とつげき東北

 以前、別の機会に別の場所で「バカについて述べよ」というお題で論述したものの転載。

下向きの悪意ある視線をめぐる不実な論理の不純な流通について

 人の行動や思考や様子に対して「劣っている、低い」などと判断して蔑む(あるいはそれを表明する)ことを「人をバカにする」と呼ぶとき、私たちは、「勉強ができない人と殺人犯は等しくバカにされるべきだ」という仮説について考えないわけにはいかない。

 私たちの多くは、各々が属してきた共同体(家庭や学校)から、「人をバカにしてはいけない」と繰り返し教えられて育ってきた。この教えは大変多くの人に強く支持されている。人をバカにすることや、それにつながるかもしれないと誰かが神経症気味に予言したあらゆる出来事(運動会のかけっこで1等を決めることなど)に対する人々の過敏な反応からも、それはわかる。
 私の小学生のころの個人的体験だが、金色や銀色などの入った絵の具を学校に持ってきたある子供に向かって、先生は他の生徒の前で突然「たくさんの色が入っていても、えらくありません」と言いだしたことがあった。先生は、その子供が他の生徒の絵の具の貧相さを見下す姿を勝手に想像し、恐れたのだ。
 では私たちは単に人をバカにせずにいれば済むのかというと、そうでもない。逆の側面もある。
 例えばある犯罪者に対して、誰かが「冷酷な犯罪者」という評価を与えたり、犯罪者の人間性を蔑む場面では、ことによると私たちは犯罪者を「バカにする」ことに加担するかのように振舞わなければならない。平均的な人間関係においては、「殺人犯を見下すのはよくない」という見解を示すことは、まずあり得ないからだ。
 私たちは、「人をバカにする」行為を時には禁止されながらも時には推奨され、あるいは強いられるという、奇妙な矛盾にさらされているのである。

 もちろん、共同体が流通させる思考としては、このいくぶんわがままな要求も、不実ながら妥当であるとされなければならない。安定や秩序を保つために共同体が流布させるべき風潮は、以下のような特徴を併せ持つ。
(1)共同体の内部成員同士の攻撃を禁止する。
(2)共同体外部のうち、反撃してくる相手への攻撃を禁止する。
(3)共同体外部のうち、反撃してこない相手か、または、反撃する力を持たない相手(例えば内部の「はみだし者」)への攻撃を許容する。
 例えばごく一般的な日本人が見るテレビ番組において、コメンテーターが、政治家や官僚や犯罪者や「悪い芸能人」やヒキコモリの、そのずるさ、汚らわしさ、醜さ、無能さ、みじめさ、常識のなさを嬉々としてののしる場合を考えてみるとよいだろう。
 なぜそのような敵が選ばれたのか? それらの敵は、各種共同体の「内部」から排除され続けることが平均的には可能で、また反撃される心配が少ないからである。
 そもそも、なぜそのようなことをするのか? 明らかに、それが必要とされているからである。社会不安を与えるとされる数多くの敵が、「殺されるために産み出される」ことが、実は社会(共同体)の表層的な安定を保っているわけだ。
 こうした力学を考えれば、学力の劣等に対して向けられる下向きの悪意ある視線と、「人間性」の劣等に対して向けられるその視線との間に、悪趣味な手口で「違い」が捏造され続けようとしている現状さえも、合理的であると言われなければならないのだ。

 とはいえ普通、「共同体のルール」など、誰が喜んで守るだろうか。義務として仕方なく守られるのがルールではなかったか。なぜ「人をバカにしてはいけない」は、「年金を滞納してはいけない」よりもはるかに好まれ、正しいことと認識されているのか。
 それに対する自明な解の一つは、保身ということになるだろう。常に下向きの視線にさいなまれる可能性を持つ人々が、それを未然に防ぐために「人をバカにしてはいけない」というルールに賛同するのは当然で、論ずるまでもない。「人を殺してはいけない」と同様、「安全の互酬性」に基づいている。
 だが、それだけではない。事態は、「人をバカにする人はXではない(Xを持たない)」という<名言>の流通と深く関係している。Xとして選ばれるのは「人間性」や「思いやり」などといった、もっともらしい道徳用語に限られない。「偉大さ」「本当にできる人」「自信」「余裕」などの、能力的な要素がその大部分を占めるはずの概念が不適切に並べられることもさして珍しくはないことを思い出してほしい。
 このあつかましい<名言>は、誰かが人をバカにしたことを契機として、当人からどんな望ましい性質をも手続き的に強奪するための「正当な」呪文として人々に提供されている――「年金を滞納する人は本当の金持ちではない」と同程度のグロテスクな違和感をはらみながらも。

