*とつげき東北 [#z04561f9]
**センスの死 [#g77bf89a]
「犬は、近所の私に行くとき、スーパーマーケットを連れていく。その私のすぐ向かいにある別の私に比べて、こちらは安くてエサがいろいろある。」
という一文に、私がここである一定の規則的な「単語変換」を加えて、
「私は、近所のスーパーマーケットに行くとき、犬を連れていく。そのスーパーマーケットのすぐ向かいにある別のスーパーマーケットに比べて、こちらは安くてエサがいろいろある。」
という「正しい」文章を取り出してみせたところで、あなたが小学校低学年でもない限り、偶然にも“魔法”を目撃してしまったかのような表情を作ることはなかろうし、[[島田伸助>(解説)名言とギャグ]]でもない限り、この程度でべつだん「感動」を口にすることもあるまい。むしろ、答えを聞いてもまるで納得できない唐突な「クイズ」の解を披露されるときに生ずる、あの独特の陰鬱さを、ふと抱いたとしても罪はない。
 何か得るものがいくばくかでもあるとして――それは、ある種の変換規則とともに示されるある文章が、それよりも長い文字数の文章を一意に表すことができました、という懐かしい驚きへの回想だろうか。それとも、出現頻度と符号長に応じた符号変換が暗示するところは、平均符号長の低下という情報通信理論における可逆圧縮技術の基礎=本質だったはずで、そうそう、シャノンによってその下限理論値が示されたのではなかったかしら、というまるで役立たない記憶の再確認、なのだろうか。

 そのいずれが正しいのかには言及しまいが、どちらにせよ「パーソナルコンピューター」が「パソコン」や「PC」といった「社会一般に通用する略語」を獲得するに至る過程には、その言葉の日常的反復性=使用頻度の急激な上昇に呼応する形で、「圧縮の規則を覚える代わりに短く表現できる」ことのメリットが相対的に高まったことが決定的に関与していることは疑うまい。規則が一般化するのにかかるコストと、それに応じる利便性とを考慮すれば、「オウム真理教」には「オウム」という略称の発明が必要だったとしても、「千葉大学法経学部」に「ホーケー」といった「一般的な略語」を作ってあてがう必然性などはいささかも生じないことが理解できよう。
 あなたがもし機会平等主義の立場に立っているのだとすれば、日常で発話される頻度が「パソコン」よりそれなりに乏しいはずの「痔(じ)」という文字が、この、肛門が不適切な状態に陥るという身体的疾患現象を表すためだけの単語が、発話等時における意味の一般性と短縮性との過当競争の中にあって、「き(木、気、黄……)」や「み(身、実)」が背負うことになる宿命的な多義性を同じくはらみながらも、思いがけず不動の地位を確立してしまっている奇跡と、圧倒的に多用されるにもかかわらず相対的に長々しい略語しか与えられなかった「パソコン」への差別的冷遇に対して、反発の念を覚えてもよろしい。

 私は、「痔」の特権性については、また別の機会に触れるかあるいは二度と触れないかのいずれかの態度を堅持することを誓いながら、ここで次の事実に触れておこう。
 すなわち、「名言」は教育的指導や感情の相互理解、それに類するいくばくかのものを近似的に可逆圧縮し効率化すると同時に、「思考」を非可逆的に圧縮する――。
 もしも「家に帰るまでが遠足」でないとしたら、小・中学生相手に「家に帰るまで、しっかり気をつけなければならない。なぜなら〜〜の危険があるからである」などと、毎回くどくどしく注意喚起せねばならない。「やはり幸せはお金では買えない」が擬似的にでも「真理」であるとされる世界に我々が生きていなければ、「幸せ」を口にするたびに、その変換不可能性を論証とまでは言わずとも、おずおずと説明する必要が生じよう。
 名言の存在は間違いなく教育的指導や感情の相互理解に掛かる各種の「費用」を節約し、情報伝達を効率化するよう機能している。

