*とつげき東北 [#l3d5084b]


 一部の能力の不足を捉えて、その他の各種能力を無効化するために発明された名言。一人の人間のたった一つの欠点を見出すだけで、当該人物の能力全般を否定できるために、この種の思考形式は、ほとんど犯罪的とも呼べるほどに悪用される。

 たとえば知的方面で大活躍している思想家に、ふと高校レベルの数学の問題を出したとしよう。残念ながらしばしば、彼はその問題を解けまい。同じく、暗号理論を研究している教授に、中学レベルの歴史の知識を問えば、彼はまごつくかもしれない。
 この例示は、文系・理系といった差のことを指しているわけではない。むしろ、ある分野にカテゴライズされる高名な物理学者が、ある大学入試数学をなかなか解けないということも全く不思議な現象ではない。
 そうしたことが、彼らのパフォーマンスの全体を否定する根拠になるわけではないばかりか、そのような些細な「失敗」が彼らの業績とは無関係であることは、自明である。

「ごく簡単な」ある一つのことができないことを論拠に、高度なこともできない、と考えるのは完全な誤りである。知識や知性はそのような「スカラー値」で表されるものではない。
 それにもかかわらず掲題のような発想が生まれる背景には、一義的には、
・高度な分野において、知識が極めて細分化されているという事実への無理解
・「IQ」的、「ひらめき」的な、一元的「頭の良さ」という迷信への賛同
がある。
 たとえ同じ「情報科学、コンピュータ科学」というカテゴリに分類される分野であっても、画像圧縮の理論とネットワークセキュリティに関する理論は、先端に行けば行くほどかけ離れたものとなる。片方についてはほとんどわかるが、もう片方については全くわからない、という研究者も決して少なくはないはずだ。いわば、「東大生」が必ずしも鉄棒が得意でないのと同様の「技術の細分化」が起きているのである(この種の傾向は、産業革命による作業の分担化、それ以降の第三次産業の発達等から始まる)。
 ある程度成熟した領域においては、もはや「基礎能力」だとか「頭の回転」などといった、「各種方面に適用可能な一元的な能力」などといったものは「存在しない」し、「何の役にもたたない」のである。

 だからいまや、一元的な「才能」「能力」などという言葉を安直に信じてはならない。「学力」や「IQ」といったものが、「色々な知的領域で活躍するための土台」であるということさえ、もはや怪しい。
 知識やサービスの種類が細分化されればされるほど、「基礎」が充分にできる程度では、各々の領域において時間をかけた者に追いつくことが難しくなるからだ。そうでないとすれば、全ての偉業は東大をはじめとする「一流大学」で学んだ人間が成し遂げなければならないことになる。だが現代において、売れる作家は、必ずしも「早稲田卒」ではない。もっとも優れた将棋のアルゴリズムを開発した人も、精密な麻雀の戦術書を書いたのも、片田舎の大学を卒業した何者かであった。「東大生がそれらをやっていれば」もっと優れた結果を出せただろうか――それは神話にしか過ぎない。

 一方で、「日常生活=大衆中心的局面」においてはどうだろうか?
 ふとしたひらめきや人間関係を円滑にする会話等、中世以降何ら細分化されないまま放置され続けている、体系化も理論化もされない粗野な「技術」こそが、重要であり唯一の「能力」の発揮場所である。だから彼らにとっては、「能力」はほとんど一元的ともいえる単純な「値」で表し得る何物かある。
 このような構造によって、低い世界に属する者たちは、そうでない者がうっかりすべり落ちるのを待ち構えようとするのである。ある程度複雑化した「議論」の最中に「日本語が通じないんですか?w」「そんなことは書いてませんよ?w」などといった呆れた発言が登場するのは、このためである。

 この概念は、「人間性」と組み合わせて使うと有効に機能する。「人間性」というある種の「能力」で劣った人物には、偉大なことなどできるわけがないというわけだ。

→本当に頭の良い人はわかりやすく書く
→本当にできる人は自慢しない

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- 彼女ができない奴に結婚ができるわけない  -- [[あ]] &new{2006-08-01 (火) 01:41:57};
- ↑こういう自覚的な形で笑いを取るセンスは「認める」。最近は無自覚なのが減ってきてつまらないけど。 --  &new{2006-08-01 (火) 13:53:59};

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