 この<名言>は、明白に誤りである。
 それを実際に示してみせると、信じている人々はどう反応するだろうか。私は以前、「偉大な人は人をバカにしない(=人をバカにする人は偉大さを持たない)」と主張してはばからない相手に、反例となる歴史上の偉人たちをいくつか提示して実験してみた。
 相手は一連の退屈なやりとりのあと、残念なことに「偉大さ」の定義を私に問い正し始めた。偉人たちは「偉大だとは限らない」と危なげなく処理されたあげく、結局、「偉大さは比較できないのではないだろうか」「子をたくさん育てた近所の主婦もまた、偉大とは言えまいか」などと整理されてしまったのだった。定義も比較も不可能だと自認するものについて雄弁に語るおもちゃ論理を振り回したため、おもちゃが壊れてしまったのである。
 歴史上の大天才の偉大ささえ安易にうやむやにされかねない<名言>を呪いのように念じながら、多くの人々は「人をバカにする誰か」を探し求める。犯人を見つけるや否や、彼を人間的にだけでなく能力的にも見下し、不当に評価し、蔑む。人を(能力的に)バカにすることを表向き禁止せざるを得ない禁欲主義者たちにとって、この瞬間はまさに、一方的に危険なく人を(能力的に)バカにできる、めったにない好機なのだ。このはしたない至福のひと時のためにこそ、「人をバカにしてはいけない」という見解は、「正しくて信憑性の高いもの」と見なされていなければならなかったのである。

 こうした事態とその推移とを冷静に考慮した今、冒頭の「バカげた仮説」は、私たちの目にいくばくかの真実味と、魅惑的な輝きを帯びて映らざるを得なくなる。
 古い共同体でのいかがわしいならわしを疑わしいやり方で守るための根拠は既にいささかも存在せず、代わりに例えばこの「バカげた仮説」がまさに正しいものとなり得るような、新しい関係が可能なのである。
 それは決して消極的に可能なのではない。
 事態がとりわけ巧く進行するならば、下向きの視線を相互に投げかけあうことで威嚇しあい、正面から、あるいは迂回しながらその視線を克服し上に向かって進むといったような知的で刺激的な関係が構築され得るだろう(このうち少なくとも前半部分に成功したかに見えるのは「2ちゃんねる」というコミュニティである)。
 冒頭の仮説に限らず、私たちが新たな知と出会うために常に必要なことは、過去に安住してきたあらゆる「古きよき」共同体や思考体系の構造を積極的に破壊できる場面(例えば、インターネットにおいて、特定の目的で暫定的に集まる場面など)に身を置き、そこにふさわしい新鮮な立場や思考を提示し続けることだ。
 過去の作法から足を洗い、しかるべき場所で新しい知の可能性を模索しながら生きる試みは、私たちが「バカ」から遠ざかるための、およそ祈りにも似た儀式である。

