とつげき東北

 本来は、ある推論が、論理学上の適切な操作を省いてなされる場合・様子を意味する。しかし実際にはこの言葉は、ある程度断定的になされる結論に対する、漠然とした違和感と反発心との表明としてのみ使われがちである。

 06/05/16のGoogle検索において、「論理 誤謬」の検索結果84,400件に対して、「論理 飛躍」の検索結果370,000件というのは、どうにも腑に落ちない。なぜこうも、「飛躍の指摘」が見受けられるのだろうか。

 ここでは、3つの理由を挙げよう。

(1)
 1つは、論理的思考に慣れていない平均的な者たちが、「思考」や「会話」において、「飛躍の王者」と呼んで差し支えないほど、驚嘆すべき飛躍ぶりを演じてみせるということが挙げられる。
 母親は、「関西で経済が発展しないのは、やはり関西人の人間性のせいやと思うわ」と抜かしていた。何事かを自分で考えたつもりだろうか。「なんでも儲けよう、儲けようとするこすっからさとか、そういう醜い心が、逆に経済全体の発展を邪魔してるねん」だそうである。彼女は、あらゆる論理的なしがらみから解き放たれ、個人の自由な発想で羽ばたく鳥のような頭脳を持っている。
 人間性の問題であるなら、島根県や青森県はどうなるのか、などと意地悪な質問を考えていたら、筆者の姉(当時、経済産業省に勤務)が、わざわざ母親に「それは……飛躍やろ。経済規模の違いとか、そういう理由が大半でしょ」と教えてあげていた。鳥にまで教育をするとは、姉もなかなかに立派な人間である。

(2)
 次に、通常の人間はあまり論理的な思考ができないために、論理的に飛躍がなくても、飛躍であると捉えられるという場合がある。
「(1)AまたはB (2)A→C (3)B→D (4)Dではない」の4条件から、「C」を得ることは簡単に理解してもらえる、と思い込んで話を進めると、「飛躍」などと言われることがあるわけである。
 では以下のとおり「説明」すればことは済むのだろうか?

 では飛躍でないか示します。
 B(仮定1)
  B→D(条件) 
  D
  Dでない(条件)
  矛盾
  Bではない(結論1)
 Bではない(仮定2)
  Bではない(結論2)
 仮定1と仮定2に基づく結論1及び結論2より、Bではない(結論3)
 AまたはB(条件)
 A(仮定3)
  A(結論4)
 Aではない(仮定4)
  AまたはB(前提)
  A(仮定5)
   A(結論5)
  Aではない(仮定6)
   B
   Bではない(結論3より)
   矛盾
   A(結論6)
  仮定5と仮定6に基づく結論5及び結論6より、A(結論7)  
  矛盾
  A(結論8)
 仮定3と仮定4に基づく結論4及び結論8より、A(結論9)
 A→C(前提)
 A(結論9より)
 C(結論)

 もちろん、これで相手は納得するまい。これほど簡単な論理構造を判断できずに「飛躍」だと述べたからには、相手はよほどこちら側の意見が「キライ」なのか、論理学が理解できないタイプの人間なのだから、おそらく議論は泥沼になる。

(3)
 本質的なのは、「論理的飛躍」が、論理学の形態に密接に関係して、必然的に現れるものである、という第三の理由である。
 論理的推論とは、ある種の前提から結論を導くための形式であるが、それゆえに、前提が異なるまたは前提が正しいと証明されていない場合には、その前提に基づいた論理がいかに論理的に飛躍なく適切であったとしても、全体としては「飛躍である」と認識可能である。例えば、法律・刑罰等の制度の正しさを前提とするなら殺人は悪だが、その正しさを前提としない場合は、「人を殺してはならない」という推論は、一種の「飛躍」となる。
 ところが、論理的操作においては「前提を疑う」という作業は不可能なので、全ての適切な論理は、前提の正当性を疑うことによっていくらでも懐疑可能であり、したがってどんな論理的な結論も、常に「飛躍」と呼ぶことができるのである。例えば「私は人間である」という「当たり前の事実」さえも、人間、私、等について完全に定義した上でさえも、やはり「飛躍」だと捉えることができるのである。なぜなら、「私が存在する」とか「この世界は、本当はイヌであるところの私が見ている夢ではない」等々の暗黙の各種前提については、まだ証明されていないからである(そしてゲーデルが証明したとおり、完全かつ無矛盾な公理系を作ることはできず、したがって論理の根本的正しさが論理的に証明されることはありえない)。

