*とつげき東北 [#k4aeb33c]


「論理的」とともに、大衆の「議論」においてうんざりするほど用いられる語。
 確かに大衆同士の議論においては「論理」とはほど遠い言葉のやりとりが行われる。
 しかし、「論理的ではない」というような漠然とした指摘を何度も繰り返す連中が、知的な議論をしているとも信じがたい。

 相手が論理的でないならば、論理的な見解を示すか(数学やパズルの解法に関する議論など)、それとも相手がどう間違っているかを具体的に巧妙に示すかするのがセンスある行為であろう。
「論理」は突き詰めれば、認識論や独我論に行き着いてさまようのが落ちなのだから、「論理的でない」という攻撃は(それが「実証的ではない」や「原理的な意味で正しくない」という意味であるならば)「論理」を擁護する連中にも該当してしまう。
 同様に、前提を疑い続ける懐疑主義の立場に立つことが何かしら「論理的」であると誤解する者もいるが、論理とは前提から結論を導くための一定の推論形式(またはそのように進行する一連の議論)を指すのであって、前提を疑うことが論理的なのではない。


 さて、論理というものは、「誰もが同じ方法で同じ結論に至る唯一の思考形式」とまで言い切れるものではない。
 論理と言っても、古典論理学から述語論理学への「進化」は著しいものがあった。しかも、述語論理学によって古典的なパラドックスが「解決」されたことが、果たして万人の「直感的な」論理を覆すかと言えば疑問であると同時に、そもそも「論理的な」思考を誰もが好きで信頼すると考えるのは楽観主義と言うほかない。
 深刻なのは、議論において、論理を用いる際には「前提が違えば結論も異なる」という当たり前のことを忘れ、「これが論理的結論だ」と強弁する輩がいることである。
「若くてきれいな女性は、ブスよりも税金面で優遇すべきだ」という主張があるとしよう。個人的にはこれには大賛成であり、それが「正しい」とするための論理をいくつか提出することもできよう。ただ、私が80歳になって性欲がなくなったときに――仮に私が80歳になって論理的思考力を保っていたとして――、それを「正しい論理的結論」と見なすかどうかは別である。
 美人はそれだけで価値がある、という前提は、判断する者の立場等によって真であったり偽であったりするからである。今の私にはそれが真であっても、結婚し老齢になった私にとっては、そのようなことは恐ろしく瑣末なことであるかもしれない。
同じことは「学力の高い学生は、そうでない学生よりも優遇すべきだ」についても該当するだろう。
 判断する者の社会的あるいは個人的立場や知識の質と量、時として体調によってさえも、立つべき前提は変化し、「論理的に出す結論」も変化するのである。だから、論理というものがあっても、そして多くの人が論理の正しさを認めていても、なおも意見の対立が止まらないのである。
 それを無視して「これが論理的帰結だ」と息を巻いても仕方がない。

「では論理には意味がないのか?」といえば、そうではない。どのような前提が共有でき、何を仮定とした上で議論を進めることができるか、という共通認識があり、互いに議論を「論理的に」進めようとする場合には、正しい判断を発見できたり、前提の不備に気づかされたり、少なくとも表象の意見の相違がどんな認識の違いに起因するか等を突き止めることが可能となろう。
 ここで取り上げる「論理」が凡言となるのは、あくまでも「論理」という言葉が一種のイメージとしてもてはやされる場合に限る。

 なお、論理実証主義という言葉があるように、「論理的」という言葉は、実証的あるいは科学的な態度全般を漠然とイメージする際にも使われるが、論理(学)とそれらは本来、別物である。例えば人文科学の領域においては、「科学」を標榜していながら、実際には論理的でないものも数多く存在するし、自然科学の領域でさえも、先進的なことを試みている場合においては、かなり「あぶない」飛躍を繰り返すこともある。

 一つ、大衆向けの注意喚起をしておきたい。「論理」と「理論」は別個の概念であるから、辞書等で調べて、正しく使い分けるべきだ。

→飛躍

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