とつげき東北

 大衆が、自分の感性や気づきのごく一部が、偉大なる誰かのそれと部分的に一致したことを事後的に確認した際に発する優越感情を込めた言葉。

 漠然と考えていたことが明確に文章等になっているのを「発見」して思想するという手順は、知的手順とまったく逆である。最初から「漠然と」ではなく「明確に」考えることが「考える」ということだからである。

 たとえば、「東大入試の数学」の問題を解く場合を考える。
 ある程度数学が得意なら、漠然と解法の方向性や計算方法を想定することができる。そして模範解答を見れば「そうそう、これが私が漠然と考えていた解法そのものだよ!」と認識できる。だがそれは偏差値55程度の人間にもできることである。
 一方で、模範解答がない状態から解答を自分で作っていくことが、上記行為に比較していかに難しいかは誰もが知っているだろう。実際に解く過程で、工夫しなければ煩雑になる思わぬ計算に行き当たったり、模範解答では省略して書かれている「発想を必要とする」部分が含まれていたりする。だからこそ、東大数学の模範解答を見て「なるほど、そうそう。こうだよね。」と感じる人の量に比して、実際の東大入試数学を楽に解ける人の量は少ないのだ。

 これは迷路に置き換えて考えてもよい。複雑な迷路を「道順を見てから解く」のはいとも簡単だが、道順を知らない迷路を始めると、思わぬところでつまるものだ。3次元以上の迷路など、複雑さの程度によってはゴールにたどり着けない場合もあろう。
 すでにゴールにたどり着いた「答え」を見ながら、その道順を「こうすれば出口にいけるのは当たり前だ」「やってみれば誰でもわかることだ」と認識するのは思い上がりに過ぎないし、「正解の道順」のうちの一部に非効率な部分を発見して「ここはこうした方が良いね」などと評論してみせることは、自分で迷路を解くことに比べて退屈なことである。

 さて、自分が作ることができない「模範解答」「正しい道順」を、「自分の思っていた解答だ」と言えるだろうか。その状態で「自分の解答」が存在したと言えるのだろうか。もし言えるなら、東大入試数学も複雑な迷路も、きわめて簡単である。
 思想等に対して「自分が漠然と思っていたことが明確に書かれていた」という感想等が寄せられることは多い。しかしそれは、感想者の「思想」が、当該思想家の思想と同レベルであったことを意味しない。模範解答を見て同意することができるレベルにあることしか意味しない。逆に、見せられるまで述べることができず、見せられてようやく明確化されたという点において、むしろそのような感想者の「思想」は、「存在しなかった」とさえ言えるのである。

  • 漠然と思ってるだけでまとめる知能がないんだろwwww -- あ 2007-01-13 (土) 00:35:06

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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:41:21 (2826d)