 名言が一つの複雑な問題を特定の類型に収め、その名言の受諾に伴って、その先の互いの「思考」様式を含めて見事に予定調和に回収してゆくさまは、さながら数学のできる高校生が、難問とされる大学入試問題を「いつもの調子で」公式や解法に当てはめて容易そうに解く姿を見るかのようだ。
 だが、そのように進行する事態は、「効率」などという語彙が表現し得る範疇にはおよそ収まりきらない膨大な何かをいつでも取り残していくように見える。難問を解くということが唯一の目的であるなら良い。そうではなく、その過程における、諸状態の変貌と差異の明証化こそが我々に何かをもたらすといった場合には、「効率化」と信じ込まれてなされるこの種のやりとりが、いかに稚拙な結果をもたらすかに気づかずにはいられない。
 我々は、テレビドラマで「かわいそうな人ね」という発話が登場すれば、いつでもその後に被発話者の激昂(あるいは「気づき」)が続くのを目撃せねばならない単調な形式を知っている。そしてそのことが、とりもなおさずテレビドラマを退屈な予定調和劇場に貶めていることをも知っている。
 精子を卵子のもとに届かせることそのものが快楽をもたらすのではない、美しい女性の体内に精子をぶちまけるための行為ないし擬似的体験と、その際に生ずる精神的高揚等が伴って、初めて我々は幸福を約束されるのである。そこには予定調和めいた「結果」があらかじめ登場するような余地は、はなから用意されていない。

 さて、子供のころ、クラスであるいは友達同士の間で、ごくわずかな期間だけに特別な地位を得る言葉というものが存在したことを思い出そう。後年になってみれば大して面白くもないはずの一語が、不意に、自分とその周囲の数名だけを魅了し、剥奪しがたい権利を保持して止まないことがある。それはその一時的で局所的な場の中だけで、コミュニケーションと笑いを絶え間なく提供しつづけたはずだ――だから私がここで読者に向かって例示しても理解される道理がなく、そのことこそが今語られている何かなのだが、例えば私の周囲では「ジェニー」という言葉がそうであった。
 ところが実際のところ、この種の「語」のダイナミズム――絶えざる生成と消滅との反復、「効率化」への謀反――こそが、ギャグであり、生きたコミュニケーションであり、教育者と被教育者とのあるべき関係であり、「相互理解」そのものに他ならないのだ。
 15と32を足せば47になりますね、ええそうです、という会話は「誰とでも成立する」という無制限の交換可能性の意味において、一向にコミュニケーションらしさを覗かせもしなければ、(計算結果等を除く)相互の理解とやらを生み出しもしない。そうではなく、15と32を足せばスーパーマリオになります、という、一見成立不可能なはずの不測の語りかけから、両者の間に「一時的で局所的な」特別の何かが作り出され始めるのだ。
 他者と交流するということは、その他人との間に、この種の排他的で動的な、危うい関係性を絶えず張り直して共有すること以外の何物をも意味しない。何一つ最終目的地がなく、たどり着くべき卵子もない、したがって「圧縮」が意味を持たない何か。交流とは、圧縮される前の過剰さと「冗長さ」にこそしかるべきものが存在していて、「最終的な結論」などといった無粋な何かは想定され得ず、ことによると、それを故意に隠蔽することによってのみ顕在化され、その過程が楽しまれるものとしての――「知性」に他ならないからだ。

 一方で、今私がここで述べた意味においての「知的な」コミュニケーションに失敗すればするほど、人は固定されて疲れ切った「名言」に頼ろうとしてしまう。かろうじてすがりつくものは、既にできあがった、誰しも共有していると多くの人々が信じている「成功が約束された」予測可能な一連のやりとり、すなわちテレビ等のマスメディアが提供し続けるような、貧困な名言の数々の相互閲覧なのである。
「難しい問題ですね――」「そうですね、価値観の違いもあり、一概には言えません」……「すごい戦いでした」「感動しました」、この種の、いわば非可逆的な形に圧縮されパッケージ化されてしまった文字列の、限りなく安全なコピー&ペースト作業を、「思考の交流」だといわんばかりに誤解して繰り返し、「既になされたコミュニケーション」を脆弱に反復するということのうちに秘められたある種の病的諸状態が意味するのは、審美眼的ないし知的なセンスの死である。

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