう」「うん、がんばろう」 
 「私はかわいそう」「君はかわいそう、でもがんばろう」「うん、がんばろう」 
 「私はかわいそう」「君はかわいそう、でもがんばろう」「うん、がんばろう」 
 「私はかわいそう」「君はかわいそう、でもがんばろう」「うん、がんばろう」 
 「私はかわいそう」「君はかわいそう、でもがんばろう」「うん、がんばろう」 
 
  悲劇が語られるとき、事態は既に終わっている。  
  
 
 【メモ】 
 
  制度化された「悲劇の上演」の問題が語られなければならない。 
  人々がかくも簡単な作法で不気味なモノを受け入れるその方向性について、詳細に検討される必要がある。 
  単に神秘主義としてとか、超人たりえない人間の「弱さ」として、感動主義について説明するのでなくて、実際に「感動的な言葉」の使用されるされ方、その状況、歴史、などの数々が取り上げられて、そこから学ぶこと。  
 
 
 
 ●とつげき東北  
  
 ここを読んでいるあなたがたとは全く関係のないであろうあるmixi上の人物の日記を読んで、どうにも違和感を打ち消すことができません。 
 どうしてあのような転倒が生じるのか。 
 なぜ発言の全てが、1つ1つ定量化される程度に誤謬に満ちているのか。 
 30数年生きてきて、なぜそのようにならざるを得なかったのか。 
 彼女は、まるで全てを見通したかのごとく語り続けています。そしてその全体が、奇妙なほどに転倒され誤っているのです。 
 
 私が過去に分析した道徳的用語を名詞・形容詞・動詞を適宜ランダムに入れ替えると、まさに彼女の言葉の全体が表現されてしまいます。 
 それらは狂いもなく、私がかつて封印し、既にのろいをかけたしろものなのです。 
 
 このような圧倒的な誤謬が発生する場を分析する必要があるでしょう。 
 真理でないものが<真理>として人々に認知される系譜学が今必要です。  
 
  
 ●とつげき東北  
  
 彼女の発言がいちいち癇に障ってしまうのは、それらが例えばニーチェを読めば、フーコーを読めば、ドゥルーズを読めば簡単に幼稚な間違いであることが明らかになる程度のものだからというわけではありません。 
 彼女が実際に周囲との関係において特権的に保護され、彼女の「思想」までもがフォローされるという構図が、致命的な不気味さとして私たちの前に放り出されるからに他なりません。 
 例えば仮に私と彼女が「論争」を演じたのならば、私は完全に彼女に「勝つ」でしょう。しかし事態はそのような方向には向かわないのです。 
 そしてこうした現象は、必ずしも彼女と私の間でだけ生じるものではない。 
 
 このことに関して、誰か何か言うべきことがあれば言っておいてください。 
 
 
 ●アムジー  
 
 >例えば仮に私と彼女が「論争」を演じたのならば、私は完全に彼女に 
 >「勝つ」でしょう。しかし事態はそのような方向には向かわないのです。 
 論争を行ったら凸は勝つだろうね。 
 しかし、彼女の聴衆にいかに支持され賞賛を受けるかという勝負であれば、 
 間違いなく凸のほうが劣っており完敗している。 
 
 >このような圧倒的な誤謬が発生する場を分析する必要があるでしょう。 
 >真理でないものが<真理>として人々に認知される系譜学が今必要です。 
 2行目は何が言いたいのかわからないけど、誤謬の原因を分析する必要はないでしょう。 
 凸は、自分が負けている相手の得意なフィールドでの勝負が面白くなく、 
 自分が勝つことのできる得意なフィールドに導こうとしているのでしょう? 
 
