• 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
 *とつげき東北 [#t306cb68]
 
 
  たとえば刑法や刑罰という制度の正しさ、あるいは善悪といった問題等について、原理的な議論をしている際に、自らが長年信じ続けてきてしまった大衆道徳的信念が打ち破られそうになったときに、とっさに口にすべき呪詛。話者は、論敵の憎たらしい「理屈(たとえば、「殺人が原理的に悪だということは、自然科学的にはどうやっても説明できない」など)」にはとても賛同する気になれない。とは言いながらも、反論を出すことができない。そこで、万一それが正しいと認めたとしても「結局お前(論敵)は殺人ができないだろう」といった摩訶不思議な確認をするとともに、仮に論敵が殺人をしたとすれば論敵にもたらされることが想像される、論敵にとって不都合な状況――話者にとって好ましい状況――をかすかに頭によぎらせてみることによって、何がしかの快感を得ているものだと考えられる。
 
  ここには以下の3点の錯誤が存在する。
 (1)論敵がある行為をしないことは、その行為が正しくないことの根拠にはならないが、話者はこれを認識せず、論敵が当該行為を行わないだろうことをもって、論敵の主張に誤りがあるのだと考える
 (2)論敵がある行為を「しない」ことは、論敵が当該行為を遂行する能力が欠如しているかどうかと1対1に対応しないが、話者はこれを認識せず、論敵が殺人を「できない」ことを確認し、論敵の「無能さ」や「覚悟のなさ」を漠然とイメージする
 (3)論敵がある行為をしないことと、論敵と無関係の他人がその行為をしないこととは異なるが、話者はこれを認識せず、「論敵がその行為をできない」ことをもって、論敵とは無関係のある殺人犯に関して「悪とは言えない」と示されてしまう可能性が未だ残されていることを忘れ去る
 
  あることが正しいことと、それを行うかどうか、行うことが可能かどうかは、ひとまず直接的にかかわらない。たとえば小便を飲んでも死にはしないし、ビタミン信仰に踊らされて大量のビタミンCを摂取し続ける類型の人間の尿は身体に良いくらいかもしれない(「栄養価が高い小便が存在する」は正しい)が、だからといって、その論理を語る人間が小便を飲まなければならないわけではない(他にいくらでも栄養価の高いものを摂取する方法はある)。しかるべき必要がある際に、「能力的に飲めない」わけでもない。同時に、いずれにせよ「飲尿健康法」をしている人は存在する。
 「○○になることは簡単だ」といった発言に激昂した浅はかな論者が、しばしば「じゃあお前が○○になれ」などと口を滑らせるのは、上記錯誤の一部である。
 
  さて一般に、善悪の判断と正誤の判断、そして利便性の判断とは意識的に明確に分離して語られるべきである。というのも、多くの場合これらが混同されがちであり、なおかつ、大衆論法において、自説の「根拠」とするため半ば恣意的にそうされがちだからである。
  これには構造的な理由がある。思想に疎い平均的な人間が「正しい」と思い込んでいる種々の概念は実際には何の理論にも根拠にも、(ある程度客観性の担保される)経験則にさえも基づいておらず、「正しくない」ことが多いがゆえに(善悪の議論の場合などは典型的である)、彼らは「正しい」根拠として「正しい」ことを示すかわりに、「利便性」等の「正しさ」とは本質的に無関係の事柄を持ち出さざるを得ないからである。平均的な能力・知見しか持たない一般的な「論敵」に対してなら、この程度の手口で相手をだまくらかして打ち負かせることが期待できる。それゆえに彼らは、「彼らにとっては最善の」この種の悪行から足を洗うことができずにいるのである。
  一方、論敵が充分に強く、この「最善の手法」による主張が論難されはじめると、彼らはまごまごせざるを得ない。どうしてよいかはわからないが、憎い相手に対して意見を述べておかねばならない。その結果として彼らは「殺人が悪くないなら、じゃあお前が殺人でもして逮捕されろやw」等の、知性の不在を赤裸々に周囲に開陳するための言葉を、ついにこぼすという失態を演じる。ここにおいて、われわれは嘲笑と侮蔑と憐憫とを彼に対して与えるための「正当な権利」を手にするに至るわけである。
 
 
 
 #htmlinsert(google.txt)
 #comment
 

トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS