*とつげき東北 [#k056dab3]

 小説、マンガ、映画等の名言性について、「知的に」評論する項目。
→(名言的作品紹介)
→(解説)歌詞に見られる名言性

**映画「硫黄島からの手紙」 [#uaa0a89c]
 
 2003年にTBSがテレビ放送50周年記念で流した「さとうきび畑」というドラマは、戦争による、沖縄での悲しい出来事等を描こうとした「はずの」作品であった。戦争ものの好きな私は、「50周年記念」とまで銘打った本作を見るために、ほぼ半年ぶりにテレビのスイッチを入れたものだ。 
 ところが、明石家さんま演ずる主人公は、「お国のために戦う」ことで家族や命を粗末にすることの「無駄さ」を、現代道徳に基づいてひどく饒舌に、かつ得々と語ってしまい、「お国のため」に死んでいった全ての人に対する限りない冒涜を繰り返す、というだけの無礼なキャラクターに過ぎなかった。 

 何も私は、嘘と世論誘導とやらせとに塗り固められたゴミのような情報ばかりをさかんに提供しつづける「テレビ」と呼ばれる電子機器の放送に、さして大がかりな期待を寄せていたではない。単に、わずかばかりの感傷的高揚感を得られればと思ったまでだったのだ。 
 それにしても、死のふちに立たされて「お国のため」という理由付けを迫られ、うすうす間違いだと気付きつつも承諾せざるをえなかった若者たちのやるせない気持ちを、「平和がだいじ、戦争はよくない、みんな仲良くしよう」的なあっけらかんとした現代道徳にのみ立脚して踏みにじるさまを延々と描写するという、恐ろしく非人道的なこのドラマが、いったい私にどれほどの失望を与えただろうか。 
 大衆にとって「感動的」に他ならなかったこのドラマを「50周年記念」などといって放送するという失態は、大衆消費社会の愚かさと、それに付随して必然的に起きる「表現の死」への記念だったのだろうか。あるいは、自らの放送が、今後何世紀にもわたってこの低い水準のまま繰り返されるのだという嫌な予言のつもりだったのだろうか。 

 実写の「シリアスな」映画の表現が遭遇する困難を2つ挙げるとすれば、1つは、リアルであるがゆえに「創造的な」舞台を用意できないという困難さと、もう1つは、大衆消費という経済的限界によって表現内容が強く制限されるという困難さだろう。 
 アニメや漫画等の世界観は、一種確立されたメタレベルでの共通理解が用意されているのに対して、実写ではそういったメタレベルの意識合わせが難しい。これが1点目である。漫画等では、主人公が魔法を使うにしても、すんなりと「そういう『設定』なのだろう」と瞬時に読者が受け入れることができるし、そうであればこそ、アニメ映画において、比較的高い場所から転落した際に登場人物が死なずにおくようなストーリー展開も、さして製作者側の負担とならないものだ。「なぜ助かったか」をどう描写するかに腐心せずに済むわけである。 
 マンガ等向けに若干過剰に作られた登場人物(キャラ)の動きの「クセ」も、アニメの絵であれば嫌味なく流すことができるものだ。一方で、リアルな人間の顔でそれと同じ「クセのある動き」をするときわめて不気味になる。アニメや漫画が実写映画化されるときに嫌というほど私たちの感覚を逆なでするのは、おびただしい量の「不自然さ」への違和感であろう。 
 とはいえ、CG技術の著しい発展に基づく「ここでない世界」の描写技術の進歩と、アニメやマンガの劇的な人気に基づく同時多発的実写映画化の流れに乗じてさえいれば、こうした感覚を観客の「厳しい」目から遠ざけることが不可能とまでは言うまい。 

 しかしながら、2点目については深刻であると言わざるを得ない。 
 映画は、売れなければならない。 
 ここには過去と異なる背景がある。かつて、映画は、観客によって選択的に望まれ、「劇場まで楽しみに観に行く」ものに他ならなかった。したがって、後発であるテレビドラマが「一般受け」のみを考えた低俗な「垂れ流し」の作りで済んだのと異なり、あらかじめ能動的に当該映画を選択する観客に宛てて制作されることができたのである。 
 だが、映画が即時にDVDとなり、レンタルにより流通するようになった現代、あるいはインターネット等で各人が映画についてあらゆる情報を共有可能となった現代にあっては、テレビほどではないにせよ、映画に付随していたはずの「能動的に受容される表現」という特権は半ば失われ、それは「受動的な表現媒体」に接近してしまった。「みんなが見ているから寄ってみよう」「多くの人が感動したと言うから見よう」といった市場主義的効果がもたらす一種の「芸術」ないし「表現」にとっての否応なき限界性が、いよいよ映画にも迫ってきたのである。 