 自分のフィールドが相手のフィールドよりもいかに優れているか、 
 いかに価値があるかということを、相手に示し納得させることができたらいいね。 
 
 という私の考えですら凸は想定の範囲内でしょう。 
 もしそうならば、それにも関わらずここで持論を展開している凸の行為は私にはギャグにしか見えない。  
 
 ギャグと言うよりも釣りと表現したほうが的確かもしれない。  
 
 
 ●とつげき東北  
  
 文章を書き慣れていない人、とりわけ他者に向かって開示したことのない人が往々にして陥るのが、「私はこう感じる」の繰り返しを演じてしまうことである。例えば「なぜこの文章を書くに至ったか」を文章の冒頭に掲げてしまうようなやり方は、大学生のレポートによくある醜い形式である。 
 1:nの交流における1になるときを除いて、求めるもの=求められるものは、それではない。nである者は、nであることに自覚的に振舞わなければならない。そうしなければ、その関係性において1であり得る誰かに対して1:1になったつもりで語りかけてしまうような滑稽な態度を取ってしまう。 
 (筒井康隆氏は、「以前手紙を書いた者です。覚えていらっしゃいますか」で始まる手紙を見て、「お前など知るか。死ね」と感じたことを独白している。時に人々は、国が何か問題を起こすと、あたかも「信じられるもの」さえも自動的に何の代償もなしに国によって個々人に付与されるべきであり、それが滞るや否や「何を信じていいのかわからない」と述べて良いと誤解するような慢心を持つ。これらはいずれも、本来1:nの関係であるような特権的な1に対して、あくまでも自分が権利を持った個人として1:1でい続けられるかのような認識上の誤謬を持つことに由来する) 
 これは自由主義的な、個人主義的な、平等主義的な、認識に対する呪いがもたらした結末であり、「自分の判断」が大切とされるかのような徹底的な錯誤と同じ構造で迎えられている喜劇である。 
 
 私のここでの日記は、1:1ではない、少なくともすみれに対してそうではない。常にnを意識し続けてなければ、到底「面白い」ものなど書けはしまい。 
 
 >アム
 まさに聖域の存在への認識を欠いた記述である。 
 金やその他の「量」に交換可能なものとは異なる「質」としての体験というものがあろう。 
 例えば美しい女性との雰囲気の良い会話、自分で疑問に思っていた数学の問題が解けたときの知的刺激、プログラムが見事に作動したときの興奮、その他がそうである。 
 (余談だが、これらがあまりにも精神主義的だと思われるなら、金銭や量的なものと交換不可能なもののうち、ごく物質的なものの例を挙げよう。メラネシアのトロブリアンド諸島でおこなわれるクラと呼ばれる贈与交換の例がある。ムワリと呼ばれる腕輪は、ソウラヴァという首飾りとしか交換できない。同じように、ある一連の言葉が、社会的にかつ/または個人的に、金銭と交換不可能な形で現れるということは何一つ不思議なことではない) 
 このことを聞いてアムはいつもの調子で「当たり前だ」と感じるかもしれない。 
 ところがアムは、まさにその自明性を無視するかのような発言を繰り返す。 
 交換不可能なものを不適切な操作によって交換可能な形に定量化し、「勝ち負け」といった文脈に持ち込むセンスがそれだ。そのあまりに単純化された図式が、実情とかけ離れた「説明」になっていることを差し引いても、やはりその行為は浅ましい(もちろん定量化が必要であったり、それ自体が刺激である場合はいくらでもある。しかし私の行動について、ある種の幼稚な抽象を以ってアムが何がしか述べること、それも繊細でない方法で述べることに、一体何の「価値」があるのか? ――それが「自分の」趣味だとかいう、すみれ的弁明は不要である)。 
 例えば――あくまで例えば、私の書き込みが、とある聡明で美しい女性に宛てて差し出されているのだという可能性を、なぜ考えないのか。  
 
 
 ●アムジー  
 
 勝ち負けに関する記述は、凸の 
 >例えば仮に私と彼女が「論争」を演じたのならば、私は完全に彼女に 
 >「勝つ」でしょう。しかし事態はそのような方向には向かわないのです。 
 という発言を受けて書いたものだが? 
 勝ち負けの問題にすることができないのならば、取り消す。 
 
