*とつげき東北 [#v13ba7e0]

 現代化に乗り遅れたまま大衆に喜ばれる、「感動的芸術」と考えられている産物。

 建築も、絵画も、音楽も、そして(詩を含む)文学もとうの昔に相対化され、「芸術」はひとたび哲学的ないし美学的終焉を迎えた。はずであった。
 しかし大衆の思想は、いつでも時代の最先端から何世紀も遅れるものだ。
 それゆえ、「悲劇的な、または感動的な詩」が、21世紀を迎えたいまなお彼らにとっての唯一無二の「詩」であり、その「表現」に係る作業の安楽さから、各種蒙昧な連中によって引き継がれ受け継がれ再生産され続けるゴミとしてその残滓が残っている。

 何の技術も持たない大衆は、ゲームプログラムや楽曲作成や絵画描写や建築デザインではなく、こぞって「詩の表現」をしたがる。音楽雑誌でバンドメンバーを募集するコーナーでも、やたら「当方ヴォーカル・作詞担当希望」が目立つ。
 そういった者どもによって作成される「詩」は、そうと覚悟して読んでいても、ついつい噴飯を免れ得ない代物であることが多い。

 商業的音楽における「歌詞」が、平均的に極めて低い思想水準であり続けるのも、テレビドラマがそうであるのと同様、消費者の思想的レベルの低さに基づくものである。映画や書籍は「相対的に、能動的な姿勢で」閲覧されるという特質から、それなりにターゲットを絞ることができるゆえ、時として難解であったり知的に「深い」内容足りえるが、テレビドラマや「メジャーな音楽」においてはそうはいかないのである(当然のことながら、このうち閲覧に対してもっとも敷居の高い「書籍」が、もっとも思想的に深いものを表現できる。ここに一つの、「芸術」における一種の「経済学的限界」を見てとれるであろう)。

