*とつげき東北 [#k056dab3]

 小説、マンガ、映画等の名言性について、「知的に」評論する項目。
→(名言的作品紹介)
→(解説)歌詞に見られる名言性

**映画「硫黄島からの手紙」 [#uaa0a89c]
 
 2003年にTBSがテレビ放送50周年記念で流した「さとうきび畑」というドラマは、戦争による、沖縄での悲しい出来事等を描こうとした「はずの」作品であった。戦争ものの好きな私は、「50周年記念」とまで銘打った本作を見るために、ほぼ半年ぶりにテレビのスイッチを入れたものだ。 
 ところが、明石家さんま演ずる主人公は、「お国のために戦う」ことで家族や命を粗末にすることの「無駄さ」を、現代道徳に基づいてひどく饒舌に、かつ得々と語ってしまい、「お国のため」に死んでいった全ての人に対する限りない冒涜を繰り返す、というだけの無礼なキャラクターに過ぎなかった。 

 何も私は、嘘と世論誘導とやらせとに塗り固められたゴミのような情報ばかりをさかんに提供しつづける「テレビ」と呼ばれる電子機器の放送に、さして大がかりな期待を寄せていたではない。単に、わずかばかりの感傷的高揚感を得られればと思ったまでだったのだ。 
 それにしても、死のふちに立たされて「お国のため」という理由付けを迫られ、うすうす間違いだと気付きつつも承諾せざるをえなかった若者たちのやるせない気持ちを、「平和がだいじ、戦争はよくない、みんな仲良くしよう」的なあっけらかんとした現代道徳にのみ立脚して踏みにじるさまを延々と描写するという、恐ろしく非人道的なこのドラマが、いったい私にどれほどの失望を与えただろうか。 
 大衆にとって「感動的」に他ならなかったこのドラマを「50周年記念」などといって放送するという失態は、大衆消費社会の愚かさと、それに付随して必然的に起きる「表現の死」への記念だったのだろうか。あるいは、自らの放送が、今後何世紀にもわたってこの低い水準のまま繰り返されるのだという嫌な予言のつもりだったのだろうか。 

 実写の「シリアスな」映画の表現が遭遇する困難を2つ挙げるとすれば、1つは、リアルであるがゆえに「創造的な」舞台を用意できないという困難さと、もう1つは、大衆消費という経済的限界によって表現内容が強く制限されるという困難さだろう。 
 アニメや漫画等の世界観は、一種確立されたメタレベルでの共通理解が用意されているのに対して、実写ではそういったメタレベルの意識合わせが難しい。これが1点目である。漫画等では、主人公が魔法を使うにしても、すんなりと「そういう『設定』なのだろう」と瞬時に読者が受け入れることができるし、そうであればこそ、アニメ映画において、比較的高い場所から転落した際に登場人物が死なずにおくようなストーリー展開も、さして製作者側の負担とならないものだ。「なぜ助かったか」をどう描写するかに腐心せずに済むわけである。 
 マンガ等向けに若干過剰に作られた登場人物(キャラ)の動きの「クセ」も、アニメの絵であれば嫌味なく流すことができるものだ。一方で、リアルな人間の顔でそれと同じ「クセのある動き」をするときわめて不気味になる。アニメや漫画が実写映画化されるときに嫌というほど私たちの感覚を逆なでするのは、おびただしい量の「不自然さ」への違和感であろう。 
 とはいえ、CG技術の著しい発展に基づく「ここでない世界」の描写技術の進歩と、アニメやマンガの劇的な人気に基づく同時多発的実写映画化の流れに乗じてさえいれば、こうした感覚を観客の「厳しい」目から遠ざけることが不可能とまでは言うまい。 

 しかしながら、2点目については深刻であると言わざるを得ない。 
 映画は、売れなければならない。 
 ここには過去と異なる背景がある。かつて、映画は、観客によって選択的に望まれ、「劇場まで楽しみに観に行く」ものに他ならなかった。したがって、後発であるテレビドラマが「一般受け」のみを考えた低俗な「垂れ流し」の作りで済んだのと異なり、あらかじめ能動的に当該映画を選択する観客に宛てて制作されることができたのである。 
 だが、映画が即時にDVDとなり、レンタルにより流通するようになった現代、あるいはインターネット等で各人が映画についてあらゆる情報を共有可能となった現代にあっては、テレビほどではないにせよ、映画に付随していたはずの「能動的に受容される表現」という特権は半ば失われ、それは「受動的な表現媒体」に接近してしまった。「みんなが見ているから寄ってみよう」「多くの人が感動したと言うから見よう」といった市場主義的効果がもたらす一種の「芸術」ないし「表現」にとっての否応なき限界性が、いよいよ映画にも迫ってきたのである。 

