*とつげき東北 [#s1e18da2]

「わかるときがくる」という将来的な予言よりも、いっそう即時的な「勝ち」が必要とされている際に大衆が用いる、「自分たちだけがわかった側の人間である」というアピールに用いられる語。

 平均的な知識しか持たない者たちは、たとえば何の思想的背景も持たなくとも、いつでも「わかった側」に立ったように振舞うことが可能である。いかに自分がわかっていないか、という問題に鈍感だからだ。
 もちろん彼らは大衆であるから、できることなら彼らの「周囲の人間」の賛同や、圧倒的多数を占める彼らと大差ない水準の愚物たちからの応援を受けたがるわけだが、それさえもままならない場合には「わかる人にだけはわかる」と範囲を限定することにより、孤立無援であってさえも「勝っている」ことができるのである。

 麻雀議論において、筆者に対して「流れ」の存在を熱く語っていたある相手は、当初「こういう場面で流れを感じられないのか?」「なぜわからないのか?」などと述べていたのだが、筆者の統計データに基づく反論を受け、周囲からも若干批判され始めた結果、掲題の語を用いた主張に後退してしまった。
「流れ」が実際にあるかないかはこの際どうでもよい。
 着目すべきは、「当然自分が正しく、相手だけが間違っている」という構図から、「当然自分が正しく、相手とその周辺人物は間違っている」という構図への、一般的にはしばしば見過ごされがちな転換の形式であり、また、その過程においても神々しい同一性を保持され続けることになる「当然自分が正しく」という「前提」である。

 もしも彼らが彼ららしさをいかんなく発揮し、いつものように相手を説得する術を失ってしまったとしても、「あの人には何を言っても無駄」「彼は偏っている」「宗教のようだ」「自分の意見に凝り固まっている」といった名言につなげることで、相手のみを「正しい側」から切り離すことが可能である。

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