■ヒトシンカ

 すなわちナチズム・軍国主義・極右・自民族中心主義という連想が広まっているが、これは誤りである。優生政策を推進した国はその当時、アメリカのようにナチスの敵国であったり、ソ連のように(ナチスが最も敵視した)共産主義国家であったりした。
 優生思想から、自民族こそが優先的に種の保存をすべきだ・混血を防ぐべきだという考え方に至るまでには、「自民族こそが遺伝的に現に優秀である」という前提が必要である。優生学は歴史的には、こうした考えに協力したり反発したりしている。例えば、フランスでは特定人種の優越説は受け容れられず、優生学は人類全体を改善する学問として考えられた。というのは、ゲルマン民族などと違ってフランス人は多くの種族の混合から成っているという認識があり、フランス人のナショナリズムはこうした考えを退けたのである。また日本では、ナチスの断種法をモデルにした国民優生法が国会に提出された時、有力だった反対意見の一つが「子種を断つ断種は、日本の国是である天皇中心の家族国家主義や多産奨励に反する」というものであった。終戦後の1946年、当時の厚生大臣芦田均は国民優生法を「生ぬるい」と批判、優生保護法では優生対策が強化された。48年の制定時には癩疾患(ハンセン病)が、51年改正では「精神病」「精神薄弱」が中絶対象に、52年改正で「配偶者が精神病もしくは精神薄弱を有しているもの」「遺伝性のもの以外の精神病または精神薄弱に罹つている者」が不妊手術の対象として追加された。この法律は96年まで存続していた。
 また、現実には優生学者の大多数が反戦主義者であった。これは以下のような事情に基づく。優生思想は、近代以降の社会に潜む「逆淘汰」の危険性に対処しようとする考え方である。たとえば医療や福祉の充実は、自然界なら淘汰されていたはずの劣等な個体を救ってしまう。しかし、これらよりも遥かにたちの悪い逆淘汰が戦争である。戦争では健康で優秀な者から戦場に出される。ということは健康で優秀な者から死んでいくということである。つまり戦争は、単に[等者をあまり死なせる効果が無いだけでなく、多くの優秀者を死なせ、N等者の競争相手を消すことで、劣等者がさらに子孫を残しやすくするのである。ドイツの優生学のことを普通は民族衛生学と訳すが、指導的な民族衛生学者プレッツはナチス首脳部との対立も覚悟の上で反戦活動を続け、ノーベル平和賞の候補にもなった。彼は講演で次のように述べている。

 戦争が開始されれば、それがもたらす逆淘汰の影響は、きわめて恐ろしいものになるでしょう。なぜなら、戦争は、生まれつき優秀な者の出生率が低下するのを食い止め、低価値な資質の持ち主を民族内部から除去するために民族衛生学が全精力を傾けておこなうことのすべてを、一瞬のうちに、何百倍、何千倍の規模で無に帰してしまうからであり、そのことによって、われわれの種は向上の道から突き落とされ、西洋文化は戦勝国においても、敗戦国においても、致命的な打撃をこうむることになるからです。(略)民族衛生学を妨害する最も恐ろしい敵は、戦争に他なりません。民族衛生学は今日、必要不可欠なものであるがゆえに、われらドイツ人の総統ヒトラーも、国家社会主義はこれを全生活の中心に据えなければならないと宣言したのです。この民族衛生学は平和においてのみ、その実を結ぶことができるのであって、それ以外に道はありえません!(略)われわれ民族衛生学者は平和を創造し、これを維持するよう誠心誠意努力しなければならないのです。

 日本で優生学がタブーとなるのは実は、1970年代中盤以後のことである。脳性マヒの障害者団体「青い芝の会」は、70年代前半の優生保護法改正反対運動を通じ、「優生」=ナチス・ヒトラーという連想を浸透させていった。それまで優生思想はタブーではなく、学校教育でも堂々と(大々的という意味ではない)教えられていた。さらに1980年10月『週刊文春』に載った渡部昇一のエッセイ「神聖な義務」が社会問題化したことで、日本では優生=ナチス・ヒトラー連想が決定的となったのである。


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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:41:29 (2950d)