→(解説)歌詞に見られる名言性

#htmlinsert(google.txt)
- 「建築も、絵画も、音楽も、そして(詩を含む)文学もとうの昔に相対化され、「芸術」はひとたび哲学的ないし美学的終焉を迎えた。はずであった。」 詳しく教えて下さい。 -- [[トビ]] &new{2007-01-11 (木) 06:44:10};
- 思想はニーチェによって、絵画はマルセル・デュシャンによって、ピアノはジョン・ケージによって相対化された。他にも「○○の死」はモダンへのアンチテーゼとして安っぽくではあるがたくさん語られてきた。現代、普通に「詩」と思われている薄気味悪い文字列もまた、そうであったはずだったが、鈍感な連中はそれが起きたことさえ知らないのである。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-12 (金) 23:09:31};
- 知らなくても生きていけるしな。 -- [[あ]] &new{2007-01-12 (金) 23:33:21};
- ?相対化というのは「異なる立場に視点を移動して見ること」ですよね?なぜ異なる立場に視点を移動して見ることが終焉に繋がりそれ以後も続ける人間はバカになるんでしょうか?またとつげき東北さんがよく挙げるフーコーも哲学が相対化された後の人じゃ?でもとつげき東北さんが間違ってるというのは考えられないのでこれは私の無知無能から来る物だと思われます。宜しければご教授下さい。 --  &new{2007-01-13 (土) 02:31:12};
- 哲学的な文脈における「相対化」というのは、歴史的に、「○○中心主義からの離脱」であったわけです。人間中心主義、音声中心主義、ロゴス中心主義・・・その他。途方もなく長い間相対化できずに放置されてたバカらしい風習(いわば名言)が相対化されたとき、それ(名言)はやはりとてつもなく愚かしく見える。その一つとして「道徳的感動中心主義としての詩」がこの項目で取り上げられている。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-13 (土) 03:31:36};
- つまり○○をやるから愚かなのではなく○○の○○中心主義を相対化出来ないから愚かなんですね。つまり「道徳的感動中心主義としての詩」以外の詩や「音声絶対主義以外の音楽」なら問題ないと言う事ですか? --  &new{2007-01-13 (土) 05:47:17};
- 「DEATH NOTE」や「HUNTER×HUNTER」といったマンガの良いところは、作者が「善」への信仰を相対化していることです。結果的に、「賢い」と設定されたキャラが「善」に捉われた愚行をしない。マンガやドラマや映画で、大半の知的な人間ががっかりさせられるのは、「ここぞ」というときに、「賢い」設定の人が死ぬほど愚かな選択・会話・判断をする瞬間です。頭の悪さというのは、そういうつもりはなくても各種表現の中に露呈するものです。本題からずれましたが、「周囲の平均的な人間が詩だと認識しているキモイ文字列」こそが「詩」に他ならないと考え、そのくせ現代詩の動向を知ろうともせず、感動につつまれてまねごとをしてみるような例は救えないということです。言葉遊びのレベルに達しない「マイ詩」さらしてる人っていますよね。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-13 (土) 12:06:34};
- 「善」に捉われた愚行と言うのは登場人物が物質的利益が無いのに人助けをしたり仲間が傷つけられて怒ったり所謂残虐な行為を目にして怒りの感情を表す事ですよね?真に賢い人間は笑い以外の感情を封殺し道徳を無視でき常に物質的損得を考える、って事でいいんですか? -- [[トビ]] &new{2007-01-14 (日) 03:33:02};
- そのような「ステレオタイプな、冷静な(合理的な)人の行為」こそが、私が言った「マンガ等で表現される、『賢い設定の人が行う愚行』」の典型です。実際、ドラマなどで表現されたりし、「合理的な人は心が冷たい」といった描かれ方をすることもあります。そんな人はなんら合理的ではないのですが、製作者の頭が世の中の平均に近いほど激烈に悪いから、「頭のよい人」の考え方を理解することさえままならないわけです。それにより表現力が劇的に低下する。これを考えると、ストーリーを含む芸術表現の多くには知性が必須ですね。栗本慎一郎氏も「間違いだらけの大学選び」において、「カメラのシャッターを押すにも、日芸(日大芸術学部)程度の知性(偏差値)は必要でしょう」といったことを書いています(これは全国平均的な学力の人にはやや困難なことです)。ちなみに「合理」関係については、「宝くじを買うのは期待値的に不利」あたりが参考になるかと。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-14 (日) 04:56:34};
- 当然ながら、製作者の頭が激烈に悪い場合と製作者が大衆を理解している場合がある、殆ど全てが前者ですけど>『賢い設定の人が行う愚行』 --  &new{2007-01-14 (日) 05:35:19};
- うわ、相当恥ずかしい事を書いてしまった様です... -- [[トビ]] &new{2007-01-14 (日) 07:09:09};
- 最後に聞きたいんですが「賢い設定の人間が行う「善」に捉われた愚行」というのは具体的になんなんでしょう? -- [[トビ]] &new{2007-01-14 (日) 07:10:37};