 改めて尋ねるが、 
 >このような圧倒的な誤謬が発生する場を分析する必要があるでしょう。 
 これはなぜ? 
 当然様々な要因が相互に関係しあうことでそのような結論に至ったのであろうが。 
 無駄に長く抽象的に表現せずに、単刀直入に表現して欲しい。 
 自分の思想を分析できている凸ならば容易いことであろう。 
 
 加えて言うと、凸の文章は装飾が多すぎて非常にうざい。 
 上の私への返信の本筋を簡単にまとめると、 
 「『勝ち負け』の問題にはできない。 
  私の行動についてアムが述べることに何の『価値』があるの?」 
 という2行で収まる。 
 無駄に長く書くことで、読者に「何か知らんけどすごい」 
 と思わせる技術に長けている点については脱帽している。 
 物書きで生きようとする人間には大切な技術だよね。 
 ただ、私はそのようなものに全然魅了されない。 
 
 >私の行動について、ある種の幼稚な抽象を以ってアムが 
 >何がしか述べること、それも繊細でない方法で述べることに、 
 >一体何の「価値」があるのか? 
 その「価値」の一部として、ここでの凸の評価を下げることで、 
 相対的に凸以外の人の評価が上がるということが挙げられる。  
 
 
 ●とつげき東北  
 
  アムは私の書き込みを2行にまとめ、自分が必要とする部分以外を「無駄に長い」ものでしかないと言い切る。1:nのnへの視線がそこにはまったくない。私が書く「アムの発言に対するレス」は、間違ってもアムだけに向けられているのではないし、アムに向けられているかどうかも疑われるべきだろう。 
 
  では、触りたくもない「本題」に移ろう。 
 「知的に進められる議論」に「勝ち負け」が生じることは普通の事実である。そして、私がある特定の人と議論をした場合に「勝つ」と予測することも、その道徳的是非を除けば、とりたてて何事も意味するものではないはずだ。その先に何が語られるか、または何が語られないかはひとまずどうでもよろしい。 
  ところがアムは「それを受けて」、普通は「勝ち負け」など想定さえもしないようなものを持ち出し、私の一つの負けの可能性を提示してみせる。将棋が得意だし好きだと話し始めた人に向かって突然「でもあなたの年収は誰がしかより低い。彼は勝つために、自分の得意な将棋で戦いたいのだ」と言って周囲を唖然とさせるような彼の子供っぽさは一体何だろうか。その主張自体がひどく間違っていることが問題なのではない。そうではなく、そこからそれ以上の何事も導かずに平然としていられる彼の姿を見たとき、私たちはそのただならぬ不気味さに驚かざるを得ないのである。 
 
  アムの言葉が呼び起こすのは、適度に知的であるべき会話において相手が「全ては信仰である」「自分が楽しければいい」などという説明をし始めたときに感じる、あの薄っぺらさへの倦怠感である。全体を丸め込み細部を隠蔽する「簡単な説明」を口にしてしまうのは、様々な現象に対して「全ては神がそのようにしている」という「矛盾のないまとめ」を提示してみせるのと同種のきわめて退屈な態度であり、そこには事象の仕組みが暴き立てられるときにもたらされる知的興奮の類が一切ない。 
 
 >>このような圧倒的な誤謬が発生する場を分析する必要があるでしょう。 
 >これはなぜ? 
  こうした問いは、彼が罹っているあの1:1の病気から生じる。すなわち、この質問は何の意味も持たない。「麻雀は統計的に分析される必要があるでしょう」に対して「なぜ」と問うということ、それが何を意味するか。 
  ――もちろんアムが、そのようなものを必要とする人のその仕方を、ほとんど想像もできず信じることもできないので教えてほしいというなら、私はアムに言語ゲームについての理解を求めることなく、私の感覚をそれとなく呟くことはできるだろう。私はそのようなことは決して望まないが。 
 