 さてここでようやく、掲題タイトルの映画が登場する。 
 1個人が率直な感想などを述べる権利を有すると仮定すれば、本作は楽しめた。私の涙腺が「戦争」、とりわけ「玉砕」といったものに脆弱であるということを差し引いても、大粒の涙が2〜3粒こぼれた最近の映画と言えば記憶に古い。シリアスな実写映画の大半が2時間の苦痛を味わう自己鍛錬の修行、さもなければ美しい女性とのデートの口実としてしか機能しない存在であることを加味すれば、本作にお金を払う価値は非常に高い。 
 しかしそうでありながらも、ところどころに噴出する「大衆への迎合」めいた表現は、かなり意識的に視界から除外せねばならなかった。のめりこんで画面をみつめて涙できる作りにはなっていなかったのだ。 

 まず私たちが最初に目撃することになる残念な表現は、「悪」の上官が兵士を「理不尽に指導」しているのを見て、渡辺謙演ずる「善の」栗林忠道陸軍中将がそれを止めるという場面である。上官と一兵卒との間に恒常的に保持されねばならない関係性は、「善」によって容易に覆され、上官は「悪」であったがゆえにほぼ不当ともいえる冷遇を受ける。 
 善なる中将は最後まで人間性の高いキャラクター、ありていに言ってしまえば「大衆=弱い者の味方であり、弱い者にとって目の上のたんこぶたる悪い権力者を超えた能力を持っており、悪い権力者を批判・否定し、悪人に惨めな思いをさせて仕返ししてくれる存在」であり続ける。この構図を保ち続けるため、本作では味方も敵も、「善人」と「悪人」という概念でほぼ明確に2色に塗り分けられる(もっとも、敵はほとんど登場しないが)。 
 登場する「悪人」はたいてい冷酷で、残忍で、しかもいざとなると誤った判断を下し、最後には惨めな結果を迎えることとなろう。この映画においては、人間性の低い者は、人間性が高くてより能力が優れた者に退治され、大衆は救われるのだとするある種の幻想――「本当に頭の良い人はえらそうにしない」「弱者を救う人こそ本当の強者」といった大衆の好む幻想――が実現されている。ちょうど、悪の科学者が、はるかに才能の高い善の科学者によって始末されるといった伝統的パターンに見られるのと同様の。 
 だが私たちが生きている日常における「事実」は、決して必ずしもそうではないはずだ。そこに真実があり、真実が戦時という非常時においていかなる様相を見せるかが表現されねばなるまい。 

 本作で描かれる「善人」はもう1人いる。1932年のロサンゼルスオリンピックに馬術で出場した西竹一陸軍中佐である。確かにストーリーに取り入れるにはふさわしいし、史実どおり実在の人物であった。 
 だが、その扱いも結局は「凡庸な善人」の範疇から逃れ得なかった。能力が高く、慈愛に満ちており、周囲の反対を押し切ってまで怪我をした敵軍兵士を助けてみせる。日本兵のために使用されるべき貴重な水がこの捕虜に与えられ、捕虜はオリンピックの自慢話を聞かされて「日本兵との心の交流」を演出させられると同時に役割を終え、衰弱死することとなろう。一体この「捕虜の救出」にいかなる作戦上の価値があったのだろうか。戦争で亡くなった人物を、「安直な善人」に仕立て上げ、愚昧な行為を「美しい行為」として表現するのはほとんど侮辱に近いだろう。 
 そうではなく、普段は兵士に対して冷酷に振舞う「悪人」とみなされるような人物が、戦争という極限状況下にありながら、ふと何らかの「気分」によって相手を見逃すようなこと(『戦場のピアニスト』においてドイツ将校がそうしたような)、逆に普段は温厚な者が、あるときあるきっかけで苛烈に「敵」を殴り殺すようなこと――まちがいなく人間の中に存在するはずのそうした繊細な感情の動きが描かれなければならない。だが、「善悪」という2項対立によって無様に塗り分けられるストーリーにおいては、それは大衆向けの表現の「対象外」となるのだ。決して、最後の最後で準主役がシャベルを使ってしてみせたような行為――ここではこれ以上語らないが――は、表現されてはならないのに。 

 本作はそれでも比較的淡々と事態の推移を見せることに成功してはいる。 
 冒頭で挙げたドラマや、他の一般的な駄作映画に比せば、本作はまさに「名作」と呼ぶに足るあらゆる要素を持ってはいる。時折泥のように付着している鬱陶しい感動的道徳も、見てみぬふりをして回避すれば、充分に心を動かされはする。 
 ただ、本作が果たして「表現の死」に充分抗い得ていたかについて、私は未だに納得できずにいる。 

