*とつげき東北 [#s992161c]


 本来は、ある推論が、論理学上の適切な操作を省いてなされる場合・様子を意味する。しかし実際にはこの言葉は、ある程度断定的になされる結論に対する、漠然とした違和感と反発心との表明としてのみ使われがちである。

 なぜこんなに「飛躍」が指摘されるのだろうか。
 3つの理由がある。

(1)
 1つは、論理的思考に慣れていない者が、実際におびただしく飛躍しまくる、ということが挙げられる。母親は、「関西で経済が発展しないのは、やはり関西人の人間性のせいやと思うわ」などと抜かしていた。何事かを[[自分で考えた>自分で考える]]つもりだろうか。「なんでも儲けよう、儲けようとするこすっからさとか、そういう醜い心が、逆に経済全体の発展を邪魔してるねん」だそうである。それを聞いていた筆者の姉(当時、経済産業省に勤務)は、わざわざ母親に「それは……飛躍やろ。経済規模の違いとか、そういう理由が大半でしょ」と教えてあげていた。

(2)
 次に、通常の人間はあまり論理的な思考ができないために、論理的に飛躍がなくても、飛躍であると捉えられるという場合がある。
「(1)AまたはB (2)A→C (3)B→D (4)Dではない」の4条件から、「C」を得ることは簡単に理解してもらえる、と思い込んで話を進めると、「飛躍」などと言われることがあるわけである。
 では以下のとおり「説明」すればことは済むのだろうか?
「
 では飛躍でないか示します。
 B(仮定1)
  B→D(条件) 
  D
  矛盾。
  Bではない
 Bではない(仮定2)
  Bではない
 仮定1及び仮定2より、Bではない(結論)
 AまたはB(条件)
 Bではない
 A(結論)
 A→C(前提)
 C(結論)
」
 もちろん、これで相手は納得はしない。これほど簡単な論理構造を判断できずに「飛躍」だと述べたからには、相手はよほどこちら側の意見が「キライ」なのである。あの手この手の別の条件を付け加えて、結論を「Cではない」に持ち込もうとするに違いない。

(3)
 本質的ものは「論理的飛躍」が、論理学の形態に密接に関係して、必然的に現れるものである、という第三の理由である。
 論理的推論とは、ある種の前提から結論を導くための形式であるが、それゆえに、前提が異なるまたは前提が正しいと証明されていない場合には、その前提に基づいた論理がいかに論理的に飛躍なく適切であったとしても、全体としては「飛躍である」と認識可能である。例えば、法律・刑罰等の制度の正しさを前提とするなら殺人は悪だが、その正しさを前提としない場合は、「人を殺してはならない」という推論は、一種の「飛躍」となる。
 ところが、論理的操作においては「前提を疑う」という作業は不可能なので、全ての前提はいくらでも懐疑可能であり、したがってどんな論理的な結論も、常に「飛躍」と呼ぶことができるのである。例えば「私は人間である」という「当たり前の事実」さえも、人間、私、等について完全に定義した上でさえも、やはり「飛躍」だと捉えることができるのである。なぜなら、「私が存在する」とか「この世界は、本当はイヌであるところの私が見ている夢ではない」等々の暗黙の各種前提については、まだ証明されていないからである(そして証明されることはない)。

 以上見てきたように、全ての結論は見かたによって「飛躍」たり得る。
 だが、だからこそ、(1)の意味での適切な使い方が求められるのであって、議論から逃げるためとか、相手が間違っているように見せかけるためといった、不実な動機をもって、(2)や(3)の「名言的用法」をしないよう気をつけねばならない。

→論理的でない
→へ理屈

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