 さてここでようやく、掲題タイトルの映画が登場する。 
 1個人が率直な感想などを述べる権利を有すると仮定すれば、本作は楽しめた。私の涙腺が「戦争」、とりわけ「玉砕」といったものに脆弱であるということを差し引いても、大粒の涙が2〜3粒こぼれた最近の映画と言えば記憶に古い。シリアスな実写映画の大半が2時間の苦痛を味わう自己鍛錬の修行、さもなければ美しい女性とのデートの口実としてしか機能しない存在であることを加味すれば、本作にお金を払う価値は非常に高い。 
 しかしそうでありながらも、ところどころに噴出する「大衆への迎合」めいた表現は、かなり意識的に視界から除外せねばならなかった。のめりこんで画面をみつめて涙できる作りにはなっていなかったのだ。 

 まず私たちが最初に目撃することになる残念な表現は、「悪」の上官が兵士を「理不尽に指導」しているのを見て、渡辺謙演ずる「善の」栗林忠道陸軍中将がそれを止めるという場面である。上官と一兵卒との間に恒常的に保持されねばならない関係性は、「善」によって容易に覆され、上官は「悪」であったがゆえにほぼ不当ともいえる冷遇を受ける。 
 善なる中将は最後まで人間性の高いキャラクター、ありていに言ってしまえば「大衆=弱い者の味方であり、弱い者にとって目の上のたんこぶたる悪い権力者を超えた能力を持っており、悪い権力者を批判・否定し、悪人に惨めな思いをさせて仕返ししてくれる存在」であり続ける。この構図を保ち続けるため、本作では味方も敵も、「善人」と「悪人」という概念でほぼ明確に2色に塗り分けられる(もっとも、敵はほとんど登場しないが)。 
 登場する「悪人」はたいてい冷酷で、残忍で、しかもいざとなると誤った判断を下し、最後には惨めな結果を迎えることとなろう。この映画においては、人間性の低い者は、人間性が高くてより能力が優れた者に退治され、大衆は救われるのだとするある種の幻想――「本当に頭の良い人はえらそうにしない」「弱者を救う人こそ本当の強者」といった大衆の好む幻想――が実現されている。ちょうど、悪の科学者が、はるかに才能の高い善の科学者によって始末されるといった伝統的パターンに見られるのと同様の。 
 だが私たちが生きている日常における「事実」は、決して必ずしもそうではないはずだ。そこに真実があり、真実が戦時という非常時においていかなる様相を見せるかが表現されねばなるまい。 

 本作で描かれる「善人」はもう1人いる。1932年のロサンゼルスオリンピックに馬術で出場した西竹一陸軍中佐である。確かにストーリーに取り入れるにはふさわしいし、史実どおり実在の人物であった。 
 だが、その扱いも結局は「凡庸な善人」の範疇から逃れ得なかった。能力が高く、慈愛に満ちており、周囲の反対を押し切ってまで怪我をした敵軍兵士を助けてみせる。日本兵のために使用されるべき貴重な水がこの捕虜に与えられ、捕虜はオリンピックの自慢話を聞かされて「日本兵との心の交流」を演出させられると同時に役割を終え、衰弱死することとなろう。一体この「捕虜の救出」にいかなる作戦上の価値があったのだろうか。戦争で亡くなった人物を、「安直な善人」に仕立て上げ、愚昧な行為を「美しい行為」として表現するのはほとんど侮辱に近いだろう。 
 そうではなく、普段は兵士に対して冷酷に振舞う「悪人」とみなされるような人物が、戦争という極限状況下にありながら、ふと何らかの「気分」によって相手を見逃すようなこと(『戦場のピアニスト』においてドイツ将校がそうしたような)、逆に普段は温厚な者が、あるときあるきっかけで苛烈に「敵」を殴り殺すようなこと――まちがいなく人間の中に存在するはずのそうした繊細な感情の動きが描かれなければならない。だが、「善悪」という2項対立によって無様に塗り分けられるストーリーにおいては、それは大衆向けの表現の「対象外」となるのだ。決して、最後の最後で準主役がシャベルを使ってしてみせたような行為――ここではこれ以上語らないが――は、表現されてはならないのに。 

