*とつげき東北 [#rcb4ef60]
 
 
  ある種の実測やデータに基づいた結論に対しては、定性的な誤差要因を提示して疑問視しておけばこと足りる、という論法。
 
  筆者は麻雀について統計的に分析した書籍を出版したが、データに基づいた記述に対しては、麻雀プロを含む多くの人から以下のような反論が寄せられる。
 「あなたはAよりもBが有利だと言っているが、○○という条件ではAをする人がほとんどいないが、××という条件でならBをする人もいて、誤差がある。言い切れないのではないか」
 
  仕方なく筆者は、○○という条件と××という条件に分けた上で、同じデータを取り直すことになる(なぜわざわざ他人の論を批判する者が、この作業を行わないのかは謎である)。
  実際に反論した例は次のとおり。
 「指摘を踏まえ、以下集計結果を示す。
 ○○におけるAの有利さ 有効局数1352 和了率44.4%
 ○○におけるBの有利さ 有効局数342 和了率52.6%
 ○○においては B>A
 ××におけるAの有利さ 有効局数1484 和了率41.9%
 ××におけるBの有利さ 有効局数291 和了率44.3%
 ××においては B>A
 以上の統計と95ページ(※拙著『科学する麻雀』における理論)の考察とから、構造的にAよりBが有利と考えられる。」
 
  物事を定量的ないし合理的に厳密に論じることは、その結果を見て「誤差」の要因を探すことよりはるかに難しい。平均的な人間がその場の思いつきで感じる程度の「誤差」についてなど、ふつう、そうした行為をする人間は既に考慮済みである。
 
 「誤差」の要因はいくらでも挙げられる。「神が存在する可能性は0%ではない。そして神の意志によって、あなたの理論どおりに行かなくなる可能性も0%ではない」という形式である。重要なことは、当該誤差要因が、どの程度現実に影響を与え、そのために理論がどのような範囲において通用しなくなるかを直感的に洞察するとともに、詳細に論じることである。
  ところが凡人同士の議論においては、絶えず何も考えずに色々なことが語られるから、誤差を指摘して回るというだけで、優位に立つことができる場合も多い。
  それゆえにこの形式は大衆論法として成立するのである。
 
 #htmlinsert(google.txt)
 - ''[[Kanta]]'' &new{2017-01-14 (土) 01:18:09};
 「神が存在する可能性は0%ではない。そして神の意志によって、あなたの理論どおりに行かなくなる可能性も0%ではない」
 ~これは誤差要因というより、証明不可能要因では?つまり、そんなことは証明できないよって誤り論法。では?
  
 
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