  • 下向きの視線を相互に投げかけあい、威嚇しあって、でも最終的にその視線を克服して上に向かって進めるなら、それはかなりの理想郷ですね。勉強ができない人のことも殺人犯のことも、等しく「バカにしない」という態度で上に進もうとするのと、ほとんど変わらないんじゃないですか? -- 月 2006-08-25 (金) 01:16:42
  • あくまでもそのようなやり取りが築ける間での関係のことですね。ダメな人はどんな世界でもダメだし、そうした人は私とは関係ない。ここのは、例えば「東大」があることによって上位層が「東大に受かるレベルまで」勉強しようとするのと同様に、またもしどんな大学もどんな成績でも無試験で入れるなら日本の大学生の平均学力がガタ落ちするだろうのと同様に、外的な制約や刺激があることによって初めて伸びるものが存在し、それがこういう部分にもあるんじゃないか、という話です。 -- とつげき東北 2006-08-25 (金) 03:08:35
  • 「昔」は、共同体内に共有される思想というものが非常に「似通った」ものだったはずだけども、ネット等の登場等によって、一気に世界が広がったわけですよ。月と私は、ネットがなければきっと意見交換などできなかった。そこで「なにあの人! 変な人!」といって思想的に引きこもるのではなくて、互いに牽制しあったりバカにしあったりする中で育つような関係ができる可能性が開ける。麻雀だってそうで、東風荘という客観的に成績が残る空間ができたことで、明らかに初期より全体のレベルが向上してます。「自分たちの世界」だけで語ることができなくなること、下向きの視線を投げかけあうことによる刺激とはそういったことです。 -- とつげき東北 2006-08-25 (金) 03:13:08
  • (議論記録5)における相手が、議論を通じて何を学びまたは何を学ばなかったかは存じませんが、あれを最初から「お互いの意見がありますね」などと尊重しあっておわってたら、知も、笑いも、ひょっとしたら彼が得たかもしれない少しの何かも、決して生まれなかったでしょう。 -- とつげき東北 2006-08-25 (金) 03:15:16
  • 大筋では同意です。でも、相手をバカにしないで反対の思想を述べることは、充分可能です。とか言っておこう、一応・・・ -- 月 2006-08-25 (金) 11:42:17
  • 『馬鹿って言う奴が馬鹿』これを言う奴は自分で馬鹿と認めてることになる。俺は馬鹿って言う奴が馬鹿かどうかはその時点ではわからないと思うが、『馬鹿って言う奴は馬鹿』って言う奴は馬鹿だと思う。 -- 原田 2006-12-11 (月) 08:32:07
  • 2007-05-19 (土) 11:07:58
    >定義も比較も不可能だと自認するものについて雄弁に語るおもちゃ論理を振り回したため、おもちゃが壊れてしまったのである。

    と、あるけど比較する場合は議論において定義しないとなにも始まらないってこと?定義によっていろいろ解釈が変わってくる場合はどうするの?

 

  • マネ 2007-05-19 (土) 12:10:31
    >A
    暗黙に了解されてるなら別に定義なんかする必要なんかないし、暗黙の了解が崩れてるなら定義を確認すればいいよ、普通に。

    「定義によって解釈が変わる」があらゆるケースに妥当することぐらいすぐ気づこう。
     

  • マネ 2007-05-19 (土) 12:13:38
    本文中の彼の主張「偉大な人は人をバカにしない」は、「人をバカにする人は偉大ではない」という定義の強弁でしかないんだけど、大衆っぽく「定義の違い」に逃げただけではこれが露見してしまうんだよね。だから、「定義が違う」からさらに「定義はできない」にまで逃げ込む必要があって、そのために右往左往しているさまが面白すぎですなw
     
  • 亡国 2007-05-19 (土) 12:16:00
    >A
    質問がへん。
    「比較も定義ももできないことを議論しても始まらないってこと?」
    とすべき。
    回答は、もちろんそう、あたりまえ。

    ただ、「定義も比較も不可能だと自認すること」を「雄弁に語る」さまを観賞するのは楽しい。うっとおしい場合はさておき、相手の猫の目のようにコロコロ変わる定義や比較に付き合うというのがさらなる有段者の態度。こちらからおもちゃを修復してやる作業も楽しい。すぐまた壊されるが。

    「定義も比較も不可能だと自認することを雄弁に語る」達人が編んだのが「禅の公案」。なにしろ一方通行で進入禁止。


     

  • 亡国 2007-05-19 (土) 12:40:17
    追記
    >「定義も比較も不可能だと自認すること」を「雄弁に語る」さまを観賞するのは楽しい

    おそらく、昨年のM−1グランプリを凌ぐ。
     

  • 2008-09-25 (木) 23:04:12
    ^p^あうあうあーをバカにして何が悪い!俺は謝罪などしない。
    ^p^を雇ってるパン屋とか潰れろ。補助金を出すな。モッタイナス。
     
  • はいはい 2008-09-27 (土) 02:47:26
    なんつーか半角全角総動員なのに行数が乱れてない。
    俺はそういうところに「あ」の素敵さをみるんだわ。
     
  • ここまで読んだよ 2009-10-20 (火) 21:40:47
    掲題の発言は掲題のとおり
    掲題の行動は以下のとおり
    →書込み禁止
     

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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:41:06 (2646d)