#htmlinsert(google.txt)
- ''[[月]]'' &new{2007-01-24 (水) 12:47:47};
私は、自分の内面を形にして外に出すことが表現だと思ってます。映画を作った人が同じ考えで、「採算をとるために大衆受けを狙い過ぎて、自分の主張を出せなかった」と思っているなら、それはその人にとっては「表現の死」ということになると思います。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-01-25 (木) 23:13:37};
>月
それはかなり古いタイプの「表現」の定義ではないかと……。
内面がない表現、あるいは内面よりメタなものの表現、というものもあると思いますが。
いずれにしても、結果として投げ出される「表現」の形式に、消費主義等による事情等のワクがはめられて多様性が失われることはやはり、「表現の死」です。
 
- '''' &new{2007-01-26 (金) 05:53:25};
”私の涙腺が「戦争」、とりわけ「玉砕」といったものに脆弱であるということを差し引いても”
~本当ですか?だとしたら物凄く以外です。
そう言う事はせせら笑うイメージがあったんですが。
 
- ''[[月]]'' &new{2007-01-26 (金) 15:04:57};
>とつ
かなり古いとか言われると思わなかったんですけどっ
~内面のない表現・・・メタは「超越した」って意味ですよね。
うーん、どういう作業で生み出されるのか、私には想像できません。
ちょっと憧れはしますけど。
~
 
- '''' &new{2007-02-09 (金) 00:25:57};
せせら笑う人も同様に、「お国のため」と同次元の何かを抱いて溺死していくわけですから。
 
- '''' &new{2007-02-09 (金) 04:25:33};
>>決して、最後の最後で準主役がシャベルを使ってしてみせたような行為――ここではこれ以上語らないが――は、表現されてはならないのに
~で言われているシーンは善悪の2項対立的表現ってことですか?
見た感じでは戦場における心理よりと思ったんですけど。
僕の理解力が低いんかな?
 
- '''' &new{2007-02-25 (日) 19:05:50};
>>一体この「捕虜の救出」にいかなる作戦上の価値があったのだろうか。
情報を聞き出す為ではないでしょうか。
>>決して、最後の最後で準主役がシャベルを使ってしてみせたような行為――
>>ここではこれ以上語らないが――は、表現されてはならないのに。
中将のピストルを奪った米兵を見て激昂した様に見えましたが、深刻な問題があったんですか?

 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 19:15:24};
>'''' 2007−02−09 (金) 04:25:33
>'''' 2007−02−25 (日) 19:05:50
~「中将のピストルを奪った米兵を見て激昂した」部分が、いかにもドラマやマンガで表現されがちなパターンである。仮にその行為までは許容されるにしても、その表現手法も「いつものアレ」(遺品が画面に映り、それを目にした主人公が深刻な顔をわざわざして一瞬動きをとめ、それから「ウワーッ!」て)。
雄たけびをあげながらシャベルを空に向かって振り回すのは愚昧。
せめてその相手につっかかっていってシャベルで殴れ。
それに、明らかにあぶない主人公について、敵兵が「撃ちますか?」みたいに言ってるところも笑った。さっきまで無防備な敵をどんどん撃ってたやろうが。「主人公だから遠慮する」ことなく、はよ撃て。もうはよ撃たれろ。鬱陶しい。
という意味で、表現が非常に陳腐で「ドラマチック」だった。
~>>一体この「捕虜の救出」にいかなる作戦上の価値があったのだろうか。
>情報を聞き出す為ではないでしょうか。
~いや、単に「心の交流」をして西中佐の人間性の高さを演出するためでした。
何一つ情報を聞き出そうとしなかったかわりに、史実によると日本兵の水不足が深刻だったにもかかわらず、無駄に捕虜に水を与えた上、捕虜は次の日には死にます。死んだ捕虜の手をキリスト教的にあわせてあげたりもします。プッ
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 19:21:17};
もともと主人公は徹頭徹尾現代道徳的な考え方で、気にくわんかったね。
まあ現代の映画なので現代の観客に共感させるためのしょうがない措置だろうけど、行動全てが現代道徳的でうっとうしかった。「さとうきび畑」のさんまに近い。まさに表現の死です。
~この映画で「悪」に描かれている上官の行動の方に感動したわ。戦場のピアニストの主人公は現代道徳的でなくていいよ。だからそっちはしばしば「自分のことしか考えず、逃げ回ってばっかりでいやな感じだった」といった言われ方をすることもあるのだが。
 