  1:nにおけるnは、1であってもならないし「全体」といった漠たる観念であってもならない。具体的にnの範囲を想定し、決定しそこに向けて言語を投げるという姿勢の有無が、ここで今取り上げられている問題である。 
  私は色々な事情から、表現をいじっている部分はある。それが「アムにとってどうか」をやはり最後に打ち明けてしまうしかない事態、すみれとアムとのこの点における奇妙な符合が、私がアムに対して思想的魅力を感じない理由の一つとなっている。 
 
 
 ●アムジー  
 
 >>凸 
 >私が書く「アムの発言に対するレス」は、間違ってもアムだけに向けられて 
 >いるのではないし、アムに向けられているかどうかも疑われるべきだろう。 
 なるほどね(笑) 
 
 凸は 
 >彼女の発言がいちいち癇に障ってしまう 
 や 
 >彼女が実際に周囲との関係において特権的に保護され、 
 >彼女の「思想」までもがフォローされるという構図が、 
 >致命的な不気味さとして私たちの前に放り出されるからに他なりません。 
 >例えば仮に私と彼女が「論争」を演じたのならば、私は完全に彼女に「勝つ」でしょう。 
 などと述べている。 
 これを将棋と年収の例に倣って例を作るならば、 
 「年収が多くてもしょうがない。将棋だったら私が勝てる。」 
 という発言に例えることができる。 
 これは幼稚ですか? 
 それともこのように例えることができないですか? 
 
 この件に関してもう1つ気になる点。 
 将棋を普通は「勝ち負け」が生じるものとして例えているようですが、 
 年収は普通は「勝ち負け」を想定しないものとして例えているのですか? 
 
 
 私は凸の 
 >このような圧倒的な誤謬が発生する場を分析する必要があるでしょう。 
 という発言の真意はわからない。 
 しかしながらいくつもの真意を推測することができる。 
 そして、2005年07月14日01:26 の発言を考慮すると、 
 凸は自分が勝てるフィールドに導こうとしているといる、 
 という可能性も少なからずあるであろうという結論に至った。 
 その可能性が全く無いのならば、私の推測は間違っていたということになる。 
 
 
 私は、「自分が楽しければいい」とも確かに考えている。 
 自分の幸福感が最も高くなるように行動すれば、 
 必然的に局所的最幸値(造語)に辿り着けると確信しているからである。 
 この幸福関数の形は当然私と凸とでは異なる。 
 凸が私の発言に知的幸福を感じないのと同様に、 
 私は凸のギャグにしか見えない知的な発言に知的幸福を感じない。  
 
 
 ●とつげき東北  
 
 >自分の幸福感が最も高くなるように行動すれば、 
 >必然的に局所的最幸値(造語)に辿り着けると確信しているからである。 
 
 まずはふと思う疑問だけを書き並べる(1つ1つレスする必要はない)。 
 幸福感。 
 どうやって計測しようか・・・ 
 仮に脳内ににじみ出るある「汁」の量のみでこれが表され、その量さえも簡単に測れるとしよう。 
 では、今日5幸福なのと、今日はガマンして明日6幸福なのは、どちらがいい? 
 30年間頑張って貯金してから、その後10年間ぜいたくに暮らすのと、今からほどほどに使うのとどちらがいい? 
 仮に幸福量の「合計」を最大にすることを目標とするとして、それを判断する起点はいつに設定すればいい? 
 
 理論の話じゃなく、実際問題として、「今日はだるいからサボろうか、いやでも学校いかないと・・・」という迷いに対して、看板として掲げる「幸福量最大化原理」がどう役立つだろうか? 
 
 幸福な方がよい、それは同語反復である。 
 「自分の幸福感が最も高くなるように行動すれば、 
 必然的に局所的最幸値(造語)に辿り着ける」 
 という「確信」は、「おれたちにとって」その同語反復以上の何も意味しない。 
 ※もちろん自分の幸福以外の変な何かを信じているやつら、というのとの対比で言えば、この同語反復は意味を持ち得るが、やっぱりおれに言う言葉じゃないよね。 
 
 君の、全てを理論に収められるようにみえる一種の錬金術的な「確信」の数々は、「すべては神がこうしている」という「説明」と同じものしか表していないのではないだろうか。 
 「昔の君」に対してその錬金術は有効であって、確かに行動や思考を「よりよく」変えさせたかもしれない。でもまあ色々なものが相対化された今、その種の「説明」を自分に言い聞かせることは、あんまり有効ではないと思うわけだ。  
 
 
 ●とつげき東北  
  
 そうそう、建設的に自分の感覚も書いておくと。 
 
 超越的な何か(自分を規定する理論だの、一つに統一される思考だの)はおれにはやっぱり信じられないわけで、それに似たものは数々の誤差をはらみながら、むしろ誤差を塗りつぶしながら存在するしかない。 
 おれらが例えば思う「幸福量最大化」なんてーのには、少なくともおれは、荒すぎる絵を見るときみたいな退屈さを感じる。 
 
 趣味の問題だが、どうせ誤差含みなら、もっと遊んで色々分析してみたらおもろいじゃない、ということよ。 
 アムは、誤差だらけさに無自覚っぽくみえてしまう。もしもそうなら、それこそ「全ては信仰である」からやり直さないといけなくなってしまう。 
 
 重要なのは「真理」ではなく、自分がどう世界を認識してどう関わるかというところでしょ。 
 幸福度最大、といいながら、目先の欲に負けて職場の女性を口説いてしまうのも楽しいじゃない。  
 
 
 ●アムジー  
 
 詳しく書いてないからそう疑問に思ったのかな。 
 >自分の幸福感が最も高くなるように行動すれば、 
 >必然的に局所的最幸値(造語)に辿り着けると確信しているからである。 
 という文だけじゃ確かに不満かもね。以前から考えていることを少し書くことにする。 
 
 まず、幸福というものをどのようにして計測するかという点。わかりやすく考えるために、ひとまず全ての幸福(もしくは苦痛)を金銭に換算する。今1時間寝た幸福に対して、寝ない代わりにいくら金銭をもらっていればそれと等価になっていたかなどを考える。もちろん、金銭では計り知れないものもあるので、その場合は無限大とでもすればよい。その後、金銭→幸福値への写像を行えばよい。(この写像の形は人それぞれであるが、おそらく皆幸福値は金銭について単調増加であろう。)また、金銭に換算せずに幸福値を考えても全然構わない。幸福値は絶対的な値ではないので、ある結果と別の結果ではどちらが幸福と感じていたかを判断できるだけの能力があればよい。 
 
 幸福値は、ある時点tにおいて、全ての行為の集合のうちのある行為を選択した際に、それより将来の時点t+τにおいて得られる幸福の条件付分布として得られるものとする。確率変数は自分以外の人や環境などである。また条件付分布の条件の部分は、時点t以前の自分の選択及び確率変数の観測値である。 
 
 時点の異なる幸福値を比較する際は、割引率を導入し現在価値に直して比較する。当然、割引率は時間に対して一定ではないため、一般に時間の関数である。 
 
 幸福値を最大化するように行為を選択するわけであるが、実際に選択する際には、将来の幸福の期待値の現在価値を最大化するように選択する。また、全ての行為の集合上で定義された将来の幸福値の期待値の関数が得られるわけであるが、この関数には極大値が多数あると考えられる。そこで実際には、取りうる行為の集合の中でその関数値が最も大きくなる行為を選択する。 
 