- いえいえ、質問によってポイントが明確になりますのでありがたいです。「賢い設定の人間が行う『善』に捉われた愚行」の一例として、私の大好きな(笑)「博士の愛した数式(映画版)」をとりあげましょう。この博士、数学の人なのですが、事故にあい、記憶が保てなくなってしまい、まあまっとうな社会生活を送れなくなりました。それでも数学を愛し、最後の方には高額の懸賞問題を解いてしまうほど数学ができるのです。事故にあってしまったが数学を愛し続ける博士。ただ、そのような境遇に立たされた博士はいったいどんなことを考えているのか――凡庸なる知性しか持たない私は、少なくともそれがどのように描かれるか、非常にわくわくしていたのです。ところが映画の中盤、あるとき博士が急に頭をかかえはじめ、「(記憶が保てないため)自分は何も社会の役に立ていない」と悩みを吐露してしまうのです。「はぁ?」です。耳を疑いましたよ。次の瞬間確信しました。この映画はクソであると。ディス シネマ イズクソ、アンデュー? と。天才的な素養を持つ、悲しい境遇に立たされた博士の「感情」や数学への愛を描く――そういった「表現」への真摯な態度はこの映画にはありえないわけです。数学なんてやっている時点で、どう考えても「社会の役に立つ」わけがありません。数学研究のほとんどは社会の無駄です。そんな俗なことではなくて、無意味な強度への意志とか、そういったものが描かれなければ「数学への愛」など表現できようはずもない。私だって麻雀研究を「愛しているか」とまで言われたら、プッと笑うしかないですが、社会にも、そして自分の金銭的な収入にも役立たない「麻雀研究」のことが好きです。「数式への愛」と「社会に役立つ」、この二律背反性。「役立ちたい」などというカスな考えを持っているなら、少なくとも応用科学の分野に進まなければならないし、そうでなくとも、それが嫌なら早く自殺すればいいでしょうが。それを何ですか、臆面もなく「社会の役に立たない」って。博士は、一見深遠で奥ゆかしい感じの振る舞いをしているかに描かれていましたが、実のところ、こうした社会道徳的なクズな善悪の問題で「悩む」ためにそのうちの多くの時間が割かれてしまっていたのでしょうか。しかも登場人物から道徳的慰めを受けて以来、この件についてはそれっきりです。ただの自慰のための「悩み」だったわけです。役立たずは死ねよ。頭悪すぎです。底なしのバカです。事故で死ねばよかったのに――この見解は、一緒に観た女性(理系)とも完全に一致しました。まあこの映画はこのほかにもあらゆる恥ずかしい思想的低劣さにつつまれていたのですが、このシーンは強烈でした。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-14 (日) 07:36:03};
- 数学者が社会の役に役に立ちたいと言うのはお笑いだというのには完全に同意しますが「社会の役に役に立ちたい」というのはそこまでカスな考えでしょうか?自分の属する共同体を改善したいと言うのがなぜカスになるのか解りません。私が道徳に洗脳されてるからでしょうか? -- [[トビ]] &new{2007-01-14 (日) 19:42:08};
- あととつげき東北さんからすれば「物質的利益は無いが人を助ける」や「仲間や恋人がクズ扱い・傷つけられ・殺され主人公が激昂する」というのはありでしょうか? --  &new{2007-01-14 (日) 19:43:57};
- そういう「社会的承認を得る」程度のことを、普通の人が目指すというのはわかります。「会社でしっかり働きたい」とか言う同期もいます。とりあえずは、一般にはそれが正当な欲求だとしてもですよ、数学の天才で、懸賞問題を解いてしまう博士を描くのに、それをそのままあてはめるのは、あんまりじゃないですか。そんなもん映画で描くべきではない。大衆のものさしで偉人を測ることがどれほどつまらんことか、私たちは嫌というほど知っているはずです。フォン・ノイマンは、原爆の軌道計算などを手がけ、最期までアメリカの軍事戦略を支えました。原爆や戦争で人が死ぬかどうかについてなど、彼にとってはどうでもよかったのです。そこに真理があり、彼だけがそれを見出すことが可能だったからです。研究者として当たり前ですね。ところが大衆が天才を描こうとすると、上述映画で見られるような「大衆的な意味での社会承認」がなければ、彼ら(天才たち)もきっと寂しいのではなかろうか、といったアホな間違いが発生してしまう。自分たちの承認なくして天才なし、という一つの願望をそのまま実社会にあてはめようとしてしまう(例:「かわいそうな人ね」)。天才というべき本当に能力のある人は、「他者」からワイワイ言われなくとも、さんざん批判されても、自己承認が可能なのに。天才とは何の関係もない私程度でさえそうです。いい大人になって自己承認さえできない思想的無能が、「他者からの承認」を求めてさまようこと自体はある程度「自然な」、つまり凡庸なやり方ではあるでしょうが、現代においては単に精神薄弱だとしか言いようのないその種の思考を、いやしくも「天才」だとして描こうとしている対象にあてはめるのは、無礼じゃないですか。池田付属小学校乱入事件の宅間(死刑執行時は吉田)元死刑囚でさえ、死刑執行時には自己承認できていました。世の中がどんなことを言おうとも、自分はこれでいい、と考えていたと思われます。この映画に描かれた「天才」は、天才であるべきだったのに、宅間以下の思想水準だったというわけです。数学はできるがバカで愛らしいバカなバカを描こうとした結果そうなっている、というギャグ映画なら別にいいですけどね。「共同体の改善」という概念は、ほとんど幻想であり、やはり道徳的です。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-14 (日) 20:04:12};
- >「物質的利益は無いが人を助ける」や「仲間や恋人がクズ扱い・傷つけられ・殺され主人公が激昂する」というのはありでしょうか 状況によりますが、まあありですよ。ただその仕方が非常に醜く描かれていることが多いですね。「なんだとっ!?」とかですね。聞きなおしてどうするの。心底からの怒りは、できる限り胸のうちにしまっておいて、状況を好転させるために、狡猾にかつ着実に、自らの内面に生じた呪いの結果もたらされる「べき」不自由を相手につきつけていくべきでしょう。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-14 (日) 20:09:55};