- '''' &new{2007-02-25 (日) 19:35:05};
>雄たけびをあげながらシャベルを空に向かって振り回すのは愚昧。
>せめてその相手につっかかっていってシャベルで殴れ。
いや、避けられてたじゃないですか。
>さっきまで無防備な敵をどんどん撃ってたやろうが。
別の部隊じゃないですか。藤田中尉が撃たれて大分たったみたいですし。
なるべく生け捕りにする様に命令されてたかもしれない。
有りだと思いますよ。あのまま撃たれるのも有りだと思いますが。
また西中佐と捕虜の話は史実だと聞きました。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 19:48:28};
思いっきり空を切っててとても真面目に人に襲い掛かる動きではなかった。
「まるでシャベルを振り回す様子を『観客』に見せることが主目的であるかのように」な。
クライマックスだぞ?
何あれ。ジャンプのマンガ?
~そだな、個別に見れば最後撃たなかったのはそういう背景があってかもしれん。じゃあそれをちゃんと描け、ということでしょ。まるで安っぽいドラマを見ているように観客に誤解させないための表現を。
~>西中佐と捕虜の話は史実だと聞きました
それならいたしかたないが、シャベルをドラマのように振り回したのも史実かな。
真実と真実ならざるものを、「道徳的観点」に帳尻あわせして、ごた混ぜにして美化する表現はやだねぇ。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 19:52:22};
既に書いたように、この映画は全体として完成度が高い。
~ただ、大半の感動的実写映画が陥るのと同じ「過ち」を犯している。
つまり、現代道徳につじつまを合わせた「善/悪」の対比や、そのために使用される名言的表現への迎合。
それに抗おうという、表現者としてのモラルが見たかった。
~そういえばテレビのオムニバスストーリーの実写「ドラマ」だが「世にも奇妙な物語」はそのへん大変優れている。
 
- '''' &new{2007-02-25 (日) 20:00:07};
西郷が撃たれなかったのも
「 そうではなく、普段は兵士に対して冷酷に振舞う「悪人」とみなされるような人物が、戦争という極限状況下にありながら、ふと何らかの「気分」によって相手を見逃すようなこと(『戦場のピアニスト』においてドイツ将校がそうしたような)、逆に普段は温厚な者が、あるときあるきっかけで苛烈に「敵」を殴り殺すようなこと――まちがいなく人間の中に存在するはずのそうした繊細な感情の動きが描かれなければならない。」
と言う事なんじゃないですか。
見張りに命じられた兵士が何かの気分で捕虜を射殺するのと部隊の指揮官が何かの気分で生け捕りにしろという事。
それにとつげき東北さんが言う様に単純に善玉と悪玉に別れてる様には見えませんでした。
というかむしろ善人も悪人も関係ないと言う印象を受けましたよ、特に伊藤中尉と言うキャラクターからは。
西郷は確かに現代的価値観が見え隠れしますが鬱陶しい程じゃない。
生きては帰りたいが「お国の為に」戦うと言う事に違和感を覚えていない。
>>真面目に人に襲い掛かる動きではなかった
精神も体力も極度に疲労してた人間ならあんな物じゃないですか。
そもそも本人も何をしているのか良く解っていない感じでしたし。
>>シャベルをドラマのように振り回したのも史実かな。
西郷と言う人間の存在自体がフィクションですから。
 
- '''' &new{2007-02-25 (日) 20:10:32};
とつげき東北さんの言う「悪人」と言うのは栗林中将に事あるごとに反対した海軍や陸軍の将官や兵隊をやたらと虐めた上官などの事ですよね?
しかし実際にも栗林の海岸を放棄すると言う案は反対されましたし海軍と陸軍のいがみ合いも戦争と証されるほど相当な物がありました。
部下虐めも陸軍では日常茶飯事で兵隊が何かと理由をつけられてビンタされるのも普通です。
~失礼かもしれまえんが、とつげき東北さんの錯覚だと言う事はありえるでしょうか?
つまり、作成者が旧軍に関する史実を描いたらそれをとつげき東北さんが勘違いしたと。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 20:14:10};
前段。
それはあまりにもドラマチックだ。
一定の意味を付与され、方向性がつけられた、予定調和のインチキカオスでしょう。
~後段。
伊藤中尉は海軍中尉であるため陸軍の兵士に対する指揮権は持たないが、陸軍兵士が無理な命令を聞き入れる、といった嘘はいいんです。
「専門的」な分野に入れば入るほど、映画というのは「プッ」と笑わずにはいられない表現をするものだから。
だが、唯一映画が専門とするところは「表現」だ。
「表現」の範疇において、マンガやドラマで見られるような「プッ」なことをしてどうするのか。
西郷の動きは、まさに、今までドラゴンボールをはじめとしてあらゆるストーリーで見てきてうんざりする、あの「例の表現」の模倣でした。
それに抗う表現者のモラルを問うているわけ。
「道徳的な」西郷が登場しなければならなかった(興行収入を除く)表現上の意味がまったくわからない。
~道徳臭への敏感さは人それぞれでしょう。
ただ、私であっても道徳臭を感じずに見られる表現はいっぱいある。
島田紳助氏のいないM−1(→(解説)名言とギャグ)や、その他いくつかの映画、さっきも書いた「世にも奇妙な物語」など。
その中において、「硫黄島」は道徳臭がけっこうした。
「さとうきび」はクソドラマなので、あーこんなもんか、と思えるが、作品の完成度に対する相対的な道徳臭のうざさが、本作は高かったと感じたわけだ。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 20:27:23};
>'''' 2007−02−25 (日) 
だから、「表現が死ぬ」のを避けてほしいわけ。
結果的にそうできないのは収入を考えればしょうがないにしても、その痕跡を残せ。
実際の中将は、正直もっとブサイクだった。しかし興行収入的に、かっこよい役者をあてがわなければならなかった。それはしょうがない。映画が何を目的として製作されるかを考えれば、避け得ない。
だけども、そのような表現の制限を打ち砕こうとしてみせる何かを残そうという意図が、硫黄島からは充分に伝わってこない(何度も言うが、「世にも奇妙な」からは伝わってくる)。
~いわゆる現代道徳的な善悪で塗りわけ可能な出来事も、当然、事実あっただろう。
だけども最初から「善人=偉人」が登場して善人として亡くなっていく、という大きな流れの中にその表現を紛れ込ませたら、どうやっても腐臭がするじゃないか。表現が死んだときのあのニオイが。
そしてクライマックスで「西郷のシャベル振りかざし事件」だ。
~そんな「うまいこと話がまとまる流れ」の中に放り込むくらいなら、史実など描かないほうがマシだ。

 
- '''' &new{2007-02-27 (火) 02:11:12};
結局は私ととつげき東北さんでは道徳臭への敏感さが(私が思想的に鈍感か)違うって事みたいですね。
例えば、「ショベル振り回し事件」もあなたが指摘するまで私は気付きもしなかった。

 
- '''' &new{2007-03-02 (金) 11:03:56};
凸はリドリー・スコットが大嫌いだと見た。
 
- ''[[マルコ]]'' &new{2007-03-02 (金) 16:11:57};
名言的でない作品紹介もして欲しいです
自分のお薦めは「ヘルシング」(漫画)
戦争好きの少佐の演説が好きです
 
- '''' &new{2007-03-02 (金) 16:56:27};
じゃ俺は富樫義博のレベルEを希望。
 
- ''[[黄緑坊主]]'' &new{2007-03-02 (金) 20:34:17};
今年の京大入試の現代文はこのウィキと似たようなスタンスで書かれていた。
~転んだ人を見て、近くの人が同情して「キャッ」と言うことと、
少し離れて見ていた人が「へェ、転びやァがった。」と言うこと。
自己没入しがちな「軟らかい心」、理性的客観的な「硬い心」。
日本的ウェットに書かれた俳句と、それを感動的誇張を笑いにした川柳。
難破して仲間も失い、命からがら岸に着いた主人公たちは空腹を満たした後
初めて悲しんだ、
という描写したホメロス。
~流石京大、粋な問題を出すなぁと思った。
 
- ''[[黄緑坊主]]'' &new{2007-03-02 (金) 20:36:53};
今年の京大入試の現代文はこのウィキと似たようなスタンスで書かれていた。
~転んだ人を見て、近くの人が同情して「キャッ」と言うことと、
少し離れて見ていた人が「へェ、転びやァがった。」と言うこと。
自己没入しがちな「軟らかい心」、理性的客観的な「硬い心」。
日本的ウェットに書かれた俳句と、それを感動的誇張を笑いにした川柳。
難破して仲間も失い、命からがら岸に着いた主人公たちは空腹を満たした後
初めて悲しんだ、
という描写したホメロス。
~流石京大、粋な問題を出すなぁと思った。
 
- ''[[M]]'' &new{2007-03-02 (金) 20:49:13};
>自己没入しがちな「軟らかい心」、理性的客観的な「硬い心」。
~もうね。感情=柔軟性、理性=硬直性という恐ろしく陳腐な対比が糞ゲー。
 
- ''[[黄緑坊主]]'' &new{2007-03-02 (金) 22:11:45};
>Mさん
いえ、その文ではむしろ「軟らかい心≠柔軟」とでも言いたげでした。
~京大に出る文はは比喩が面倒らしいので・・・
Mさんがそう思ったのはおそらく僕の書く力が恐ろしく陳腐なせいです。
 