 幸福関数は時間的に異なる形を取るが、短い時間の変化に対しては、その形は大きく変化するわけではないと私は考えている。時間に対して連続微分可能であると思う。もしもある時点において幸福関数の極大値を取る行為を選択できたならば、その時点次の時点での極大値は、その行為を取った時の状況において取りうる行為の集合内にあると考えられる。すなわち、一度極大値を取ってしまえば、それ以降も極大値を取る行為を選択することができ、将来に得られる幸福値の期待値のフローの現在価値の和を極大化することができるのではないかと私は考えている。 
 
 ここまでが以前から考えていたことである。ミクロ経済、確率論、ファイナンスなどの知識を応用したにすぎない。上では数式を全く用いていないが、数式を用いたほうが凸にはわかりやすいかもしれない。 
 
 上で書いたことを実際に行うためには、幸福の条件付分布をどのようにして得るか、割引率をどのようにして決めるかという問題が当然付きまとう。しかしここで大切なのは、上のような考え方をすることで人間の行動選択(一種の哲学)を数式によって表し、分析することができるということである。経済学に通じるところが多いかもしれない。 
 
 現実の生活を送る上で、上のような考え方は必要かどうかと聞かれると、私は必要がないと考える。  
 
 
 ●とつげき東北  
 
 行為Aと行為Bのどちらを選択するべきか、という問いが必ず成り立ち、各々の結果の幸福値が1つの数直線上に並ぶ、少なくとも主観的になら常に並べられる、と見込むことが信じられない。 
 
 「仕事と私、どちらが大切なの!」 
 とブスに言われたら「仕事」の一言で返せるわけだが、美人に言われたらどうか。 
 仕事を取るのが幸福か、女性を取るか。 
 
 この問いはちょうど、「食事と排泄のどちらか片方を一生禁止されるなら、どちらを取るか」と同じ、不適切な2択なのだ。 
 明らかに、食事ができない時に生じる身体への変化と、排泄ができない時に生じる身体への変化は異なる。苦痛のありかた自体が違う。それをおれらは「苦しい」などという一言に収めるから、まるでその度合いが量的に比較可能なように錯覚するが、それらの「苦しさ」のモトになっている身体の状態の差異は、量的な差異ではなく質的な差異なのだ。 
 同じく、幸福にも色々ある。sexをしたときの気持ちよさと、本を読んだときの快感、旅行に行ったときの開放感は、違う。それらを幸福値に変換しようという作業は、「真の頭のよさ」を測るために、数学と国語と英語の成績を「どんな比率で混ぜ合わせるべきか」、を考えるのと同じ、不毛な作業である。 
 
 しかしそこに目をつぶって、「じゃあ仮に自分が食事と排泄のどちらかを禁止されて死ねと言われたら、どちらを選ぶのだろう」と考えることもできる。もちろんおれは、自分にとって「苦しくない」方を選ぼうとする。不適切な変換が行われていることを承知の上で、擬似的な問いである「どちらが良いか」を考えて選ぶ。結果、アムが言っている「計算」を意識して選ぶのと大差ない結論が出るだろう。違うのは、自分の選択が構造的に持っているその不適切さに自覚的であるかどうかという点だけだろう。 
 
 数式化によって誤差をはらみながらでも一連の分析ができたり、有用に使えるというなら良い。多様な脳や身体の状態の一つ一つについて、それが自分にとってどの程度「良い」と主観的に思えるかがわかっていて、確かにその計算で近似的に正しいらしい結論が出るようになったなら、そりゃあめでたいし効果的だ。そのような方程式ができるというならおれは大賛成だし、すぐにでも取り入れるだろう。 
 問題は、つらいことに、ある特定の身体の状態がどの程度苦痛かをあらかじめ知るために、その苦痛を実際に受けなければならないことくらいか(笑)。 
 風邪を引いているときほど風邪の辛さを実感できるときはない、とまあ必ずしも言い切れないが、立場や身体的状況や年齢や環境や知識の変化が、「論理的結論」を変化させることも思い出そう。 
 今おれは「美人はすばらしい」と主張する。必要ならば論理的に説明もできよう。だが80歳のおれは「美人はすばらしい」と主張しない。80歳のおれが論理的であればあるほど、ますますそうだ。こうした変化をも考慮して適切に式に組み込むことができるとき、幸福値計算などといったチャチなものは既に必要なく、世の中の全てがわっているのではないだろうか。 
 
