とつげき東北

 言う本人がその意味を熟慮していない決め台詞。

 通常であれば、反省する行為をしたならば、当該行為を後悔するであろう。謝罪の文脈における「反省」とは、(本来は)自己への批判を含むものであり、反省せざるを得ない状態に人は好んで陥らない。

 反省すべき行為をしたが、後悔はしていない状態とは、どのようなものだろうか。
 
 自分のした行為についてよく振り返り、その良し悪しや問題点を判定するのが反省である。よく振り返った結果、「まぁ別にいいよね……」となる場合もあるだろう。
 しかし謝罪の文脈であれば、(本心ではどう思っていようと)そのような判断は隠さなければならない。だから、「フリーキックで外してチームに迷惑をかけて、反省している」という言説から、「後悔はしていない」に続けることは難しい。「後悔をしていない」との発言は、同じ状況に立ち会った際、また同じ行為を選択するであろうことの表明に等しい。これが唯一許されるのは、判断は合理的だったが結果が不遇だった場合だろうか。例えば当人がフリーキックをすることがその状態でチームにとってベストな選択だったと自他共に認めており、かつ、たまたま外れてしまったなら、わからぬでもない。とはいえ、「後悔はしていない」は若干挑発的である。

 謝意がない場合もある。強盗をした後に捕まったという「結果(逃げ方の不適切さ、証拠隠滅の不完全さ等)」については反省しているが、強盗をしたという行為自体は後悔の余地がない、という時系列上の(あるいは対象の)ズレは、掲題の発言の論理的正当性を担保しうる。彼は恐らく、次回はもっと狡猾に強盗をする。ただし、さすがに犯罪後に掲題の発言をする者は少なかろう。この例で掲題名言が実際に口にされる機会は少ない。

 上の2例では、反省において「悪くなかった」という結論を導いているが、「悪かった」と認識していて、かつ、「後悔はしていない」場合もないではない。これはもっとも悪辣である。
 つまり、ある側面では悪かったが、別の側面では良かったという場合だ。決して自分がフリーキックを蹴るべきではなかったのだが、高校最後の記念に思いっきり蹴れてよかったとか、強姦はすべきではなかったが、射精は気持ちよかったしまたやりたいとか、他人大勢に迷惑をかけてそれ自体本当に悪かったと思うが、自分は儲かったといった例である。ここでの「反省」は、「後悔」との対比において相対的に社会的・公的なものであるから、謝罪の文脈において、私的快楽の良さを堂々と語るなら手の施しようがない。

 掲題の名言はしばしば、上記のような構造に無自覚なまま、スポーツ等においてもっとも悪辣な最後の例で使用される。


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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:41:21 (2888d)