■とつげき東北

 人は安易に感動してはならないのと同様、簡単に人を尊敬すべきでない。

 親や兄弟、先生や同僚、知人程度を軽々しく「尊敬」するならば、尊敬の大安売りしにかならない。
 ある人が誰をなぜ尊敬しているのかということは、当人の世界の広さや価値観や知識量のかなりの部分を暗示してしまう。もちろん親や同僚のすばらしい点を感じる瞬間があっても悪いわけではない。だが、たまたま出あっただけの身近な存在が、本当に「尊敬している」と表明するに値する存在である確率はそれほど高いだろうか?
 例えば浪人時代に、ある友達を、数学が得意であるという理由で「尊敬」したとすると、彼を超える数多くいるだろう他の受験生をも「尊敬」せねばならない。だが、その程度の「敬意」が、一体何になるのだろうか。
「自分を大切に育ててくれた苦労した親」を、簡単に尊敬してしまって良いのだろうか。その水準で「尊敬」されるなら、世の中の大半の人間は何がしか「尊敬」されてしまう。そうではない。尊敬という言葉のうちに、ある種の特権性を保たなければ、尊敬することに意味はない。

「尊敬している」ことを、当該「尊敬」の対象に届く範囲で告白することは、人間関係の技術として一つの手法として成立するとしても、それはあくまでも「行為遂行型言語」である。まるで、人をたくさん尊敬すればするほど、他人を尊敬できるという自分の能力が優れているのだと誤解しているかのようだ。
「尊敬」は、自らがどんなものを好きで、どういったものに興味があるのか、その世界における「偉人」は誰か、ということを単に指し示すものになるか、こうした「政治的な」発言のうちにしか現れることがない。

「尊敬する」という行為、あるいはそれを表明する行為のうちには、それを実施する人物の知性が問われるのである。
 それはちょうど、「感動した言葉」の対象が、相田みつをのそれである人物の感情について、私たちが疑問を抱くのと同様にである。

尊重

親を―している:

 視野狭窄を表す。

(偉人)を―している:

 自分がどのような世界に興味を持っているかをそれとなく伝えるために用いられる。

(友人)を―している。

 友好関係の不充実を表す。

  • Nanonium 2010-10-27 (水) 17:42:51
    結構いい項目だと思うage
    高校時代にかけて尊敬のバーゲンセールを度々行っていたのが懐かしいです
     
  • 仙人 2010-10-27 (水) 21:32:57
    自分の働いているチェーンの飲食店の、少し思い込みが激しい30ちょいのバイトのバツイチのおばさんが「私は〜さんを最高の友人だと思っている」「〜さんのああいうとこを尊敬している。」「〜君は若いのに私のことをドキッとさせるけど、でも彼のために好きにならないように、心にブレーキをかけているの、私は理性が強いほうだから」とかちょっと気に入っただけですぐに周囲に吹いてまわってるのがいます。
    で、「家に旦那と子どもいるから遊びに来るな」と言っても来て、拒否ったら「〜だけは許せない。」と以後すごい態度が逆転したり。
    ウチの店の総勢100人ほどの従業員の、会った人文字通り「全員から」キチガイ認定されて、ようやく亡命先が決まった他店でも、「どうすれば嫌われることができるんだろう?」ってくらいの温厚なおじさんおばさん達含む総勢50人ほどの「ほぼ全員から」嫌われていて伝説になってます。
    他人に信頼してると見せかけるのと同時に、自己暗示をしてるのか知りませんが、すごく一方的で痛々しいです。しかも効果ないどころか、逆効果になってるし。それを指摘しても「いやそんなことはない」「そうやって他人のことを悪い目で見てると他人から信頼(略」とか返すだけ。

    本人なりの処世術の模索なんでしょうが、よそでやって欲しいです。
     


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Last-modified: 2010-10-27 (水) 21:32:57 (2826d)