- 面白いのは2003年にTBSがテレビ50周年記念で流した「さとうきび畑」というドラマですね。戦争による、沖縄での悲しい出来事等を描こうとしたはずのドラマです。ですが、この中で明石家さんまの演じる主人公は、「お国のために戦う」ことで家族や命を粗末にすることの「無駄さ」を、現代道徳に基づいて得々と語ってしまうのです。お国のために死んでいった全ての人に対する限りない冒涜であるとともに、死のふちに立たされて「お国のため」という理由付けを迫られ、うすうす間違いだと気付きつつも承諾せざるをえなかった若者たちのやるせない気持ちを、「平和がだいじ、戦争はよくない、みんな仲良くしよう」的なあっけらかんとした現代道徳にのみ立脚して踏みにじるという、恐ろしく非人道的なドラマでした。信じがたい醜さでした。大衆にとって「感動的」に他ならなかったこのドラマを、TBSはなんとテレビ50周年記念などと言って放送したのですね。大衆消費社会の愚かさへの記念でしょうか。自らの放送が、今後何世紀にもわたってこの低い水準のまま繰り返されるのだという嫌な予言のつもりでしょうか。それとも単純な一発ギャグだったのでしょうか。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-14 (日) 20:34:41};
- 凸氏がここでトビ氏等に説明をすることは「物質的利益は無いが人を助ける」に近い、少なからず何らかの利益(自己の幸福、欲求を満たす等も含め)がなければ人は行動しないだろ。 -- [[ ]] &new{2007-01-14 (日) 23:44:51};
- 知的な名無しが居る。 -- [[M]] &new{2007-01-14 (日) 23:55:28};
- ニーチェによる思想の相対化を手っ取り早く、かつ、正確に理解するのにおすすめの本があったら教えていただけないでしょうか。「一冊読むならこれ」という本。 -- [[えこ]] &new{2007-01-16 (火) 16:02:10};
- そうそう。忘れてました。わたし女です。 -- [[えこ]] &new{2007-01-16 (火) 16:15:24};
- 「善悪の彼岸」 -- [[D]] &new{2007-01-16 (火) 17:30:32};
- 特権階級ですねw -- [[M]] &new{2007-01-16 (火) 18:25:08};
- ありがとうございます! 何らかの利益がなければ人は行動しませんからね(笑)<特権階級 今後も私は女ということでひとつ。 -- [[えこ]] &new{2007-01-16 (火) 23:27:42};
- では特待生候補(稽燹砲貿定。ニーチェの思想を手っ取り早くかぁ。なかなかいいのがなさげだね。永井均氏のたとえば「これがニーチェだ!」は、まあ「個人的に」読んでてぜんぜん楽しくないし、講談社現代新書の「キリスト教は邪教です!」(誰が書いたかしらん)は5ページくらいで読むのやめたし。割と本格的に1から読むなら「善悪の彼岸」「道徳の系譜」(いずれも岩波文庫)をおすすめする。ただその前に、手前味噌ながらおれのHPの「黒とつ(http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/majimetotu2.htm)」の「神話から現実へ!」「『道徳ゲーム』の終焉」を読んでおくとずいぶん楽だと思う。今読むと恥ずかしいんだが(笑) まあニーチェというのは現代思想の根幹の大部分を構築した人と思うので、このあたりから入るとベター。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-17 (水) 01:06:27};
- 「権力への意志」(ちくま)はニーチェ上級者向け。他は・・・ん〜「ツァラトゥストラ」は駄作。そのほかはあんま覚えてない(笑) -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-17 (水) 01:08:53};
- ニーチェのどの言葉を見ても「あーこのことを言ってるのね。はいはい納得。」「あーニーチェ特有のこんな変な趣味のせいでまた同じ間違いしてるのね。くくく」と後付でわかるようになればとりあえず上級者と思う。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-17 (水) 01:14:58};
- 相対化したければ、「黒とつ」と「国家の品格」を読むことでしょうか?多分、ひとつの文献で相対化できることはないと思うけどな。対極があるからこそ、手っ取り早く(ってのがちょっとだけど)相対化できるのではないかなぁ -- [[キクロン]] &new{2007-01-17 (水) 01:22:37};
- 対極にある真理合戦をそのまま見ていると、どっちかに寄る場合が多いよ。そういう真理的対立自体が、クソゲーだと気づくところが第一歩ではないかなぁ。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-17 (水) 02:11:20};
- 郵政民営化は正しいか/正しくないか、右翼か/左翼か、という対立の構造がもう・・・ね。という。 -- [[とつげき東北]] &new{2007-01-17 (水) 02:12:25};
- > とつ うん、その通りだと思う。麻雀の流れの有無が、本来、結論だけや公式として覚えるようなことではないのと同様だと思う。 手っ取り早く、違いの判る女になりたいだけなら、ということ。 どちらサイドになるとしても、両極の色は見えるのではないかと。 良著も悪書も合わせ読み、思惟し続ける事が遠いようだけど最短。 追)「手っ取り早く、且つ、正確に」という人間が、ニーチェを読了できるかどうかすら ? なんだけどね(笑) まぁ、今、(私がなんと言おうとも) えこ が国家の品格を併せ読むことはなさそうだということは明白ですな(笑) -- [[キクロン]] &new{2007-01-17 (水) 09:21:50};
- 『科学する麻雀』と『超・入門・科学する麻雀』を併せ読むと効果大だそうです(十冊以上買わせると五百円のキャッシュバックでしたね?)。 -- [[M]] &new{2007-01-17 (水) 22:44:40};
- 返事が遅れてしまいましたが私の愚な質問に親切に答えて下さってありがとうございました。そこらの自称健全な市民よりよっぽど親切な方だと思いますよ、とつげき東北さんは。 -- [[トビ]] &new{2007-01-22 (月) 23:54:25};
- '''' &new{2007-02-28 (水) 19:18:57};
善悪の彼岸を読んだが全然分からなかった。
難しいなー。
 