- ''[[M]]'' &new{2007-03-02 (金) 22:35:55};
いや、「同情」や「没入」に含まれた肯定的なニュアンスが、理性的客観的な「硬い心」に含まれる否定的ニュアンスと、そして前文の
~>転んだ人を見て、近くの人が同情して「キャッ」と言うことと、
少し離れて見ていた人が「へェ、転びやァがった。」と言うこと。
~に見られる【感情的=暖かい人】【理性的=冷たい人】という「悪のマッドサイエンスト」のような大衆的な見方から、理性と感情を対比させるやり方が恐ろしく陳腐。
~理性的な人にだって感情はあるし、両者は包括的な要素の筈である。しかし京大の試験ではこれらの要素が対比され、誰にでも獲得可能であるような要素の方が、無批判に肯定されているのだ。
~まぁ、その対比の仕方のありがちな例として、理性=頑迷 感情=柔軟 というのを挙げたと思ってくれぃ。
 
- ''[[黄緑坊主]]'' &new{2007-03-02 (金) 23:50:35};
あ〜確かに「文中で筆者はどう思っているか?」の模範解答では「硬い心」を肯定しているような感じで、
「包括的な要素」という当然の観点は、無視したのか見落としたのか書かれてなかったような気がします。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-03-03 (土) 00:18:37};
このウィキのトップで、
【難関大学入試・入社試験等における小論文等論述・文章理解・面接対応の練習、論理的思考法のトレーニング、他人との議論時のテクニック集としても使えます。】
と謳ってるのは、冗談ではないよ。
~現代における、『頭のいい人の考え方』のベースが書いてあるから、考え方を知っているだけでも全然理解が違う。
「難しい文章で、何のこと書いてあるかわからん」という状態から、このウィキを楽しんでいるだけで「おーおー、あのことを言うとったんか」という状態には変化しがちであると思う。
 
- ''[[M]]'' &new{2007-03-04 (日) 17:00:05};
おやまぁwその文脈で理性が大事になるのか。京大侮りがたし。
 
- ''[[kanedo]]'' &new{2007-03-04 (日) 18:19:59};
京大国語の問題見てみたけど論旨はそんな陳腐な対比じゃないようですよ
~日本では主観的で感傷的、相手に感情移入する「柔らかい心」が過去から今に至るまで
もてはやされていることは「行水の捨て所なし虫の声」のような俳諧や、短調で暗い歌詞
ばかりの流行歌謡曲を見ればわかるが、そうした心からユーモアは生まれない。
ユーモアを生むのは客観的、理性的、楽観的な「硬い心」である。
俳諧の感傷的誇張をからかってみせるユーモアが川柳にはあり、ホメロスは
空腹を満たして始めて仲間の死を悲しむ武将を描写した。
~って感じの話です。同情や感傷が文学の面白みを殺すことに対する危機感は
現代に限らずギリシャ文明期や江戸時代の優秀な文学人にもあったんだよって文章じゃないでしょうか。
 
- ''[[M]]'' &new{2007-03-04 (日) 19:43:51};
成る程。主題はユーモアね。論旨はツッコミの大切さについて、かなw
~まぁいずれにせよ、対比させてるわけでは無いな。失礼しました。
 
- ''[[マルコ]]'' &new{2007-03-04 (日) 20:20:49};
是非ヘルシングも評論してほしい
ハンターハンターとかも好きだけど
 
- ''[[亡国]]'' &new{2007-03-07 (水) 06:53:37};
「硫黄島・・・」に戻るけど
「淡々とした」という評論に惹かれて劇場に足を運んだけが、相当「濃々」だったぞ。ドキュメンタリータッチが興行的に致命的なのを差し引いても。とにかく上演10分後にして、「現代人代表」としてあのスクリーンに送り込まれた西郷青年の暴走ぶりと、栗林中将の洒脱さと鷹揚全開ぶりに閉口して目を覆わんばかりになってしまった。捕虜救助やシャベル云々に関しては「ブルータスよおまえもか」である。爆笑シーンがいくらかあったのがせめてもの救いであった。個人的には「金返せ」である。1000円だったけど。
 
- ''[[月]]'' &new{2007-03-07 (水) 13:32:22};
見に行きたいけど、いつまでやってるんだろ・・・
コメント欄でのやりとりが面白そうなんですが、見る前に読みたくないし(汗)
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-03-07 (水) 23:04:00};
>亡国
近年の実写感動系映画の中ではものすごく淡々としてる方でしょ〜。
むろん西郷とかはクソの代表選手だし、あれだけど。
それともやはり単におれが「戦争モノに弱い」「玉砕系に弱い」というせいかのう。