 以上見てきたように、全ての結論は見かたによって「飛躍」たり得る。
 言い争いを楽しみたいなら、以上を理解したうえで、「飛躍である」という指摘自体を、「飛躍」だと嘲笑してよろしい。

 (1)の用法は何ら名言的ではないが、(2)の場合はイメージ戦略めいた名言的用法である。上述した構造に無自覚なまま(3)の意味で利用することもまた、名言的用法と言えよう。

論理的でない
へ理屈

  • お母様の主張はマックス・ヴェーバーという有名な社会学者さんの主張に近いですよ。さすが!(笑) -- 月 2006-05-14 (日) 07:57:32
  • あんな母親で本当によかった(笑) ネタの宝庫。 -- とつげき東北 2006-05-14 (日) 17:51:24
  • 実に面白い。その一言に尽きる。 -- ザーク 2006-12-08 (金) 18:56:41
  • 散切り頭 2007-07-01 (日) 15:58:14
    論理構造を説明するにはそんなに長々しく書かなきゃいけないものなんでしょうか。
    下のように3行くらいでも十分説明出来ると思うんですが。

    (前提1より)AまたはB。
    仮にBならば(前提3より)B→DなのでD。しかし(前提4より)Dではないので矛盾する。
    次にAならば(前提2より)A→CなのでC。したがってCである。

     
  • 原田 2007-07-02 (月) 02:45:27
    『風が吹けば桶屋が儲かる』という。この比喩を演繹的に導かれた命題とするか論理の飛躍とするかは使い方次第だが、いずれにせよ元来は商売談議から生まれた言葉であろう。それは流通業者の先物取引といった所か。ここで聞き手が注意すべきは『風が吹くかどうか』については一切論じられていないという点である。『AならばB』とは『Aではないor(ただ単に)B』と一致する。つまりこう言い変えるといいだろう。『風が吹かぬか桶屋が儲かる』これにより風が吹く事の確からしさを検討する重要性までもが浮き彫りにされる。
     
  • とつげき東北 2007-07-02 (月) 05:10:52
    >散切り頭
    どこで納得してもらえるか、またはもらえないかは、相手によります。
    どんなに論理的に話しても、「自分にとって得でさえあれば何をしても良い」という命題は簡単には納得されません。
    本文中でダラダラ書いているのは、「わざと厳密に論理学的記述にこだわる」ことによる一種のギャグ(あるいは相手への嫌し)です。

    >原田
    実は綿密な帰納により求められていたりしてな・・・
     

  • 2008-02-15 (金) 01:02:35
    大衆の前で母親ネタにしたら批判しか貰えないと思うぞ。
    ニートがクソと同じ理論だ。
    どっかの芸人がそれで完膚無きまでに潰されてたな。
     
  • ここまで読んだよ 2009-10-19 (月) 19:58:03
    >>「論理 誤謬」の検索結果84,400件に対して、「論理 飛躍」の検索結果370,000件
    このうち、論理と誤謬がきちんと関連づいているページの数と、論理と飛躍がきちんと関連づいているページの数はいかほどだろうか
    前者はともかく、後者はこの四半分も無いと推測される

    統計学に通ずると思われる凸が持ち出すサンプルにしては、あまりにもお粗末である
    そして、これを鵜呑みにした読者諸君はもっとお粗末である
     

  • とつげき東北 2009-10-26 (月) 03:49:25
    "論理的飛躍" 約 208,000件(091026)。
     
  • ここまで読んだよ 2009-10-26 (月) 11:51:23
    検索システムの能力向上に伴って、被検索ページ総数と検索エンジンの能力も増えただろうから、一概にその数字が過去の数字と比較できる数字になっているかどうかは疑問だ(その数字は、それを書き込んだ日時近傍のデータだろうし)

    ただ、いくら上記2項目が伸びたとしても、四半分予測(10万未満)がいきなり20万に跳ね上がる可能性も比較的薄いな(現在においては、せいぜい13万程度だと思っていたわけで)

    この場合は敗北宣言をしたほうがいいのか、微妙なラインだ・・・・
     

  • 2009-11-06 (金) 02:48:54
     論理 誤謬 の検索結果 約 335,000 件中
    4倍になってんぞヴォケ
     

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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:41:23 (2888d)