 本作はそれでも比較的淡々と事態の推移を見せることに成功してはいる。 
 冒頭で挙げたドラマや、他の一般的な駄作映画に比せば、本作はまさに「名作」と呼ぶに足るあらゆる要素を持ってはいる。時折泥のように付着している鬱陶しい感動的道徳も、見てみぬふりをして回避すれば、充分に心を動かされはする。 
 ただ、本作が果たして「表現の死」に充分抗い得ていたかについて、私は未だに納得できずにいる。 

#htmlinsert(google.txt)
- ''[[月]]'' &new{2007-01-24 (水) 12:47:47};
私は、自分の内面を形にして外に出すことが表現だと思ってます。映画を作った人が同じ考えで、「採算をとるために大衆受けを狙い過ぎて、自分の主張を出せなかった」と思っているなら、それはその人にとっては「表現の死」ということになると思います。
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-01-25 (木) 23:13:37};
>月
それはかなり古いタイプの「表現」の定義ではないかと……。
内面がない表現、あるいは内面よりメタなものの表現、というものもあると思いますが。
いずれにしても、結果として投げ出される「表現」の形式に、消費主義等による事情等のワクがはめられて多様性が失われることはやはり、「表現の死」です。
 
- '''' &new{2007-01-26 (金) 05:53:25};
”私の涙腺が「戦争」、とりわけ「玉砕」といったものに脆弱であるということを差し引いても”
~本当ですか?だとしたら物凄く以外です。
そう言う事はせせら笑うイメージがあったんですが。
 
- ''[[月]]'' &new{2007-01-26 (金) 15:04:57};
>とつ
かなり古いとか言われると思わなかったんですけどっ
~内面のない表現・・・メタは「超越した」って意味ですよね。
うーん、どういう作業で生み出されるのか、私には想像できません。
ちょっと憧れはしますけど。
~
 
- '''' &new{2007-02-09 (金) 00:25:57};
せせら笑う人も同様に、「お国のため」と同次元の何かを抱いて溺死していくわけですから。
 
- '''' &new{2007-02-09 (金) 04:25:33};
>>決して、最後の最後で準主役がシャベルを使ってしてみせたような行為――ここではこれ以上語らないが――は、表現されてはならないのに
~で言われているシーンは善悪の2項対立的表現ってことですか?
見た感じでは戦場における心理よりと思ったんですけど。
僕の理解力が低いんかな?
 
- '''' &new{2007-02-25 (日) 19:05:50};
>>一体この「捕虜の救出」にいかなる作戦上の価値があったのだろうか。
情報を聞き出す為ではないでしょうか。
>>決して、最後の最後で準主役がシャベルを使ってしてみせたような行為――
>>ここではこれ以上語らないが――は、表現されてはならないのに。
中将のピストルを奪った米兵を見て激昂した様に見えましたが、深刻な問題があったんですか?

 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 19:15:24};
>'''' 2007−02−09 (金) 04:25:33
>'''' 2007−02−25 (日) 19:05:50
~「中将のピストルを奪った米兵を見て激昂した」部分が、いかにもドラマやマンガで表現されがちなパターンである。
雄たけびをあげながらシャベルを空に向かって振り回すのは愚昧。
せめてその相手につっかかっていってシャベルで殴れ。
それに、明らかにあぶない主人公について、敵兵が「撃ちますか?」みたいに言ってるところも笑った。さっきまで無防備な敵をどんどん撃ってたやろうが。「主人公だから遠慮する」ことなく、はよ撃て。
という意味で、表現が非常に陳腐で「ドラマチック」だった。
~>>一体この「捕虜の救出」にいかなる作戦上の価値があったのだろうか。
>情報を聞き出す為ではないでしょうか。
~いや、単に「心の交流」をして西中佐の人間性の高さを演出するためでした。
何一つ情報を聞き出さなかったかわりに、史実によると日本兵の水不足が深刻だったにもかかわらず、無駄に捕虜に水を与えた上、捕虜は次の日には死にます。死んだ捕虜の手をキリスト教的にあわせてあげたりもします。プッ
 
- ''[[とつげき東北]]'' &new{2007-02-25 (日) 19:21:17};
もともと主人公は徹頭徹尾現代道徳的な考え方で、気にくわんかったね。
まあ現代の映画なので現代の観客に共感させるためのしょうがない措置だろうけど、行動全てが現代道徳的でうっとうしかった。「さとうきび畑」のさんまに近い。まさに表現の死です。
~この映画で「悪」に描かれている上官の行動の方に感動したわ。
 

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