 
- ''[[M]]'' &new{2007-03-08 (木) 19:26:00};
4月20日からレンタルDVD開始だそうで。
・・・コメント欄見たほうが早ゲフッゴホゴホ
 
- ''[[月]]'' &new{2007-03-08 (木) 20:27:33};
情報ありがとうございます。
fackあたりから、ちょっとMさんファンだったりします(笑)
 
- ''[[M]]'' &new{2007-03-08 (木) 22:38:28};
よりにもよってそこかよ!・・・でもちょっと嬉しいw
 
- '''' &new{2007-03-09 (金) 23:19:24};
>>凸はリドリー・スコットが大嫌いだと見た。
キングダムオブヘブンなんかは反吐が出る程嫌いそうだ。
 
- '''' &new{2007-03-31 (土) 19:20:00};
あと、映画館に喫煙席ほしいね。工夫すればなんとかなりそうだけど。ガラス張りのコーナーとかさ(笑)。割り増しでもいいから。
 
- ''[[あ]]'' &new{2009-11-08 (日) 01:43:23};
大型ハドロン衝突型加速器にテロ行為しようとした科学者をはるかに越える奴なんていねぇ。
そんな奴が居るならそいつが主任になってるだろ。
この場合死ぬな。
 
- ''[[ここまで読んだよ]]'' &new{2009-11-30 (月) 18:16:52};
凸が求めているのは、おそらくは(ノンフィクションの)無声ドキュメンタリなのだろう
ただ、映画という分野ではこれを満たすものはいまだかつて存在しない
事実のみを淡々と描く物語が、(興行収入を得るべくターゲットにする)大衆に受けるわけが無いのだから
~〜〜〜
おそらく、凸は「ナレーション」もしくはそれに適う(沿う)表現法をことごとく嫌う傾向にあるのだろう
それは、自分の得られる感情を、ナレーションなどその他の「心理性の外的要因」でかき乱されたくない、ということ
良いのか悪いのかの付帯意見も、(外野の意見は)凸にとって「外的要因」であるから、まず最初に「無条件の防衛反応」が起きている(その後咀嚼が行われる)・・・・という感じに見える
まぁ、この「無条件の防衛反応」がその後の確実実行なる咀嚼を生み、良くも悪くも「掲題の列挙」という行動につながっている
~凸は、映画はおろかあらゆるメディアからの情報も得ないほうが永遠に凸でいられる
それは、新聞(社風による捻じ曲げ等)もテレビニュース(キャスターによる感動の混入等)もしかり
気の置ける友人からの、凸向きにフィルタのかかった取捨選択済みの情報のみを得ているほうが遥かにいいだろう
とみに、今発表の「映画」は凸に適うものは1つも無い(全て観る前に短絡的に「駄作」の判定でOK)
「硫黄島からの手紙」がおそらく最後の「評価」となるだろう
~ふと「ま」がさしてしまい凸が凸でなくなることが、おそらくは最大の損失だ
 
- ''[[亡国]]'' &new{2009-12-01 (火) 03:20:38};
>>ここまで
~>気の置ける友人
~やっぱりこっちのほうがしっくりする言い回しだよなあ…。
 
- ''[[ここまで読んだよ]]'' &new{2009-12-01 (火) 22:25:32};
>>亡国
Twitterで無差別に招致しておいて、いざ見学に来た人間には俺様スタイルを半強制というのが、見かけ上の相反をうんでいるからね
→「美人は3日で飽きる」の2009−11−26 (木) 20:35:57と「(参加時の注意)」
頭のよくなりそうな人(さらに強調すると「気の置ける友人」となる)だけ呼びたいなら無差別にしかならない方法をとることは明らかに愚策だし、逆に真に無差別に人を集めるなら頭の悪い会話になることを許容しなきゃね
注意書きでも「(略:上のリンク辿れれれ)」とあるわけだし
つまり、恥ずかしい内容であれ「議論されているうち」(≒レス機能を利用した破壊行為で無い限り)は、筆者といえども項目が上がることに異を唱えることは出来ないわけで(それが嫌なら最初から常時項目上げのレスを入れれるシステムにするべきではないだろうし、注意書きも相当な注意を払うべきだろう)
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2009-12-01 (火) 23:11:34};
何の理念もなく一時的に特定項目を書き込み禁止にしてにやつくことが可能なおれは神。
 