- ''[[通りすがり]]'' &new{2007-04-08 (日) 01:23:14};
横槍でスンマソ
現代化という視点は変な気がする
古典にも良さがある
ただ別に、アフォや無能を正当化しているわけではないが
~個人的には詩は 一般化し ケーススタディができ アフォリズム的であるという点で凄いと思うのだが
 
 
- ''[[M]]'' &new{2007-04-10 (火) 23:29:00};
詩ほどそうした観点から遠い文化は無いと思うが…
詩って、データベースから無作為に抽出した言葉を伝統的文法に則って表現した事ちゃうのん?
 
- ''[[時間]]'' &new{2007-04-10 (火) 23:39:04};
そんな原理主義になることもないと思うが
運のみとなったゲージュツにも、一部にはセンスを認める軽やかさもいいぜ
 
- ''[[M]]'' &new{2007-04-11 (水) 20:59:37};
エミネムとかマンソンとか黒夢とか、クレイジーでクールな詩は好きなんだけど・・・最近なぁ・・・・・・
 
- '''' &new{2007-04-12 (木) 16:02:48};
バナナの皮で転んで打ちどころが悪かったら全てが終わってしまうような無意味な世界において、死の恐怖と笑いを同時に表現出来るのは、例えば文学と称される行いなんじゃない。運のみと言えばそらそうだけど、それを前提としても、凄い詩は「数学」並みに揺るぎないものだよ。
 
- ''[[M]]'' &new{2007-04-12 (木) 19:23:41};
前半は同意するけど、後半がどうしても馴染めない。例えば、どんな名作にせよ何回も読んだら飽きてくるし、駄作でも違う環境で見れば何かしらの感嘆と教訓が埋もれてたりするわけで。
~知識や知恵やら以前に、何と言うか、飢餓感に似た何かが俺にはもう無いのかもしれんなぁと思うこの頃…
 
- ''[[Revin]]'' &new{2007-04-16 (月) 14:21:19};
歌詞ではなく「詩」であるなら、思想的に高い(凡庸に終わらず、笑い・「うまくいったものだなぁ」と感心できる)ものはあると感じるね。
例えば戦前に没した中原中也という超有名な詩人が居るが、その作品を読むと思わず笑ってしまう。
参考:http://kyoto.cool.ne.jp/k_bamboo/mikanshisono2.htm#kyoukinotegami
こうした詩から読み取れる面白さは「自動的でない」し、独特と感じる。
さらに、小説などでたまに面白おかしくパロディ的に引用されていたりして(「どうして殺したんだ!」「気がフーッと致した」のような)、こうしたものを楽しむことは非名言的で、優れた映画や音楽を楽しむのと同じ水準の行為です。
 

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