 「神が降りてきて全ての正しい選択を教えてくれるなら、それを守るのが一番正しい。それによって幸福は最大となる」という主張はこれ以上になく正しい。「もしもそれが実現されるならば」という前提が置けるのだとすれば。その前提が成立すると信じていることそのものが一種の間違いであり(ご存知のとおり、神を否定する立場は「論理的立場」ではないから、ここで言う「間違い」は論理的な誤謬を指しているのではない)、アムはそれと同じことをしていると言っているのである。 
 
 だらだら書いたので、ちと自分の中でまとめ。 
 ・「幸福値」に変換する際に、量的な誤差ではなく、質的な違いが構造的に生じることを認識しているか(アムの書き込みを見ている限り、認識していないように思える) 
 ・実例をここで挙げたように、質的な違いによってあからさまにでかい「誤差」ができる状況がたくさんあることを認識しているか 
 ・「論理的な結論は状況によって変化する」が、そのような変化も含めて式を作ることができると信じているのか 
 ・「誤差」をなんとか処理でき、幸福値計算が適切に可能になった場合、既にそんな計算は不要とも言えるほど色々なことがわかっていると思われるが、見解如何 
 ・「神が降りてきて全ての正しい選択を教えてくれるなら、それを守るのが一番正しい。それによって幸福は最大となる」という言葉と、「冷静に考えて行動を決定し、幸福になるのが良いよね」という言葉がある。この2つよりもアムの主張の方がどのような点で優れているのか  
  
 
 
 #htmlinsert(google.txt)
 - いいね。こうゆう項目。いままで黒とつ、クズ論研究掲示板、そして当ウィキと議論のノウハウそのものはいろいろ示されてきたけど、読んで面白い「実例」はあんまなかったと思う。名言そのものへの分析もさることながら、それを実際に使う相手をどのようにバカにしたらよいのか(笑)などを議論の形式で見るのはそれだけで面白いだろう。だからこのウィキにもどんどん「敵」がでてくると楽しい。ヒトシンカ氏のサイトにあった「衆愚の花園」みたいなコーナーを作ってくださるといいのでは。 -- [[井中蛙]] &new{2006-05-25 (木) 08:48:50};
 - たそとの議論を追加したのか。この現場には居合わせたが、たその最後の発言における3章批判が、当初の論拠と変わってるのが解るな。この議論集を見る限り、今の所、凸ほど麻雀において科学的な調査をした人間がいないってのが、麻雀界の現状って感じだな… -- [[M]] &new{2006-06-01 (木) 04:45:46};
 - こんな儲からない事やる変態なんてとつげきぐらいだろうしな というか麻雀を数理的に研究できる知能のある奴なんてそうは居ないだろうし 所詮麻雀プロなんてオカルト集団って事か -- [[あ]] &new{2006-06-03 (土) 04:11:19};
 - というか、民間にPCが普及して、誰でも巨大な変数を扱えるような時代になる事を想定してなかったんだろうな<麻雀プロ だから、工学的なシミュレーションを扱える「アマチュア」がゴロゴロ出てきて、評価が下がってきたんだろう。それに、商業的に「流れ」とか漫画で出しすぎたし…しかし、一番最後の議論、凄まじいなw -- [[M]] &new{2006-06-03 (土) 08:25:28};
 - 自分にとって「苦しくない」方を選ぶことがなぜ不適切な変換になるのですか。「苦しい」ということと「幸福感が低い」ということは(ほぼ)同じですよね。 -- [[ido]] &new{2006-06-03 (土) 14:16:41};
 - 「苦しくない」方を選ぶ選び方は、いわゆる「総合判断」になるわけですね。
 「幸福値」という値になるとき、そこでベクトル値が「何らかの方法で」スカラー値になっている。たとえば「数学80点、国語60点」と「数学60点、国語80点」のどちらが「総合的に(主観的に)良いか」と比較するとき、例えば単純に足し算したりして「合計の値が140点」になるわけですけども。
 脳内等にある色々な物質の分泌の仕方や電気信号の伝わり方、色々な変数で表せる全体を、むりやり一つの数直線上にあらわされる「1つの変数」に直すとき、そこに必ず色々な「誤差」(正確には「誤差」ではなくて構造的な差異)が生じるはず。
 で、それなのに「幸福値」なるものを原理としておいて、それを計算づくで求めることができて、それを求めれば最適な行為が実施できる、と考え、さらにその求め方の関数まで作ろうとすることが、あまりにも非現実的だ、と述べているわけです。【参考】宝くじを買うのは期待値的に不利
 議論の中で書いているように、近似的にでもその「幸福値」なるものが出るなら、まあそれもよろしい。ところが実際、交通事故にあったときの痛さと、職を失ったときに感じるイヤさを、「幸福値求め関数」に入れて計算できるようになるには、結局その場その場で実際に交通事故に遭ったり職を失ってみなければ、なかなかわからない。年齢やその他あらゆる状況にもよる。にもかかわらず、そんな幸福値関数を作るとするなら、やはり「キンチョールを自分に向かって2分噴射した場合」や「1分噴射した場合」などに感ずる幸福さを、実際に確かめる等、あらゆる苦行に耐えてみるしかないのでしょうか。
 そのように、「幸福値」を求めるための準備作業全体が、実は幸福値を下げる結果に陥る可能性はないのか(例えばあらゆるブスとセックスせざるを得ない不幸さは簡単に実測できるが、逆に浜崎あゆみとセックスする幸福さは、簡単には計測できない。結局、幸福関数を求めるために行う作業全体は、大半が、不幸さを求める作業に近づいていく)。
 などなど。
 噛み砕いて書いてみたが、ido氏の質問に対しては、議論中で充分記述していると思う。第三者との会話を切りとっているので、話のつながりがちょっと不適切で、読み取りづらいと思うが、よく読んでみてほしい。 -- [[とつげき東北]] &new{2006-06-03 (土) 14:31:47};
 - やはり実際の議論中での組み立てと表現を見るのが一番おもしろいな -- [[マネ]] &new{2006-06-03 (土) 21:30:04};
 - 浜崎ぐらいの顔の奴なら繁華街歩けばすぐに出会えるけどな http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/ ha -- [[あ]] &new{2006-06-18 (日) 05:37:43};
 - やべぇめっちゃ出てるっっっっっっっっっっっっっっっw テラヤバスっっっっっっっっっっっっっっっw -- [[あ]] &new{2006-06-18 (日) 05:38:28};
 - 例えばあらゆるブスとセックスせざるを得ない不幸さは簡単に実測できる とつげき東北なんて不幸なんだ!orz -- [[あ]] &new{2006-06-18 (日) 05:43:30};
 - 例えばあらゆるブスとセックスせざるを得ない不幸さは簡単に実測できる とつげき東北なんて不幸なんだ!orz -- [[あ]] &new{2006-06-18 (日) 05:43:31};
 - こらこら、相手は普通の人になったんだから出すな(笑) とりあえず消しておく(笑) -- [[とつげき東北]] &new{2006-06-18 (日) 08:53:05};
 - '''' &new{2007-03-11 (日) 00:54:37};
 殺伐としている。あなたたちの心に光あれ。
  
 - ''[[j]]'' &new{2007-03-11 (日) 08:58:57};
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