- ''[[ここまで読んだよ]]'' &new{2009-12-01 (火) 23:43:03};
それを善しとするならそうすればいいと思うよ
っていうか、ほのめかすくらいなら
「やっておしまい!(ドロンジョ風)」
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2009-12-02 (水) 00:12:51};
何度か覚えた違和感だが、「ここまで」とおれとは冗談の通じる度合いや部分が違うよな。
やらねばならぬほど切羽詰まってるなら本当にやるし、君の提案した「新規項目を作りまくればよい」みたいなのは時間的に全然間に合うはずもなく、かつage食らったら終わるしな。
~「たまたま配信の世界でとても有名な配信者と一緒に配信でしゃべった」ということが起きたとき、そのチャンスをこちらに振り向けないのはもったいねーし、その際には、他のもうちょっと一般受けしそうな項目を最初に見られたいという気持ちはそれなりに切実だわな。
~普通、こういった長文ページは、最初見た項目で7割(数字適当)の人間が二度と見なくなるだろうが、それが8割に増えるのは単にもったいない。
君みたく「生真面目に」比較的隅々まで読んだり規則に従ったりしようとする読者はまれだ(ドロンジョ風)。
 
- ''[[ここまで読んだよ]]'' &new{2009-12-02 (水) 04:58:17};
旧のび太で返してくるかと思ったが・・・・ドロンジョと旧のび太の声優さんが同じということを知らない人も多いらしいな
「ドラえも〜ん(泣」と「このスカポンタン!(怒」が同じ口から出てくるのは、さすがはプロだ
~>>何度か覚えた違和感
冗談の分野に限らず、最初からそれを正面から受ける「準備」をしていたかどうかだけでしょ
とみに俺は、最初は攻撃者だったから、その準備は周到にやったよ
~>>規則に従ったりしようとする読者はまれ
内容の充実度に関係なく、サイトの風潮はそのまま参加者のレスに現れる
こと参加者が大衆であればあるほど、その傾向は強くなる
このサイトとて、例外ではない
風潮だけを借りた大衆が突発的にどのような行動にでるか、想像に難くはないだろう
ちなみに、俺の「悪趣味」はこういう風潮の場所ではやりやすいから利用させてもらっている
利用させてもらっている以上はサイト管理者の意向に従うのが筋ってものだとは思っている
~>>他のもうちょっと一般受けしそうな項目を最初に見られたいという気持ちはそれなりに切実
(まず、掲題の乱立を善しとしない俺が「新規項目を作りまくればよい」と言ったことに皮肉を感じてくだされ)
つまり、凸自身が手をこまねいているうちは、絶対に凸の望む方向への状況打破はありえない
参加者全員が
>>「生真面目に」(略)従ったりしようとする読者
であるわけが無いのは直上のドロンジョ風の発言そのままだし、そうであるなら参加者による清浄化は無駄な期待ではないのか?
いずれ「美人は3日云々」のような流れが別の掲題で起きたとき(100%起きると断言してやる)、そのたびにこの掲題はsageろと喧伝したところで、恥ずかしい内容のものが上位に来ることを避けることは出来ない
パンパース共は、そのたびに嬉々として恥ずかしいものを量産するに決まっている(「あ」や「原田」のときの流れがそうであったように)し、おれも悪趣味の面から加勢するに決まっている・・・決まってる!?・・・・ん??
~>>、「ここまで」とおれとは冗談の通じる度合いや部分が違うよな
そりゃ違って当然だ
「凸」「ここまで」「あ」「マネ」「鳥」「にこ珍」「原田」「凸に近しい友人」etc.・・・いずれの2つをとっても「ベクトル」は違う
そのそれぞれのベクトルの内積が+であればあるほど迎合し、−であればあるほど極諫する、それだけのこと
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2009-12-02 (水) 09:55:55};
いや違うくて。
~第一に、タイミングの話をしている。
普段「ダメな項目が上がっている」ことは問題ない。
あの日は、Googleの検索ワード上位に「とつげき東北」が入るほど(これはすごいことだ)、ご新規さんがいたわけだよ。恐らくその流れはその後数日続くだろうと思われた。
~で、こちらの対応としては、あまりうれしくない項目に「この項目は嫌な流れになってるからあげんなよ〜」とエクスキューズする程度でいいかなと思ったわけ。別に当該項目を一時的に完全に削除した後、しばらくしてレス含めて完全復活させることも簡単だし、それについては「ちょっと事情が」と弁明すりゃ充分のはずだ。そうせずに「あまりあげんなよ〜恥ずかしいじゃーん」と書いたのは、その記述が、どちらかといえば君たちにではなく、君たちやおれが全く知らない大量の誰かに宛てられていたからだ。
~ちなみに、なぜうれしくないかの本音は「面白くない」とか「長い」とか「おれが恥ずかしい」とかではない。もっと世俗的な理由だ。大きなn人を相手にする際の作法だ。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2009-12-02 (水) 09:57:45};
大量の誰かに「あげんな」と言っているんじゃないぞ。
大量の誰かに「あげないでーと言っている凸」を見せることが大事って話。
 

#comment


トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS