とつげき東北

 現代化に乗り遅れたまま大衆に喜ばれる、「感動的芸術」と考えられている産物。

 建築も、絵画も、音楽も、そして(詩を含む)文学もとうの昔に相対化され、「芸術」はひとたび哲学的ないし美学的終焉を迎えた。はずであった。
 しかし大衆の思想は、いつでも時代の最先端から何世紀も遅れるものだ。
 それゆえ、「悲劇的な、または感動的な詩」が、21世紀を迎えたいまなお彼らにとっての唯一無二の「詩」であり、その「表現」に係る作業の安楽さから、各種蒙昧な連中によって引き継がれ受け継がれ再生産され続けるゴミとしてその残滓が残っている。

 何の技術も持たない大衆は、ゲームプログラムや楽曲作成や絵画描写や建築デザインではなく、こぞって「詩の表現」をしたがる。音楽雑誌でバンドメンバーを募集するコーナーでも、やたら「当方ヴォーカル・作詞担当希望」が目立つ。
 そういった者どもによって作成される「詩」は、そうと覚悟して読んでいても、ついつい噴飯を免れ得ない代物であることが多い。

 商業的音楽における「歌詞」が、平均的に極めて低い思想水準であり続けるのも、テレビドラマがそうであるのと同様、消費者の思想的レベルの低さに基づくものである。映画や書籍は「相対的に、能動的な姿勢で」閲覧されるという特質から、それなりにターゲットを絞ることができるゆえ、時として難解であったり知的に「深い」内容足りえるが、テレビドラマや「メジャーな音楽」においてはそうはいかないのである(当然のことながら、このうち閲覧に対してもっとも敷居の高い「書籍」が、もっとも思想的に深いものを表現できる。ここに一つの、「芸術」における一種の「経済学的限界」を見てとれるであろう)。

(解説)歌詞に見られる名言性

  • 「建築も、絵画も、音楽も、そして(詩を含む)文学もとうの昔に相対化され、「芸術」はひとたび哲学的ないし美学的終焉を迎えた。はずであった。」 詳しく教えて下さい。 -- トビ 2007-01-11 (木) 06:44:10
  • 思想はニーチェによって、絵画はマルセル・デュシャンによって、ピアノはジョン・ケージによって相対化された。他にも「○○の死」はモダンへのアンチテーゼとして安っぽくではあるがたくさん語られてきた。現代、普通に「詩」と思われている薄気味悪い文字列もまた、そうであったはずだったが、鈍感な連中はそれが起きたことさえ知らないのである。 -- とつげき東北 2007-01-12 (金) 23:09:31
  • 知らなくても生きていけるしな。 -- あ 2007-01-12 (金) 23:33:21
  • ?相対化というのは「異なる立場に視点を移動して見ること」ですよね?なぜ異なる立場に視点を移動して見ることが終焉に繋がりそれ以後も続ける人間はバカになるんでしょうか?またとつげき東北さんがよく挙げるフーコーも哲学が相対化された後の人じゃ?でもとつげき東北さんが間違ってるというのは考えられないのでこれは私の無知無能から来る物だと思われます。宜しければご教授下さい。 -- 2007-01-13 (土) 02:31:12
  • 哲学的な文脈における「相対化」というのは、歴史的に、「○○中心主義からの離脱」であったわけです。人間中心主義、音声中心主義、ロゴス中心主義・・・その他。途方もなく長い間相対化できずに放置されてたバカらしい風習(いわば名言)が相対化されたとき、それ(名言)はやはりとてつもなく愚かしく見える。その一つとして「道徳的感動中心主義としての詩」がこの項目で取り上げられている。 -- とつげき東北 2007-01-13 (土) 03:31:36
  • つまり○○をやるから愚かなのではなく○○の○○中心主義を相対化出来ないから愚かなんですね。つまり「道徳的感動中心主義としての詩」以外の詩や「音声絶対主義以外の音楽」なら問題ないと言う事ですか? -- 2007-01-13 (土) 05:47:17
  • 「DEATH NOTE」や「HUNTER×HUNTER」といったマンガの良いところは、作者が「善」への信仰を相対化していることです。結果的に、「賢い」と設定されたキャラが「善」に捉われた愚行をしない。マンガやドラマや映画で、大半の知的な人間ががっかりさせられるのは、「ここぞ」というときに、「賢い」設定の人が死ぬほど愚かな選択・会話・判断をする瞬間です。頭の悪さというのは、そういうつもりはなくても各種表現の中に露呈するものです。本題からずれましたが、「周囲の平均的な人間が詩だと認識しているキモイ文字列」こそが「詩」に他ならないと考え、そのくせ現代詩の動向を知ろうともせず、感動につつまれてまねごとをしてみるような例は救えないということです。言葉遊びのレベルに達しない「マイ詩」さらしてる人っていますよね。 -- とつげき東北 2007-01-13 (土) 12:06:34
  • 「善」に捉われた愚行と言うのは登場人物が物質的利益が無いのに人助けをしたり仲間が傷つけられて怒ったり所謂残虐な行為を目にして怒りの感情を表す事ですよね?真に賢い人間は笑い以外の感情を封殺し道徳を無視でき常に物質的損得を考える、って事でいいんですか? -- トビ 2007-01-14 (日) 03:33:02
  • そのような「ステレオタイプな、冷静な(合理的な)人の行為」こそが、私が言った「マンガ等で表現される、『賢い設定の人が行う愚行』」の典型です。実際、ドラマなどで表現されたりし、「合理的な人は心が冷たい」といった描かれ方をすることもあります。そんな人はなんら合理的ではないのですが、製作者の頭が世の中の平均に近いほど激烈に悪いから、「頭のよい人」の考え方を理解することさえままならないわけです。それにより表現力が劇的に低下する。これを考えると、ストーリーを含む芸術表現の多くには知性が必須ですね。栗本慎一郎氏も「間違いだらけの大学選び」において、「カメラのシャッターを押すにも、日芸(日大芸術学部)程度の知性(偏差値)は必要でしょう」といったことを書いています(これは全国平均的な学力の人にはやや困難なことです)。ちなみに「合理」関係については、「宝くじを買うのは期待値的に不利」あたりが参考になるかと。 -- とつげき東北 2007-01-14 (日) 04:56:34
  • 当然ながら、製作者の頭が激烈に悪い場合と製作者が大衆を理解している場合がある、殆ど全てが前者ですけど>『賢い設定の人が行う愚行』 -- 2007-01-14 (日) 05:35:19
  • うわ、相当恥ずかしい事を書いてしまった様です... -- トビ 2007-01-14 (日) 07:09:09
  • 最後に聞きたいんですが「賢い設定の人間が行う「善」に捉われた愚行」というのは具体的になんなんでしょう? -- トビ 2007-01-14 (日) 07:10:37
  • いえいえ、質問によってポイントが明確になりますのでありがたいです。「賢い設定の人間が行う『善』に捉われた愚行」の一例として、私の大好きな(笑)「博士の愛した数式(映画版)」をとりあげましょう。この博士、数学の人なのですが、事故にあい、記憶が保てなくなってしまい、まあまっとうな社会生活を送れなくなりました。それでも数学を愛し、最後の方には高額の懸賞問題を解いてしまうほど数学ができるのです。事故にあってしまったが数学を愛し続ける博士。ただ、そのような境遇に立たされた博士はいったいどんなことを考えているのか――凡庸なる知性しか持たない私は、少なくともそれがどのように描かれるか、非常にわくわくしていたのです。ところが映画の中盤、あるとき博士が急に頭をかかえはじめ、「(記憶が保てないため)自分は何も社会の役に立ていない」と悩みを吐露してしまうのです。「はぁ?」です。耳を疑いましたよ。次の瞬間確信しました。この映画はクソであると。ディス シネマ イズクソ、アンデュー? と。天才的な素養を持つ、悲しい境遇に立たされた博士の「感情」や数学への愛を描く――そういった「表現」への真摯な態度はこの映画にはありえないわけです。数学なんてやっている時点で、どう考えても社会の役に立つ」わけがありません。数学研究のほとんどは社会の無駄です。そんな俗なことではなくて、無意味な強度への意志とか、そういったものが描かれなければ「数学への愛」など表現できようはずもない。私だって麻雀研究を「愛しているか」とまで言われたら、プッと笑うしかないですが、社会にも、そして自分の金銭的な収入にも役立たない「麻雀研究」のことが好きです。「数式への愛」と「社会に役立つ」、この二律背反性。「役立ちたい」などというカスな考えを持っているなら、少なくとも応用科学の分野に進まなければならないし、そうでなくとも、それが嫌なら早く自殺すればいいでしょうが。それを何ですか、臆面もなく「社会の役に立たない」って。博士は、一見深遠で奥ゆかしい感じの振る舞いをしているかに描かれていましたが、実のところ、こうした社会道徳的なクズな善悪の問題で「悩む」ためにそのうちの多くの時間が割かれてしまっていたのでしょうか。しかも登場人物から道徳的慰めを受けて以来、この件についてはそれっきりです。ただの自慰のための「悩み」だったわけです。役立たずは死ねよ。頭悪すぎです。底なしのバカです。事故で死ねばよかったのに――この見解は、一緒に観た女性(理系)とも完全に一致しました。まあこの映画はこのほかにもあらゆる恥ずかしい思想的低劣さにつつまれていたのですが、このシーンは強烈でした。 -- とつげき東北 2007-01-14 (日) 07:36:03
  • 数学者が社会の役に役に立ちたいと言うのはお笑いだというのには完全に同意しますが「社会の役に役に立ちたい」というのはそこまでカスな考えでしょうか?自分の属する共同体を改善したいと言うのがなぜカスになるのか解りません。私が道徳に洗脳されてるからでしょうか? -- トビ 2007-01-14 (日) 19:42:08
  • あととつげき東北さんからすれば「物質的利益は無いが人を助ける」や「仲間や恋人がクズ扱い・傷つけられ・殺され主人公が激昂する」というのはありでしょうか? -- 2007-01-14 (日) 19:43:57
  • そういう「社会的承認を得る」程度のことを、普通の人が目指すというのはわかります。「会社でしっかり働きたい」とか言う同期もいます。とりあえずは、一般にはそれが正当な欲求だとしてもですよ、数学の天才で、懸賞問題を解いてしまう博士を描くのに、それをそのままあてはめるのは、あんまりじゃないですか。そんなもん映画で描くべきではない。大衆のものさしで偉人を測ることがどれほどつまらんことか、私たちは嫌というほど知っているはずです。フォン・ノイマンは、原爆の軌道計算などを手がけ、最期までアメリカの軍事戦略を支えました。原爆や戦争で人が死ぬかどうかについてなど、彼にとってはどうでもよかったのです。そこに真理があり、彼だけがそれを見出すことが可能だったからです。研究者として当たり前ですね。ところが大衆が天才を描こうとすると、上述映画で見られるような「大衆的な意味での社会承認」がなければ、彼ら(天才たち)もきっと寂しいのではなかろうか、といったアホな間違いが発生してしまう。自分たちの承認なくして天才なし、という一つの願望をそのまま実社会にあてはめようとしてしまう(例:「かわいそうな人ね」)。天才というべき本当に能力のある人は、「他者」からワイワイ言われなくとも、さんざん批判されても、自己承認が可能なのに。天才とは何の関係もない私程度でさえそうです。いい大人になって自己承認さえできない思想的無能が、「他者からの承認」を求めてさまようこと自体はある程度「自然な」、つまり凡庸なやり方ではあるでしょうが、現代においては単に精神薄弱だとしか言いようのないその種の思考を、いやしくも「天才」だとして描こうとしている対象にあてはめるのは、無礼じゃないですか。池田付属小学校乱入事件の宅間(死刑執行時は吉田)元死刑囚でさえ、死刑執行時には自己承認できていました。世の中がどんなことを言おうとも、自分はこれでいい、と考えていたと思われます。この映画に描かれた「天才」は、天才であるべきだったのに、宅間以下の思想水準だったというわけです。数学はできるがバカで愛らしいバカなバカを描こうとした結果そうなっている、というギャグ映画なら別にいいですけどね。「共同体の改善」という概念は、ほとんど幻想であり、やはり道徳的です。 -- とつげき東北 2007-01-14 (日) 20:04:12
  • >「物質的利益は無いが人を助ける」や「仲間や恋人がクズ扱い・傷つけられ・殺され主人公が激昂する」というのはありでしょうか 状況によりますが、まあありですよ。ただその仕方が非常に醜く描かれていることが多いですね。「なんだとっ!?」とかですね。聞きなおしてどうするの。心底からの怒りは、できる限り胸のうちにしまっておいて、状況を好転させるために、狡猾にかつ着実に、自らの内面に生じた呪いの結果もたらされる「べき」不自由を相手につきつけていくべきでしょう。 -- とつげき東北 2007-01-14 (日) 20:09:55
  • 面白いのは2003年にTBSがテレビ50周年記念で流した「さとうきび畑」というドラマですね。戦争による、沖縄での悲しい出来事等を描こうとしたはずのドラマです。ですが、この中で明石家さんまの演じる主人公は、「お国のために戦う」ことで家族や命を粗末にすることの「無駄さ」を、現代道徳に基づいて得々と語ってしまうのです。お国のために死んでいった全ての人に対する限りない冒涜であるとともに、死のふちに立たされて「お国のため」という理由付けを迫られ、うすうす間違いだと気付きつつも承諾せざるをえなかった若者たちのやるせない気持ちを、「平和がだいじ、戦争はよくないみんな仲良くしよう」的なあっけらかんとした現代道徳にのみ立脚して踏みにじるという、恐ろしく非人道的なドラマでした。信じがたい醜さでした。大衆にとって「感動的」に他ならなかったこのドラマを、TBSはなんとテレビ50周年記念などと言って放送したのですね。大衆消費社会の愚かさへの記念でしょうか。自らの放送が、今後何世紀にもわたってこの低い水準のまま繰り返されるのだという嫌な予言のつもりでしょうか。それとも単純な一発ギャグだったのでしょうか。 -- とつげき東北 2007-01-14 (日) 20:34:41
  • 凸氏がここでトビ氏等に説明をすることは「物質的利益は無いが人を助ける」に近い、少なからず何らかの利益(自己の幸福、欲求を満たす等も含め)がなければ人は行動しないだろ。 --   2007-01-14 (日) 23:44:51
  • 知的な名無しが居る。 -- M 2007-01-14 (日) 23:55:28
  • ニーチェによる思想の相対化を手っ取り早く、かつ、正確に理解するのにおすすめの本があったら教えていただけないでしょうか。「一冊読むならこれ」という本。 -- えこ 2007-01-16 (火) 16:02:10
  • そうそう。忘れてました。わたし女です。 -- えこ 2007-01-16 (火) 16:15:24
  • 「善悪の彼岸」 -- D 2007-01-16 (火) 17:30:32
  • 特権階級ですねw -- M 2007-01-16 (火) 18:25:08
  • ありがとうございます! 何らかの利益がなければ人は行動しませんからね(笑)<特権階級 今後も私は女ということでひとつ。 -- えこ 2007-01-16 (火) 23:27:42
  • では特待生候補(稽燹砲貿定。ニーチェの思想を手っ取り早くかぁ。なかなかいいのがなさげだね。永井均氏のたとえば「これがニーチェだ!」は、まあ「個人的に」読んでてぜんぜん楽しくないし、講談社現代新書の「キリスト教は邪教です!」(誰が書いたかしらん)は5ページくらいで読むのやめたし。割と本格的に1から読むなら「善悪の彼岸」「道徳の系譜」(いずれも岩波文庫)をおすすめする。ただその前に、手前味噌ながらおれのHPの「黒とつ(http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/majimetotu2.htm)」の「神話から現実へ!」「『道徳ゲーム』の終焉」を読んでおくとずいぶん楽だと思う。今読むと恥ずかしいんだが(笑) まあニーチェというのは現代思想の根幹の大部分を構築した人と思うので、このあたりから入るとベター。 -- とつげき東北 2007-01-17 (水) 01:06:27
  • 「権力への意志」(ちくま)はニーチェ上級者向け。他は・・・ん〜「ツァラトゥストラ」は駄作。そのほかはあんま覚えてない(笑) -- とつげき東北 2007-01-17 (水) 01:08:53
  • ニーチェのどの言葉を見ても「あーこのことを言ってるのね。はいはい納得。」「あーニーチェ特有のこんな変な趣味のせいでまた同じ間違いしてるのね。くくく」と後付でわかるようになればとりあえず上級者と思う。 -- とつげき東北 2007-01-17 (水) 01:14:58
  • 相対化したければ、「黒とつ」と「国家の品格」を読むことでしょうか?多分、ひとつの文献で相対化できることはないと思うけどな。対極があるからこそ、手っ取り早く(ってのがちょっとだけど)相対化できるのではないかなぁ -- キクロン 2007-01-17 (水) 01:22:37
  • 対極にある真理合戦をそのまま見ていると、どっちかに寄る場合が多いよ。そういう真理的対立自体が、クソゲーだと気づくところが第一歩ではないかなぁ。 -- とつげき東北 2007-01-17 (水) 02:11:20
  • 郵政民営化は正しいか/正しくないか、右翼か/左翼か、という対立の構造がもう・・・ね。という。 -- とつげき東北 2007-01-17 (水) 02:12:25
  • > とつ うん、その通りだと思う。麻雀の流れの有無が、本来、結論だけや公式として覚えるようなことではないのと同様だと思う。 手っ取り早く、違いの判る女になりたいだけなら、ということ。 どちらサイドになるとしても、両極の色は見えるのではないかと。 良著も悪書も合わせ読み、思惟し続ける事が遠いようだけど最短。 追)「手っ取り早く、且つ、正確に」という人間が、ニーチェを読了できるかどうかすら ? なんだけどね(笑) まぁ、今、(私がなんと言おうとも) えこ が国家の品格を併せ読むことはなさそうだということは明白ですな(笑) -- キクロン 2007-01-17 (水) 09:21:50
  • 科学する麻雀』と『超・入門・科学する麻雀』を併せ読むと効果大だそうです(十冊以上買わせると五百円のキャッシュバックでしたね?)。 -- M 2007-01-17 (水) 22:44:40
  • 返事が遅れてしまいましたが私の愚な質問に親切に答えて下さってありがとうございました。そこらの自称健全な市民よりよっぽど親切な方だと思いますよ、とつげき東北さんは。 -- トビ 2007-01-22 (月) 23:54:25
  • '''' 2007-02-28 (水) 19:18:57
    善悪の彼岸を読んだが全然分からなかった。
    難しいなー。
     
  • 通りすがり 2007-04-08 (日) 01:23:14
    横槍でスンマソ
    現代化という視点は変な気がする
    古典にも良さがある
    ただ別に、アフォや無能を正当化しているわけではないが

    個人的には詩は 一般化し ケーススタディができ アフォリズム的であるという点で凄いと思うのだが
     
     

  • M 2007-04-10 (火) 23:29:00
    詩ほどそうした観点から遠い文化は無いと思うが…
    詩って、データベースから無作為に抽出した言葉を伝統的文法に則って表現した事ちゃうのん?
     
  • 時間 2007-04-10 (火) 23:39:04
    そんな原理主義になることもないと思うが
    運のみとなったゲージュツにも、一部にはセンスを認める軽やかさもいいぜ
     
  • M 2007-04-11 (水) 20:59:37
    エミネムとかマンソンとか黒夢とか、クレイジーでクールな詩は好きなんだけど・・・最近なぁ・・・・・・
     
  • '''' 2007-04-12 (木) 16:02:48
    バナナの皮で転んで打ちどころが悪かったら全てが終わってしまうような無意味な世界において、死の恐怖と笑いを同時に表現出来るのは、例えば文学と称される行いなんじゃない。運のみと言えばそらそうだけど、それを前提としても、凄い詩は「数学」並みに揺るぎないものだよ。
     
  • M 2007-04-12 (木) 19:23:41
    前半は同意するけど、後半がどうしても馴染めない。例えば、どんな名作にせよ何回も読んだら飽きてくるし、駄作でも違う環境で見れば何かしらの感嘆と教訓が埋もれてたりするわけで。

    知識や知恵やら以前に、何と言うか、飢餓感に似た何かが俺にはもう無いのかもしれんなぁと思うこの頃…
     

  • Revin 2007-04-16 (月) 14:21:19
    歌詞ではなく「詩」であるなら、思想的に高い(凡庸に終わらず、笑い・「うまくいったものだなぁ」と感心できる)ものはあると感じるね。
    例えば戦前に没した中原中也という超有名な詩人が居るが、その作品を読むと思わず笑ってしまう。
    参考:http://kyoto.cool.ne.jp/k_bamboo/mikanshisono2.htm#kyoukinotegami
    こうした詩から読み取れる面白さは「自動的でない」し、独特と感じる。
    さらに、小説などでたまに面白おかしくパロディ的に引用されていたりして(「どうして殺したんだ!」「気がフーッと致した」のような)、こうしたものを楽しむことは非名言的で、優れた映画や音楽を楽しむのと同じ水準の行為です。
     
  • M 2007-04-16 (月) 18:31:42
    う〜む・・・文学の面白さはコンテンツのメタ的考察から成りうるから、詩的データの欠損が俺にある事が、この種の面白さを俺が理解できない事の要因であると分析してみる。

    データの欠損によってメタ的な計算が通用しない人々に於いて、メタ的計算高さはランダムな文字列とほぼ変わらない意味不明な言葉の羅列にあるように観察できる。知恵と知識の包括的な関係が知的ならば、知識の欠損は名言的であり、従って俺は名言的である。あら嫌だ何このオナニー

    ところで、文学の面白さがメタ的考察であると仮定すると、「涼宮ハルヒの憂鬱」が文学賞(SF大賞とか。詳しくは東浩紀氏のHPにて)を取れない要因は、審査員のメタ的なデータベースが自然主義的文体に依存しているからであり、従ってライトノベルの評価は第三世代オタクと呼ばれる人々が審査するような場が現れるまで評価される事が無いので、ライトノベルは長年、文学賞と無縁でいると分析できる。

    というような事を「動物化するポストモダン」を見ながら考えていた。シェイクスピアの素晴らしさもいまいち解らんのだよなぁ・・・
     

  • えー 2007-04-16 (月) 18:35:18
    >Revin
    なんじゃこりゃー酷いなw(褒め言葉)

    詩で言うなら、漢詩の律詩や絶句とか、俳句はどうなるかな。
    形式をあえて縛る事で表現が上手いなぁと感じる事はあるんだが。
     

  • 地デジ 2009-04-24 (金) 23:41:52
    芸術が「運」のみってのはどういった意味なんでしょう
    「優れた芸術」と認められるには運さえあればいいってことですか?
     
  • 』人 2009-04-25 (土) 00:35:08
    なんかあがってたので便乗。
    私は芸術も麻雀のように「実力3運7」(もしかしたら運3実力7かもしれない)の世界ではないかと思います。
    携帯小説の「恋空」のように、日本語のレベルが低いにも関わらず評価される事もあれば、「花右京メイド隊」のように稚拙な絵やストーリーの漫画が売れてしまう事もあります。
    しかし、売れている大半の小説や漫画(又は絵画等の芸術分野)は私より絵も文章も上手く、一定水準は保っているように感じます。
    それを運のみと言うのは暴論では無いでしょうか。
     
  • '''' 2009-04-25 (土) 12:07:53
    では俺も便乗。
    今更当該書き込みを行った時間氏が返事をくれる筈がないと思うので俺が代わりに返事してみる。
    時間氏は「芸術」ではなく「ゲージュツ」と表記していることに注目してみよう。つまり、これは相対化された「芸術」という意味だ。凸が○○中心主義から脱却できた筈のものに気づけず、未だ○○中心主義にこだわり続けるのはあほらしい、と言っている。脱却する前に、「みんな」がその○○中心主義に陥ってあっちにいったりこっちにいったりするのはなぜか?それが「運」であろう、ということでは?
    「売れている大半の小説や漫画(又は絵画等の芸術分野)」が』人氏よりレベルが高いか低いかなどどうでもよろしい。その「一定水準」とやらが相対化されていない、またはされたのに気づかれていないことがここで問題として取り上げられている。もしやその「水準」というのが過去から現在までずっと不変の確立された基準であるなどとは考えておるまいな?
     
  • とつげき東北 2009-04-25 (土) 13:26:49
    とりあえず気になったのは、
    >麻雀のように「実力3運7」
    の記述だな(笑)

    もちろん本意で書いているのではないだろう(と期待する)が、麻雀界における名言の一つではある。
    ルール差などについて厳密に考えるまでもなく、実力の、結果に対する寄与率は、最低でも試合数及び対戦相手との実力差に依存する関数で表される。

    これを「運7だ」「いや8だ」と、定数で言い争っている状況というのがここ何十年と続いていて、かつ、未だにその種の議論が絶えないわけだが、この「高校レベル以下」性こそが、麻雀界における言説の水準をそのまま表しているといえよう。
     

  • '''' 2009-04-26 (日) 17:52:01
    おお、凸が久しく見ぬ鬼畜モードだ(笑)
    ここからどうやって切り返せばいいんだ』人氏(笑)
    凸も期待しているが、健闘を期待する。いやマジで。
     
  • 』人 2009-04-26 (日) 22:37:49
    >・・・さん
    >その「一定水準」とやらが相対化されていない、またはされたのに気づかれていないことがここで問題として取り上げられている。
    相対化されていない事に実力は存在しないとおっしゃるつもりでしょうか?
    例えば美術ではデッサンの正確さが実力の1つにあげられると思いますよね。
    デッサンが上手いだけではプロにはなれないのは事実ではありますが、デッサンが上手いとプロに近づく事は出来ます。少なくとも美大の人でデッサンをした事が無い人はいないでしょう。
    美大出100人の絵と、素人100人の絵を見た場合、美大出の絵が選ばれる事がほとんどかと思います。
    これを実力と言わずして何と言いましょう。

    >「水準」というのが過去から現在までずっと不変の確立された基準であるなどとは考えておるまいな?
    流行廃りもありますし、道具も技術も変わりますから水準には変化があるでしょう。
    しかしながら水墨画にしても、過去の学生の作品は評価されている人に比べ、色使いが単調であったり、線が雑であったり、現代の絵にも通じる「雑さ」があります。ヘタクソに見える「条件」は過去も現代も大方一緒なのではないでしょうか。

    >とつげき東北さん
    wikiを楽しく読ませて頂いてます。お手柔らかにお願いします。と期待できない事を言っておきます。
    で、麻雀のように「実力3運7」については、1回のみの試行を行った場合の「ゆらぎ」について記載させて頂きました。回数をこなせば「ゆらぎ」は限りなく無くなり「実力10」になるのは理解しております。

    >最低でも試合数及び対戦相手との実力差に依存する関数で表される。
    という事ですが、「芸術」は数をこなすのが非常に難しい分野であると思っておりますので、回数が少ない以上「ゆらぎ」は大きくなるのはある程度仕方無いのかなと思います。

    >「運7だ」「いや8だ」と、定数で言い争っている状況
    実力差がある(安定Rに一定の差がある)際に、統計学で信頼できる回数を行い高い人が100%の勝率なら実力が10と言えますよね。
    50%なら運が10と言えますよね。
    これで75%の勝率なら5:5とか言えませんかね?w
    かなり適当ですし1人対1人で麻雀全体の話には出来ていませんけど・・・・・・とつ先生のおかげで信頼できる実力を定義できていますので「ゆらぎ」の係数も定義できそうな気はするんですが。どうなんでしょう。
    下手の考え休むに似たりならスイマセン;
     

  • '''' 2009-04-27 (月) 01:09:31
    >相対化されていない事に実力は存在しないとおっしゃるつもりでしょうか?

    そんなことは言っていない…。
    ○○中心主義(「デッサン力」含む)の中にいる限りにおいては、序列は存在するだろうよ。凸の挙げている「人間中心主義」やら「音声中心主義」やら「ロゴス中心主義」やらの中にあっても、やはり「高度」な思想やらなんやらはあった筈だろう。
    だから、』人氏の言う小説とか漫画とか美術とかの世界でも、「上手い」作品はある。そこには「評価基準」があって、「実力」がある。そこはいい。そこに留まって、あくまで「実力で評価されるべきなのだ」と叫び続けたいならそれもまた一つのあり方だろう。俺は非常に寛容かつ自分自身の能力の限界がみえているので別にそこまで否定しない。凸なら「やはりとてつもなく愚かしく見える」と言うだろうが(笑)
    だが、そうじゃなくて、何が「運のみ」なのかって話。○○中心主義の中では100%実力のみによって評価されると仮定したとしても、じゃあ○○中心主義が××中心主義に移りますよ、という転換点を迎えるのは○○中心主義者の誰かの「実力」によるものなのか?と問うているのだが。

    >ヘタクソに見える「条件」は過去も現代も大方一緒なのではないでしょうか

    以前、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という意見を見たことがあるが、これについて何か論ぜよ。
     

  • 』人 2009-04-27 (月) 08:41:22
    >○○中心主義が××中心主義に移りますよ、という転換点を迎えるのは○○中心主義者の誰かの「実力」によるものなのか?と問うているのだが。
    そもそも××中心主義の中にあっても、評価される○○中心主義的作品は存在する。
    全く評価されなくなるのであれば別ですが、現実にはそうでは無いでしょう。
    ・実力が伴えば評価されやすくなる
    ・流行廃りにのれば評価されやすくなる
    前者は実力であり、後者は運の部分です。

    >以前、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という意見を見たことがあるが、これについて何か論ぜよ。
    1度成功した場合、2度目の作品は実力が軽視されるのは事実です。
    名前は忘れましたが、とある芸術家が便器にサインをいれて「作品だ」と言った事があります。「売れているるとこういう作品も評価されてしまう」という皮肉だったと思いますが、売れた芸術家は慣性のように「○○の作ったものだから凄い」と実力も運もあまり関係なく評価されるという事では無いでしょうか。
    「キャプテン翼」の人と同じような作品を無名の新人が作成しても(キャプテン翼が世になくても)評価される可能性は低いのでは無いでしょうか。

    ヘタクソだから全く評価されないとは言っておらず、ヘタクソは評価され難いと主張しています。

    一応上手くはなってると思うんですけどね、主観ですが。
     

  • '''' 2009-04-27 (月) 15:03:46
    >そもそも××中心主義の中にあっても、評価される○○中心主義的作品は存在する

    論点がずれている。
    俺は評価される際には「100%実力」と仮定した。だったらもうそこに議論の余地はない。問題は、その評価基準がいかにして動くかだけだ。俺は最初からそう主張しており、』人氏がいつまで経っても踏み込んできてくれない点でもある。』人氏は○○中心主義内部からの発言にしか留まっていないが、もうそこにい続けたいのだと表明しているにすぎないと受け取ってよろしいか?

    >1度成功した場合、2度目の作品は実力が軽視されるのは事実です

    和月伸宏、冨樫義博、小畑健、うすた京介等、ついでにとつげき東北氏の事例についてどう考えるか述べよ。
    また、こんな卑近な例でなくとも、一般的に過去の巨匠とされ、複数の作品を輩出している著名な芸術家、作曲家、文筆家他誰でもいい、それが「一発屋」であることを証明せよ。
    もしくは、ある分野においては「一発屋」率が高いことを何らかのデータを用いて示せ。

    >「売れているるとこういう作品も評価されてしまう」という皮肉だった

    全く違う。当該芸術家とはマルセル・デュシャンのことであると教えておいて差し上げるから、ともかく勉強し直すべき。

    >「キャプテン翼」の人と同じような作品を無名の新人が作成しても(キャプテン翼が世になくても)評価される可能性は低いのでは無いでしょうか

    見事に引っかかってくれてありがとう(笑)
    高橋陽一は『キャプテン翼』がデビュー作であった事実についてどう考えるか述べよ。

    >ヘタクソだから全く評価されないとは言っておらず、ヘタクソは評価され難いと主張しています

    「そうとは言い切れない」に付き合うつもりはないし、前後の文との関連性がいまいちよくわからんのでスルー。
     

  • 』人 2009-04-27 (月) 21:37:17
    >俺は評価される際には「100%実力」と仮定した。
    そもそもの仮定が違う。数少ない試行の中では、麻雀で100%勝てるような「実力」は存在せず、芸術の分野でも100%売れる「実力」は存在しない。
    売れる確立をあげる事が「実力」です。

    麻雀よりも流行り廃りの状況の変化は激しく、転換点は「運のみ」と言えるでしょうが、所詮「流行り」は売れる確立があがる状況であり、「廃り」は売れる確立が下がる状況です100%や0%はあり得ない。
    そして「実力」によってその確立を高くしていくんです。評価基準が動こうが「実力」が消えるわけでは無い。
    麻雀でも、好配牌なら必ず和了れるわけでもなく、酷い配牌なら必ず和了れないわけでもなく、和了り率をあげるのが牌効率であり実力(のうちの1つ)でしょう?

    100%や0%なんていう極論は現実的にありえず、確立が存在する以上、試行回数が少なければ「運」は存在します。

    >「一発屋」であることを証明せよ。
    誤解させましたね、すいません。
    実力が軽視されるというのは「ネームバリュー」が先行し、大した事の無い作品でも評価されやすい状況が作られるという事です。
    その場合、継続して売れる確立が高くなります。確変状態ですね。

    >マルセル・デュシャンのことであると教えておいて差し上げるから
    ありがとう御座います。全く違いましたね;
    むしろこれも芸術だっていう立場の人だったんですね;
    該当する発言の撤回と謝罪を致します。申し訳ありません。

    >高橋陽一は『キャプテン翼』がデビュー作であった事実についてどう考えるか述べよ。
    低い確率の状態で売れただけ。確立の高さは実力と流行に依存し、試行した際に成功の確率をひけるかどうかは運による。矛盾はありません。
     

  • '''' 2009-04-28 (火) 12:30:46
    >転換点は「運のみ」と言えるでしょうが

    ようやく踏み込んできてくれたか。
    俺の目的は、何が「運のみ」なのか?という地デジ氏と』人氏の質問に答えることだったので、』人氏が「芸術にも運のみの部分がある」とわかってくれたのならもう役目は果たしたと言える。
    あとは枝葉だが、まあ詰め将棋でもしていきますかね。

    >>俺は評価される際には「100%実力」と仮定した。
    >そもそもの仮定が違う

    そんなことはわかりきってる。
    』人氏の主張は、「○○中心主義に則る限り、その人は実力と運が混然となって評価される」だろう。それが定数的なものであろうと数学的なものであろうと、主張自体に特に異論はない。では、なぜこんな仮定を置いたのか?
    俺は、何が「運のみ」なのか?という点を説明したかった。で、その最大の部分は「転換点」であろうと考えた。だから、評価されるにあたっての、つまり○○中心主義内部における「運」の部分を極力排除してみせたかったのだ。』人氏が挙げた「恋空」やら「花右京メイド隊」やらように、「運のみ」によって、少なくとも「運」要素がかなり大きく関わって評価される事態もあるだろう。だが、俺が言いたかったのはそういうことじゃない。評価されることに全く運が絡まないとは思わん。しかし、運が絡むこと、どの程度の配分で運が持ってこられるのか、それ自体、運じゃないのか?そんな不確かなものは「運のみ」とは言い切れない。「運のみ」と言い切れるのは、「転換点」だろう、それを強調するための仮定だった、ということだ。これで理解できたか?

    >実力が軽視されるというのは「ネームバリュー」が先行し、大した事の無い作品でも評価されやすい状況が作られるという事です。
    >その場合、継続して売れる確立が高くなります。確変状態ですね

    だから、その根拠を出せと言っている。
    実際に「ネームバリュー」のみで売れたわけではない作品を出した例がいくらでもあるだろう。凸信者がいることも確かだが、凸の言うことにちゃんとしたツッコミを入れてくる読者だっているじゃないか。もう一つ言えば、藤崎竜、和月伸宏のように、大成功した作品もあったが、その後かいたのはうまくいかなかったという例もある(なお、和月伸宏が大成功したのは、『るろうに剣心』と『武装錬金』で、うまくいかなかったのはその中間に当たる『GUN BLAZE WEST』なのでおかしいことは言っていない)。「そうとは言い切れない」に持っていくつもりならご勘弁願いたい。真面目に考えてくれ。
    んで、ついでに『キャプテン翼』においては、これがデビュー作だったのだから「ネームバリュー」など存在する筈がなく、そもそもこれは誤った見解である。

    >むしろこれも芸術だっていう立場の人だったんですね

    ……。
    まあよいわ。
    がんばってくれ。

    >低い確率の状態で売れただけ
    確立の高さは実力と流行に依存し、試行した際に成功の確率をひけるかどうかは運による

    おかしいだろ(笑)
    「実力と流行に依存し」ているのか「運」のみなのかどっちなんだよ(笑)
    そして、『キャプテン翼』はウィキペディアによれば「日本におけるサッカーの知名度や人気を飛躍的に高めた作品とも云われている」「アニメ化もされ世界的大ヒット作となり、日本のサッカー人気に大きく寄与した」、つまりむしろ流行をつくりだした存在であり、自分が流行に乗っていたものではないと考えられる。「低い確率」ということは、』人氏は『キャプテン翼』には「実力」が伴っていないと感じていると思われるが、「実力」もないのにそんなことができるのか?その点はどうか。
    あと、上でも言ったが、「無名の新人が作成しても評価される可能性は低い」とのことだが、高橋陽一はまさに「無名の新人」だったんだが。


    つーかさ、』人氏の言い方ってめっちゃ適当じゃね?
    「運」と「実力」の境目がすごい恣意的な気がするんだが。自分の気に入らない作品が売れてれば「流行だ」「運だ」と言うし、評価されて然るべきだと思うのが評価されてれば「実力だ」と言えちゃうじゃん。「運もあるけど」というエクスキューズつきで。主観に応じて根拠がころころ変わってるし、変えられるし、どうとでも「説明」できるように見えるんだけど。「運」と「実力」ってどうやってわけて考えてんの?
     

  • 』人 2009-04-28 (火) 20:37:24
    「転換点は運のみである」という意見については一致したようですね。しかし
    >「芸術にも運のみの部分がある」
    これは「芸術には実力の部分も運の部分もある」という私の主張とはずれていないのでは?全体を示しての『「実力3運7」(もしかしたら運3実力7かもしれない)』という発言だったのですから、「部分」では当初の主張とずれていないと思いますが……

    >「○○中心主義に則る限り、その人は実力と運が混然となって評価される」
    そもそも「○○中心主義」という仮定もおいていないのですが、「その人は実力と運が混然となって評価される」というのが当初からの主張です。
    「××中心主義」の中でも「○○中心主義」が売れる事がある以上「実力と運が混然となって評価される」。これが「□□中心主義」でも「○○中心主義」でも構いません。
    今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」ですし、「運」のうちの1つでしょう。

    >だから、その根拠を出せと言っている。
    >凸信者がいることも確かだが、だっているじゃないか。凸の言うことにちゃんとしたツッコミを入れてくる読者
    仮に凸信者しかいなければ「実力」に関係なく100%「ネームバリュー」だけで売れるという意味ですかね、これは。
    信者がいればいるほど「ネームバリュー」の効果は高くなり、「実力」が関係なくなっていくという意味で問題ありませんか?
    それなら私の主張通りです。
    「凸の言うことにちゃんとしたツッコミを入れてくる読者」しかいないなら「実力」が多く求められるでしょうが、世の中には…さんも理解しているように「信者」も存在し「ネームバリュー」の効果は存在致します。

    >その後かいたのはうまくいかなかったという例もある
    次の作品が100%売れるとは言ってませんよ。
    「ネームバリュー」の効果は大きいが絶対的では無い。
    仮にとつげき東北さんが「麻雀は流れだ」的な本を書いたら信者も冷めるでしょう。
    信者にとって評価のボーダーは大きく下がりますが、評価を行わなくなったわけではありません。
    なので売れる例と売れない例があるのは当然です。

    >んで、ついでに『キャプテン翼』においては、これがデビュー作だったのだから「ネームバリュー」など存在する筈がなく、そもそもこれは誤った見解である。
    『キャプテン翼』が「ネームバリュー」の効果で売れたとは一言も言っておりません。あくまで実力(低い高い両方を含む)と運で売れただけです。

    >がんばってくれ。
    orz

    >おかしいだろ(笑)
    >「実力と流行に依存し」ているのか「運」のみなのかどっちなんだよ(笑)
    流行は「運」であり「状況」です。麻雀で例えるのが比較的楽ですので例えつづけますが
    配牌が「運」であり「状況」にあたります。ここで和了れる確立というのは存在します。くそ配牌より好配牌のが和了りやすいのは当然です。
    牌効率は「実力」です。牌効率がなってない人間より、牌効率ができている人間の方が和了る確立は高いです。
    和了れるかどうかは「運」です。どれだけ手牌が良くても和了れない事もあれば和了れる事もある。
    流行は状況で、実力は実力、運は運ですので
    >「実力と流行に依存し」ているのか「運」のみなのかどっちなんだよ(笑)
    黒か白かでは無く、どっちもです。

    >「実力」もないのにそんなことができるのか?その点はどうか。
    大流行する確立が存在する程度には「実力と状況」があったのでしょう。
    1%でも確立があるなら引く事もあります。

    とここでログを見て、少し弁解したい事があります;;
    >1度成功した場合、2度目の作品は実力が軽視されるのは事実です。
    1巻に対する2巻であったりも含んだつもりでいました。
    人気を手にいれた場合、その後の作品(同一作品の次の話)も売れる、そういう意味合いで言いました。
    誤解されていたのなら申し訳ありません。

    >「運」と「実力」の境目がすごい恣意的な気がするんだが。自分の気に入らない作品が売れてれば「流行だ」「運だ」と言うし、評価されて然るべきだと思うのが評価されてれば「実力だ」と言えちゃうじゃん。
    全ての作品が「実力」であり「運」です。
    売れる確立(実力と流行)については個人的に考える事はありますが、根本は変わりません。

    >「運」と「実力」ってどうやってわけて考えてんの?
    「実力」は「質」が高いかどうかというもの。
    絵であれば、線が綺麗であるとか、書き込みが細かいとか、細部まで手を抜いていないとか、バランス感覚が良いとか、色使いが上手いとか、
    自分の作品自体の事です。
    「運」は、流行廃りであったり、力のある個人(例えば編集長や、売れているアイドル)等に評価されるかであったり、同時期に実力のある他人がいるかいないかであったり、
    自分以外の要素かと思っています。
     

  • chacha 2009-04-28 (火) 22:38:38
    運動部が勝利した場合は「運のみ」で、
    実行委員会が勝利した場合は「狂気」でしょうね、高確立で。

 

  • chacha 2009-04-28 (火) 22:38:58
    運動部が勝利した場合は「運のみ」で、
    実行委員会が勝利した場合は「狂気」でしょうね、高確立で。

 

  • 』人 2009-04-29 (水) 08:36:21
    本当だorz誤字ってる確率だorz
     
  • '''' 2009-04-29 (水) 18:49:05
    >>「芸術にも運のみの部分がある」
    >これは「芸術には実力の部分も運の部分もある」という私の主張とはずれていないのでは?

    だから、「実力」を否定はしないってば。
    わけて考えてくれ。「今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」です」とまでわかってんでしょ?評価される場合と、○○中心主義から××中心主義へ転換する場合とは全く異なる状況だろ?「運と実力、両方が関わる場合もある」、「運しか関わらない場合もある」、そう言ってるんだけど。

    >凸信者がいればいるほど「ネームバリュー」の効果は高くなり、「実力」が関係なくなっていくという意味で問題ありませんか?

    ぬお自爆した。取りあえずその通りだ。
    ただ、一言だけ。
    俺はそんな倒置法で喋っていない!何語だそれは!当該引用の訂正と謝罪を要求する!

    >「ネームバリュー」の効果は大きいが絶対的では無い

    んじゃ、それが「ネームバリュー」だったかどうかは、誰がどうやって判断するんだ?

    >『キャプテン翼』が「ネームバリュー」の効果で売れたとは一言も言っておりません

    ちょっと待てええええ!

    >>以前、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という意見を見たことがあるが、これについて何か論ぜよ。
    >1度成功した場合、2度目の作品は実力が軽視されるのは事実です
    >「キャプテン翼」の人と同じような作品を無名の新人が作成しても(キャプテン翼が世になくても)評価される可能性は低いのでは無いでしょうか

    これはなんだったの!?

    >黒か白かでは無く、どっちもです

    うん、いや、だいたいそんな感じじゃないかとは思ってたけど、「実力」と「運」が噛み合ってない気がしたので。(逃走)

    >1%でも確立があるなら引く事もあります

    …本気で言ってんのか?
    じゃあ、流行する可能性が0%の作品ってどんなの?

    >1巻に対する2巻であったりも含んだつもりでいました

    どっちにしろ大意は変わらんので問題なし。

    全ての作品が「実力」であり「運」です

    当然だろうが!
    その配分がただの好みによるものなんじゃないかって言ってんだよ!

    >「実力」は「質」が高いかどうかというもの
    >絵であれば、線が綺麗であるとか、書き込みが細かいとか、細部まで手を抜いていないとか、バランス感覚が良いとか、色使いが上手いとか、自分の作品自体の事です

    では再掲する。
    以前、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という意見を見たことがあるが、これについて何か論ぜよ。


    …あれ?詰め将棋だった筈が駒がチェスやら囲碁やらになってきたよ?
    別んとこにも書いたが、俺にできることはせいぜい「凸やその一派の尻馬に乗って正しいんだか何なんだか自分でもよくわからんことを適当になんだかんだ喋り散らかすこと」くらいなので、「凸(など)はこう考えてるんじゃないか」とは言えるが、「俺はこう考える」とはなかなか言えないんだよな。「生兵法」はよくないですな。だから「…」と名乗ってるんだが。コテハン持つ度胸はないので。ここのコテハン衆から見れば見当違いのこと言ってたり、「違うだろ!もっとここ突っ込めよ!」ってもどかしく思ってたりするとこも多いだろうな。そういうとこは是非とも横槍入れてほしいんだが。
    というわけで、どうにもならなくなったら断りなしで逃げ出す可能性があります。そのときは投了と見なしてくれ。よろしく。
     

  • チェリ 2009-04-29 (水) 21:05:09
    んじゃ1番新しい書き込みに対して横槍を
    キャプテン翼に 似た 作品で作者も 違う ってことはもう別作品と言ってもいいでしょう。同じレベルの面白さの漫画と取れば分かりやすいかと。ネームバリューについての考え方は2人とも同じ様なんで、ただの勘違いとしてそろそろ先行こう。

    んで

    >>確立の高さは実力と流行に依存し、試行した際に成功の確率をひけるかどうかは運による
    >おかしいだろ(笑)
    >「実力と流行に依存し」ているのか「運」のみなのかどっちなんだよ(笑)

    結果xに対して与えられる式は
    x=a*l
    a:ability l:luck
    と置くことも出来ますが、さらに高精度にすることが可能で例えば・・・
    x=l^2+a*l+b ・・・式1
    l^2:運のみの純粋な力。2乗にしたのはテキトウ、別になんでも良い。思いつきで選んだ漫画化するスポーツ種が、たまたま流行る寸前だったとか
    b:定数(ネームバリューなど)
    ここで「定数あるじゃん定数!」と言えるようにも見えますが
    b=l´*c
    l´:昔作品を出した時の運。lとは独立の値です。
    と運の関数で大雑把に置くことも可能です。
    結局式1は運の関数であり
    「実力」もないのに日本のサッカー人気に大きく貢献することもありえる
    一方で、実力もネームバリューもあるのに駄作を生むこともある
    bを文章上でどう表現すれば伝わり易いかな・・・難しい気がする
    式1に存在する変数がlつまり運のみであることを踏まえ

    まとめると、ある時点でのある作品が売れる確率(x)は運のみで「決定され」かつ結果は運以外の要素(式の構成,定数a,定数b)により「与えられる」と言える。2人の議論でかみ合っていない部分はココかと。
    a,bも時間の変数と置けるが、その変化は式1を出力する際のタイムスケールとしては長すぎるんです。
    (運を特定の時間に対して決定されるものとしたのに対してa,bをしない理由)

    最後に
    >その配分がただの好みによるものなんじゃないかって言ってんだよ!
    まあ、好みだろうねー
     

  • 』人 2009-04-30 (木) 00:42:59
    >だから、「実力」を否定はしないってば。
    あれ?……最初は「運のみ」では無いでしょうっていう私の意見だったので、反論がきたので一致していないのではと思ってましたが、ここは一致してるんですね……。

    >>「ネームバリュー」の効果は大きいが絶対的では無い
    >んじゃ、それが「ネームバリュー」だったかどうかは、誰がどうやって判断するんだ?
    信者がいるって判断されている…さんは、とつげき東北さんの次の作品はネームバリューの効果を受けると判断なさったじゃないですか。
    各個人の主観によってで良いんじゃないですか?どれだけの量かは分からなくてもある事は分かるんですから。

    >>>以前、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という意見を見たことがあるが、これについて何か論ぜよ。
    >>1度成功した場合、2度目の作品は実力が軽視されるのは事実です
    >>「キャプテン翼」の人と同じような作品を無名の新人が作成しても(キャプテン翼が世になくても)評価される可能性は低いのでは無いでしょうか
    >これはなんだったの!?
    まず、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という発言において「未だに」という事は現在の「キャプテン翼」の話なはずです。
    デビュー当時や売れ始めの話では無く、現状売れつづけている「キャプテン翼」の話なので当然「ネームバリュー」の効果は受けています。
    デビューから売れ始めた時点の話なら「ネームバリュー」の効果は薄いでしょうね。

    >じゃあ、流行する可能性が0%の作品ってどんなの?
    そもそも発表してない作品くらいじゃないですかね。

    >その配分がただの好みによるものなんじゃないかって言ってんだよ!
    好みでしょうw
    各作品の実力に関する話は主観がおおいに混ざるかと。

    >では再掲する。
    >以前、「『キャプテン翼』は未だに全く絵に進歩が見られない」という意見を見たことがあるが、これについて何か論ぜよ。
    「絵に進歩がない」が「実力」で、成功したのは「実力」を元にした確率から成功を引いた「運」で、成功し続けたのは「ネームバリュー」の効果が大きい。
    これで大丈夫ですかね?

    >ここのコテハン衆から見れば見当違いのこと言ってたり、「違うだろ!もっとここ突っ込めよ!」ってもどかしく思ってたりするとこも多いだろうな。
    意見が合いますね、超怖いです。
    特に文法や説明に自信が無く、何度か訂正してたりするので……あああぁぁo...rz

    >チェリさん
    時間がなく、質問だけをまずしていきます。
    >b=l´*c
    cはなんでしょうか?
    すいません;ちゃんとした反応は必ず返しますんで;
     

  • test 2009-05-01 (金) 01:05:13
    とりあえず、今までの話は論点がずれてたってことでいいんですか。

    とすると気になるのは
    >「今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」です」
    って主張。これの意味がよくわからん。

    XX主義からYY主義に転換するときそれは運のみです、っていうと
    例えば天動説から地動説への転換もニュートン力学から相対性理論の転換も、というか歴史上の全ての史実が運のみだって事になるんですかね。
    それとも芸術の分野に限りなんですか。


    """氏の命題
    >○○中心主義が××中心主義に移りますよ、という転換点を迎えるのは○○中心主義者の誰かの「実力」によるもの

    これが偽である事を以って
    >「今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」です」
    っていってるんですか?
     

  • 』人 2009-05-01 (金) 10:06:54
    >チェリさん
    んー色々考えたけど式の内容が今一理解できてないです;;
    まぁ、多分
    >x=a*l
    なら、私の「実力3運7」の発言とほぼ同様って事で良いんですかね。

    >testさん
    >それとも芸術の分野に限りなんですか。
    芸術には「正解がない」以上、他の分野と異なります。
    作品が大衆の心理に働きかける事により転換点を作ります。

    >"""氏の命題
    >>○○中心主義が××中心主義に移りますよ、という転換点を迎えるのは○○中心主義者の誰かの「実力」によるもの
    >これが偽である事を以って
    >>「今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」です」
    >っていってるんですか?

    まず、「○○中心主義が××中心主義に移りますよ、という転換点を迎えるのは○○中心主義者の誰かの「実力」による」について、「実力」があっても「運」がなく作品が評価されなければ転換は起きないと考えています。
    つまり「大衆からの作品の評価が非常に高い作品」により転換する、という事ですね。
    これは「実力3運7」の私の主張とも矛盾はしておりません。以下に例をあげます。

    【例1】
    Aが作品を発表し、Aの作品により転換する場合。
    1.Aが作品を発表する
    2.Aの作品が評価される
    3.Aの作品により転換する
    上記「2.」の時点では転換していない為、評価されるかどうかは「3.」の影響を受けていない。

    【例2】
    例1に加えBが作品を発表しBの作品で転換した場合。
    4.Bが作品を発表する
    この場合、BにとってAが現れたのは「運」となります。
    もしかしたらCが転換させたかもしれないし、Dが転換させたかもしれない。そもそもAが現れなかったかもしれない。
    Aが仮に10年に1人の逸材とするならその出現確率は途方も無く低い。
    これがBからの視点であり「運」であると言えます。
     

  • test 2009-05-02 (土) 00:55:59
    作品の評価は環境や時代やその他もろもろに影響を受けるって話ですよね。
    その主張自体は誰も否定してないと思いますよ。
    というか普通に考えてあたりまえですよね。

    「実力3運7」と、運と実力を対比させた所で、その数値に根拠が無いのなら
    作品の評価は運が強く影響する
    と言っているのと特に変わりは無いでしょうね。

    >「大衆からの作品の評価が非常に高い作品」により転換する
    ところでXX主義からの転換とは大衆が主体になるものなのでしょうか?

 

  • '''' 2009-05-02 (土) 17:21:53
    すまぬ。
    ここ数日ちょい忙しくてレスできん。横槍議論にも参加できぬがしばし待たれい。』人氏、一人に任すが、観客を飽きさせんように何とか粘っててくれ。

    …誰だ!「言ったそばから投了かよwwwだせーwww所詮名無しはこんなもんだよなwww」とか思ってた奴は!思った数の10倍だけ腹筋背筋スクワットを命ずる!
    まだだ!まだ終わらんよ!
     

  • 』人 2009-05-02 (土) 20:33:51
    >testさん
    >「実力3運7」と、運と実力を対比させた所で、その数値に根拠が無いのなら
    作品の評価は運が強く影響する
    >と言っているのと特に変わりは無いでしょうね。

    まぁ、元々麻雀の名言をひっぱってきただけなので、数値に根拠はありませんね。
    ただ単に「運のみ」を否定する為に出した意見であり、「運が強く影響する」には賛成しますよ。

    >ところでXX主義からの転換とは大衆が主体になるものなのでしょうか?
    大衆が主体だと思いますよ。例えマスコミが流行らそうとしても定着してこなかった事柄を見ても分かるように、定着し変化するには大衆が認知し評価する必要があります。
    具体例としては、韓国では反日教育を推し進め、大衆に対して「日本は悪である」と教え込み、大衆を反日派とする事で、反日主義を維持してきている訳です。これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派となり、親日主義となるでしょう。

    >…さん
    >まだだ!まだ終わらんよ!
    終わりそうです(ぁ
    「転換は大衆が主体であるか否か」って命題以外のこっていなさそうですよww
     

  • test 2009-05-05 (火) 00:59:14
    >これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派(以下略

    教育次第で大衆は親日にも反日にもなるって事ですか?
    大衆の感情や流行は権力者の都合でどうとでもなるって主張に聞こえますが

    この場合
    >定着し変化するには大衆が認知し評価
    してるんですか?

 

  • とつげき東北 2009-05-05 (火) 03:22:42
    生ぬるく閲覧するのもこのページの醍醐味。
    ゆっくりしていってね♪

    もちろん、3:7という数字へのつっこみは無視してもらっていいですよ。
    当然、そりゃさすがにメタファーでしょう。
     

  • 』人 2009-05-05 (火) 20:32:39
    >大衆の感情や流行は権力者の都合でどうとでもなるって主張に聞こえますが
    なりますね。
    あるTV番組で「バナナダイエット」が良いと言えばバナナが売り切れ、「納豆が良い」と言えば納豆が売り切れる。
    こういう現象は一部が意識的に流行を操作していると言えるでしょう。
    自然発生的な流行も無い訳ではありませんが、多くの流行はこういう仮定を経て作られると認識しています。

    >この場合
    >>定着し変化するには大衆が認知し評価
    >してるんですか?
    しています。
    先ほどのTV番組にしても大衆が認知しないと流行りにはなりません。
    又、認知しても評価しなければ流行りにはなりません。
    「アラフォー」や「アラサー」等、マスコミが流行らせようとして認知はされたけど流行とまでは行かなかった言葉が存在するようにですね。
     

  • test 2009-05-06 (水) 03:54:38
    人さんの挙げる例示が各方面に分散しているため場合わけしますよ。

    ・対象が大衆向けの情報の場合
    >「アラフォー」や「アラサー」
    >「バナナダイエット」「納豆が良い」
    このような情報は大衆に向けておくられているので評価するのは大衆、という事になるでしょうね。

    ・教育の場合
    教育の場合では、大衆に取捨選択が無いのでそれを評価しているとは言えないのではないですか。
    あなた自身も言っているように
    >これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派
    となるのですから、大衆自信が認知し評価してるとは言えないのではないでしょうか。

    ・芸術の場合
    とつげきさんはこう語られています
    >思想はニーチェによって、絵画はマルセル・デュシャンによって、ピアノはジョン・ケージによって相対化された。
    >他にも「○○の死」はモダンへのアンチテーゼとして安っぽくではあるがたくさん語られてきた。
    >現代、普通に「詩」と思われている薄気味悪い文字列もまた、そうであったはずだったが、鈍感な連中はそれが起きたことさえ知らないのである。 
    >−− とつげき東北 2007−01−12 (金) 23:09:31

    芸術の終焉(転換点)について、鈍感な連中(大衆)はそれが起きたことさえ知らない。
    この場合、大衆自信が認知し評価してるという事は無さそうです。

    ほんとうに
    >「大衆からの作品の評価が非常に高い作品」により転換する
    のでしょうか?
    適切な例示を使用して説明して欲しいです。
     

  • ???? 2009-05-06 (水) 11:25:17
    国語の教科書に載ってる詩とか学んでなんの意味があるんでしょうかね?
     
  • ぷりっぷりのおしり 2009-05-06 (水) 12:44:56
    クラムボンは死んだ
     
  • '''' 2009-05-06 (水) 20:02:42
    お待たせした。ただ今より復活致す。
    …なんか今更俺が出ても無意味議論を錯綜させるだけのような気もするが、言えることは言っとく。


    >チェリ氏

    ごめんなさい。昔喰ったまばゆい紫色の光を放つキノコのせいで数式アレルギーなのでわかったようなわからんような。


    >』人氏

    >「転換は大衆が主体であるか否か」って命題以外のこっていなさそうですよww

    とのことなので、ここ以外は枝葉ということでスルーさせていただく。
    ただし、一つだけ。

    >>ここのコテハン衆から見れば見当違いのこと言ってたり、「違うだろ!もっとここ突っ込めよ!」ってもどかしく思ってたりするとこも多いだろうな
    >意見が合いますね、超怖いです

    これ…。凸には「弱者による弱者性の吐露は目を覆わんばかりに醜い」、マネには「弱者同士の相互承認の輪」とか言われてそうですな…。まあ、俺は横槍大歓迎!だし、凸も「ゆっくりしていってね♪」だそうなので、このまま恐る恐る続けてもおkな空気とすることにする。
    まあほらあれだよ!ここを自己実現の場にしてもいいよね!


    えーとそれで、

    >「転換は大衆が主体であるか否か」

    についてだが、「権力者の都合」によって流行の火種は蒔かれるが、それが本当の流行になるかどうかは大衆の認知、評価による、という理解でよろしいでしょうかね?
    それだと、実際に流行らせているのは大衆だとしても、「権力者」がなんかしなけりゃそもそも流行など起きない(「自然発生的な流行も無い訳ではありませんが」)、つまり、真に主体と言えるのは「権力者」なのでは?という気がするのだが。
    test氏の挙げた、「芸術」の反例もこのことを言ってると思われる。

    …ん?ちょっと待て。その前に、

    >まず、「○○中心主義が××中心主義に移りますよ、という転換点を迎えるのは○○中心主義者の誰かの「実力」による」について、「実力」があっても「運」がなく作品が評価されなければ転換は起きないと考えています
    >つまり「大衆からの作品の評価が非常に高い作品」により転換する、という事ですね
    >これは「実力3運7」の私の主張とも矛盾はしておりません

    これと、

    >今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」です

    これって食い違わないか?
    確認しとくが、「○○中心主義」って、誰にとっての○○中心主義だと考えてる?


    >test氏

    >教育の場合

    「教育改革」が昔から散々叫ばれている。また、現在も(いや、昔がどうだったのかよく知らんから前からそうだったのかもしれんけど)、都市部などでは学校への家庭からの介入が顕著になってきており、教師不信の親が増加している。
    つまり、大衆にも「取捨選択」する余地はあると思われる。韓国がどうかは知らんが。

    >適切な例示

    って、

    >対象が大衆向けの情報の場合
    >>「バナナダイエット」「納豆が良い」

    これじゃダメなん?


    >????

    まさにぷりけつの言うような意味がある。
     

  • 』人 2009-05-06 (水) 23:08:59
    >testさん
    >教育の場合では、大衆に取捨選択が無いのでそれを評価しているとは言えないのではないですか。
    そんな事はありません。
    作文の授業を思い出せば分かると思うのですが「戦争はいけない事だと思いました。」のような「良い子」の解答ばかりだったでしょう。
    作文は自己表現でありながら教師の求めた解答を書くのです。
    これは子供にとっての作文のテーマに関する評価でもあり、国からの教育の結果でもあります。

    >芸術の終焉(転換点)について、鈍感な連中(大衆)はそれが起きたことさえ知らない。
    >この場合、大衆自信が認知し評価してるという事は無さそうです。
    む、確かに、流行っている状態から、何も流行っていない状態に変化する場合は、大衆自身が認知しているとは言えなさそうですね。
    この視点はありませんでした。

    流行っている状態から別の物が流行る状態に転換する場合は、大衆の認知と評価が必要と訂正させて頂きます。

    >適切な例示を使用して説明して欲しいです。
    「バナナダイエット」→「納豆ダイエット」
    「反日教育」→「親日教育」
    上二つはこれで良いと思うのですが、残るは
    >・芸術
    について例示を出せば良いんですよね?
    一番分かりやすいのは西洋におけるジャポニスムじゃないでしょうか。
    日本文化を認知し評価した結果、西洋の芸術に大きな転換が起きたのでしょう。

    >…さん
    >これ…。凸には「弱者による弱者性の吐露は目を覆わんばかりに醜い」、マネには「弱者同士の相互承認の輪」とか言われてそうですな…。
    逃げ道を用意して何が悪い!
    ええい!俺は1人でも生き延びてやる!(死亡フラグ

    >「権力者の都合」によって流行の火種は蒔かれるが、それが本当の流行になるかどうかは大衆の認知、評価による、という理解でよろしいでしょうかね?
    権力にも様々ありますが、大体はそれでおkです。

    >「権力者」がなんかしなけりゃそもそも流行など起きない(「自然発生的な流行も無い訳ではありませんが」)、つまり、真に主体と言えるのは「権力者」なのでは?という気がするのだが。
    「個展」にしても作者が作品を発表する力があるって事で「権力」だし、マスコミなんてもろ権力だし、芸術家が他の芸術家に影響を受けて作風を似せた場合も「あの芸術家が真似をした」という箔がつくので権力に値するし、漫画だって編集の人によって連載漫画が決まるのでこれも権力だし。
    権力の関わっていない流行を見つける方が難しいと思います。
    しかし、権力があっても大衆が評価しなければ流行らないので、やはり主体は大衆のままかと。

    >これって食い違わないか?
    食い違いませんね、「誰がどういう方向に流行を転換させるか」は運です。
    しかし、「特定の作品が流行りを作れるかどうか」は「実力3運7」のままです。

    >大衆にも「取捨選択」する余地はあると思われる。韓国がどうかは知らんが。
    親による教育か学校による教育かが変化するだけで、教育の影響を受ける子供にとって取捨選択が無いのには変わりありませんね。

    余談ですが、教師不信(という流行)は主にマスコミが作った物であると思います。
     

  • test 2009-05-07 (木) 02:08:29
    一応レスを

    >そんな事はありません。
    >作文の授業を思い出せば分かると思うのですが「戦争はいけない事だと思いました。」のような「良い子」の解答ばかりだったでしょう。
    >作文は自己表現でありながら教師の求めた解答を書くのです。
    >これは子供にとっての作文のテーマに関する評価でもあり、国からの教育の結果でもあります。 

    私は子供に教育を行った結果どうなるのか?という話はしていません。
    子供(あるいは大衆)が教育自体を評価しているのか、という事を気にしています。
    そしてあなた自身が「子供が教育自体を評価」はしていない、と言っているのではないですか?
    あなたが下記のように主張したのですから
    >具体例としては、韓国では反日教育を推し進め、大衆に対して「日本は悪である」と教え込み、大衆を反日派とする事で、
    >反日主義を維持してきている訳です。
    >これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派となり、親日主義となるでしょう。


    という事で本題に
    本題とは「転換は大衆が主体であるか否か」ですよ。


    転換の主体はその分野の関係者ではないですか?

    科学の場合の転換の主体は科学者やそれをとりまく関係者で大衆ではないですよね。
    芸術の場合の転換の主体は芸術家とそれをとりまく関係者のような気がしています。
    漫画の場合は転換の主体は大衆でしょうね。

    考えてみてくださいよ。例えば16世紀あたりの著名な画家が描いた絵を大衆は見ることできたんですかね?
    写真やインターネットも無い時代ですよ、そんな状況で大衆が何か認知し評価できるんですか?
    私は芸術史について詳しくありません。芸術について大衆が主体になる根拠を教えてください。

    >一番分かりやすいのは西洋におけるジャポニスムじゃないでしょうか。
    >日本文化を認知し評価した結果、西洋の芸術に大きな転換が起きたのでしょう。
    これは大衆が認知し評価したんですか?普通に考えて西洋人のほとんどは日本文化など知らないと思うのですが。


    >流行っている状態から別の物が流行る状態に転換する場合は、大衆の認知と評価が必要
    あらゆる分野の流行についてこう主張されているのなら無理があるでしょう。
    あなたは何について考察しているのですか、芸術についてですよね?
    つまりあなたの主張は
    「芸術の流行は大衆の認知と評価よって変わるものである」
    って事になりますよね。上で同じ事を書きましたが根拠を教えてください。

    流行語、教育、サブカルはここで言うところの芸術ではないでしょう?

 

  • 』人 2009-05-07 (木) 21:48:50
    >子供(あるいは大衆)が教育自体を評価しているのか、という事を気にしています。
    >そしてあなた自身が「子供が教育自体を評価」はしていない、と言っているのではないですか?
    評価せずに作文を書けるんですか?子供が「その通りだ」と思うから教育が成り立つのです。1+1=2を完全に正しい物として評価を下すじゃないですか。
    これが思想になった途端、子供は評価しないと言うのでしょうか?

    >>具体例としては、韓国では反日教育を推し進め、大衆に対して「日本は悪である」と教え込み、大衆を反日派とする事で、
    >>反日主義を維持してきている訳です。
    >>これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派となり、親日主義となるでしょう。
    教える事が評価される事に繋がるでしょう?
    「ダイエットにはバナナが良いんですよ」と教えられたら、それが正しい知識であると評価しダイエットにバナナを使いますよね?
    これと教育がどう違うのでしょう?バナナダイエット等に関してはtestさんも
    >>・対象が大衆向けの情報の場合
    >>「アラフォー」や「アラサー」
    >>「バナナダイエット」「納豆が良い」
    >このような情報は大衆に向けておくられているので評価するのは大衆、という事になるでしょうね。
    とおっしゃっているじゃないですか。

    >転換の主体はその分野の関係者ではないですか?
    科学の場合の転換の主体は科学者やそれをとりまく関係者で大衆ではないですよね。
    >芸術の場合の転換の主体は芸術家とそれをとりまく関係者のような気がしています。
    >漫画の場合は転換の主体は大衆でしょうね。
    それぞれの情報を発信する対象により主体が変わるのではと言う事でしょうか。

    >考えてみてくださいよ。例えば16世紀あたりの著名な画家が描いた絵を大衆は見ることできたんですかね?
    どうでしょうね、民衆が見れたとしても貴族だけが見れるものであったとしても、どっちでも問題ないと思いますが。

    >私は芸術史について詳しくありません。芸術について大衆が主体になる根拠を教えてください。
    おそらく大衆の定義がずれていると思うので、そこからですね。wikiによると大衆の定義は
    「大衆(たいしゅう)とは、社会を占める「大多数の・大勢を占める」とされる人々、またはそれに属する個人を指す言葉である。」
    とあります。
    つまり大衆が存在するには、「社会」が存在すれば確実にいる訳です。
    当時の芸術が貴族にしか評価されていなかったとしても、貴族「社会」の大衆の中で流行っていたと言えます。(貴族社会という言葉については聞いた事があるかと思います)
    科学者に関しても、科学者間のコミュニティ(学会であるとか)が形成され、社会が出来ております。そこの大衆に流行があるのは当然です。

    民衆=大衆では無い訳です。

    特定の社会が狭かったとしても、大衆は必ず存在し、狭い事は流行が起きる事に対しての妨げになりません。
     

  • test 2009-05-08 (金) 17:24:01
    ではレスから

    >1+1=2を完全に正しい物として評価を下すじゃないですか。
    私自身は1+1=2について完全に正しい物として評価はできないですね。
    1+1=2の正しさは数学の公理が保障しているだけですよね?
    では公理自身の正しさは証明できるかというと不完全性定理により証明できません。

    私は小学生の頃、1+1=2と教えられたのでそう覚えただけです。
    あなたは何をもって「1+1=2を完全に正しい物」と評価したのですか?
    普通の子供はどうでしょうね?

    あなたは「1+1=2」とは大衆が認知し評価したことにより流行したと思っているのですか?


    さて、反日教育の場合はどうですか。
    日本は悪いと教えられたので、それを理解しているだけではないのでしょうか。
    もう一度聞きますが子供は反日教育自体を評価したのでしょうか。
    反日教育の正しさを評価しなくても日本をどう思うかについての作文は書くことができると思いますよ。

    「アラフォー」や「アラサー」の場合はどうですか
    この場合大衆が「アラフォー」を評価した結果、この言葉を受け入れなかったんですよね。
    この言葉が流行したのかどうか私は良く知りませんが。


    では、あなたの主張に戻ります。
    >具体例としては、韓国では反日教育を推し進め、大衆に対して「日本は悪である」と教え込み、
    >大衆を反日派とする事で、反日主義を維持してきている訳です。
    >これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派となり、親日主義となるでしょう。

    ある国が反日教育を行う→子供は反日になる
    ある国が親日教育を行う→子供は親日になる
    この場合、子供が認知し評価する事とは独立してある国の教育(あなたの言うところ流行の転換)は成立していませんか?
    つまりこの例示の場合、権力者が好きなように流行の転換をさせていますよね。

    つまりですね、あなたの主張
    >定着し変化するには大衆が認知し評価する必要があります
    は、この例示からではよく理解できないのですよ。私にはむしろあなたの主張の反例にきこえるわけです。

    一応補足しますけど
    """さんが言われるような別の教育の例示はいりませんよ
    >「教育改革」が昔から散々叫ばれている。また、現在も(いや、昔がどうだったのかよく知らんから前からそうだったのかもしれんけど)
    >都市部などでは学校への家庭からの介入が顕著になってきており、教師不信の親が増加している。
    >つまり、大衆にも「取捨選択」する余地はあると思われる。韓国がどうかは知らんが。

    私が知りたいのは、なぜあなたが反日教育を例示に挙げて
    >流行っている状態から別の物が流行る状態に転換する場合は、大衆の認知と評価が必要
    を説明しようとしたのか?ですから

    本題です。
    wikiとはwikipediaのことでしょうか?一応いっておきますがここもwikiですよ。
    私もwikipediaの大衆の定義は見ています。

    私は特に断りの無い場合はこのwiki内で定義されている大衆という意味合いで使われるものだと思っています。
    今更にwikipediaの大衆の定義を持ち出す意味がよく分かりませんが
    wikipediaの大衆の定義でも私の疑問は特に変わりないので、定義はそちらでもよいと思います。


    >それぞれの情報を発信する対象により主体が変わるのではと言う事でしょうか。
    そう思っています。
    大衆文化においては大衆が流行の主体になるのは当然ですよね。

    あなたは
    >これと教育がどう違うのでしょう?
    といいますが、私には同じに考えようとする事がよく理解できません。
    つまり、大衆文化の流行の転換を例にして芸術における流行の転換を説明する事は強引すぎませんか?
    と言うことです。

    私は学問等の高尚な分野になればなるほど大衆の影響は低くなるのではないかと思っているので
    あなたに、芸術における根拠を提示して欲しいといっているわけです。

    芸術というカテゴリに属する人々において、この中に大衆と呼ばれる人間がいたとして
    その大衆は転換点にどれほど影響力があるのでしょうか?

    この意味においての適切な例示が欲しいと私はいっています。


    いくつか疑問に思ったことを書きますよ

    科学者に関しても、科学者間のコミュニティ(学会であるとか)が形成され、
    社会が出来ております。そこの大衆に流行があるのは当然です。

    科学の場合も流行の転換は大衆にあるって事なんですか?
    私は以前あなたに質問しました。
    >test 2009−05−01 (金) 01:05:13
    これに対するあなたの答えは
    >芸術には「正解がない」以上、他の分野と異なります。
    >作品が大衆の心理に働きかける事により転換点を作ります。
    ですよね。実は適当に考えていませんか?

    >特定の社会が狭かったとしても、大衆は必ず存在し、狭い事は流行が起きる事に対しての妨げになりません。
    いや、そうかもしれませんけど。それはあなたの主張の正しさを保障しているのでしょうか?
    例えばこのwiki「名言と愚行のコミュニティ」における流行の転換も大衆が認知し評価した事により起こるんですか?


     

  • チェリ 2009-05-08 (金) 21:11:36
    アインシュタインがノーベル賞を取った時点では彼の理論を理解できた人間が10人以下だったとか。(一般人 自信なし)
    これを理解した数人の権威ある数学者からさらにその下の学者へと「アインシュタインって凄いんだぜ」とカスケード状に大衆に広まっていったんでしょうね。
    >b=l´*c
    cは適当な定数です。
    >>x=a*l
    >なら、私の「実力3運7」の発言とほぼ同様って事で良いんですかね。
    その発言の真意がわからんからなんとも言えんw
    双方が影響すると言う意味では合ってるかと。
     
  • 』人 2009-05-10 (日) 09:12:34
    >あなたは何をもって「1+1=2を完全に正しい物」と評価したのですか?
    りんご1個とりんご1個があったらりんごが2個と言えるからです。
    大人になった今は、知らない計算方法によって違う解が出るのかもしれないと思う面もありますが、子供の頃は疑いませんでしたね。ああ、その通りだなぁと思っていました。

    普通の子供はどうでしょうね?
    りんご1個とりんご1個があってこれは2個じゃない!っていう子供なんて私の周りにはいませんでしたが?
    1+1=2は違うって言う子供が居たんですか?

    >あなたは「1+1=2」とは大衆が認知し評価したことにより流行したと思っているのですか?
    四則演算が否定されるような事があるなら流行だったともいえるでしょうが、流行とは言わないでしょう、ここまで来たら。
    単純に「子供は教育の内容を評価するかしないか」に対する例です。

    >>定着し変化するには大衆が認知し評価する必要があります
    >は、この例示からではよく理解できないのですよ。私にはむしろあなたの主張の反例にきこえるわけです。
    権力者の立場から見ると教育を行うという事は「大衆に認知させ評価させる必要がある」訳ですよ。教育は手段であり、目標はこれです。
    「権力者が教育を行う」のは目標に成りえません。

    >つまり、大衆文化の流行の転換を例にして芸術における流行の転換を説明する事は強引すぎませんか?
    教育に対しての流行の転換の説明に使ったんですが……
    芸術に関してなら(納得してもらえないだろうから)違う説明を使いますし、使ってますよ。
    >当時の芸術が貴族にしか評価されていなかったとしても、貴族「社会」の大衆の中で流行っていたと言えます。(貴族社会という言葉については聞いた事があるかと思います)
    これとか。

    >>芸術には「正解がない」以上、他の分野と異なります。
    >>作品が大衆の心理に働きかける事により転換点を作ります。
    これは
    >例えば天動説から地動説への転換もニュートン力学から相対性理論の転換も、というか歴史上の全ての史実が運のみだって事になるんですかね。
    この質問に対する説明です。
    「好み」が挟まり難い分野「実力3運7」ではなく実力がほぼ10に近い数値で影響するという意味で言っています。流行る為に必要な事柄に関して説明した文章ではありません。

    >例えばこのwiki「名言と愚行のコミュニティ」における流行の転換も大衆が認知し評価した事により起こるんですか?
    そうだと思いますよ。例えば面白い馬鹿がいるって噂になって認知し評価すれば皆来るんじゃないですかね。馬鹿が不足してるってコメもありますしね。

    >チェリさん
    >アインシュタインがノーベル賞を取った時点では彼の理論を理解できた人間が10人以下だったとか。(一般人 自信なし)
    この時点を流行とするには一般論的に無理がありますよね。(自分の中で流行ってるとか、1人の社会の中では流行とも言いますが)

    >これを理解した数人の権威ある数学者からさらにその下の学者へと「アインシュタインって凄いんだぜ」とカスケード状に大衆に広まっていったんでしょうね。
    ここで広まった時点を流行とするのが一般的じゃないかと思いますがどうなんでしょう。

    >双方が影響すると言う意味では合ってるかと。
    双方が影響する程度の意味合いなので合ってますよb
     

  • '''' 2009-05-10 (日) 16:58:32
    ぬおお数日こないとすっかり置いていかれる…。
    なんか俺よりtest氏に任せた方が高度になりそうなので、俺はそろそろ退場した方がいいんかな…。まあその場合でもちょこちょこ口出しはするかもしれないが。

    なので取りあえずちょこっとだけ。

    >しかし、権力があっても大衆が評価しなければ流行らないので、やはり主体は大衆のままかと

    しかし、大衆が評価しようとしてもその評価対象がなければ流行らないので、やはり主体は権力者のままかと。

    >教師不信(という流行)は主にマスコミが作った物であると思います

    マスコミって「もろ権力」じゃなかったん?じゃあ、「教師不信という流行」は「権力」がつくったものにならんの?

    ちなみに、

    >「大衆(たいしゅう)とは、社会を占める「大多数の・大勢を占める」とされる人々、またはそれに属する個人を指す言葉である。」

    』人氏がこの定義に則って転換点を論じようとしているのはわかったが、「大多数の・大勢を占める人々」はともかく、「それに属する個人」の場合、火種を投げ込む人っていうのはこの「個人」に該当するんですかね?

    大人になった今は、知らない計算方法によって違う解が出るのかもしれないと思う面もありますが、子供の頃は疑いませんでしたね
    >ああ、その通りだなぁと思っていました

    それは「評価した」と言えるのか?批判能力もない子どもが様々な基準において「1+1」の正しさを考察し、その上で「こういう面で正しい」と評価するなどということが起きたとは思えん。「りんご1個とりんご1個があったらりんごが2個と言えるから」程度の考え方しかできなかったわけでしょ?test氏の言うように、「1+1=2と教えられたのでそう覚えただけ」ではないのか?ただ教えられたものを無批判に受け入れたにすぎないことを「評価した」とは言えないと思うのだが。「1+1=2は違うって言う子供が居たんですか?」と言うが、違う場合があるからこそ、1+1の正しさを批判しなければ評価はできんだろう。「戦争はいけない事だと思いました。」の例も同様だ。

    >権力者の立場から見ると教育を行うという事は「大衆に認知させ評価させる必要がある」訳ですよ
    >教育は手段であり、目標はこれです

    だから、

    >この場合、子供が認知し評価する事とは独立してある国の教育(あなたの言うところ流行の転換)は成立していませんか?
    >つまりこの例示の場合、権力者が好きなように流行の転換をさせていますよね

    これの反論になってない。
    だいたい、子どもみんな「XXは正しい」と「評価」していたとしたら、なぜYYへの転換が起きるんだ?ずっとXXでいけばいいんだから、転換する必要がないだろ。子どもみんなイエスマンだったとしたら、なおのこと転換の主体は権力者側だと言えるんじゃないのか?

    そして、

    >芸術というカテゴリに属する人々において、この中に大衆と呼ばれる人間がいたとして
    その大衆は転換点にどれほど影響力があるのでしょうか?

    これへの説明がないんだけど。test氏は、この議論の最もクリティカルな部分は芸術における転換点であると考えているし、実際そうだったのだろうから、教育やら科学やらの場合はいいとして、本題の芸術の場合の転換に大衆がどの程度寄与するのかを説明すべきだろう。
     

  • test 2009-05-10 (日) 18:43:25

レスから
>この質問に対する説明です。
>「好み」が挟まり難い分野「実力3運7」ではなく実力がほぼ10に近い数値で影響するという意味で言っています。
>流行る為に必要な事柄に関して説明した文章ではありません。

私の質問
>>全ての史実(流行の転換)が運のみだって事になるんですかね。
あなたの答え
>違います。

おっしゃる意味がわかりません。

>四則演算が否定されるような事があるなら流行だったともいえるでしょうが、流行とは言わないでしょう
はあ?四則演算発見されてから流行するまでの過程は無いんですかね

アンイシュタインの例(相対性理論)では ※相対性理論でノーベル賞を受賞してはいない
>ここで広まった時点を流行とするのが一般的じゃないかと思いますがどうなんでしょう。
といってますよね。何なんですかこれ・・・・


四則演算は否定される事が無く相対性理論は否定される事があるってことですか?
で、その否定(評価)は大衆が行うんですか。それとも否定の評価を大衆が行うんですか。
まあ、あなたの大衆の定義ならどうとでもいえそうですね。




とりあえず、今までのまとめをします
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●主張
「今がどういう「中心主義」であるかは「運のみ」です」 (これは"""さんの主張ですが)

●理由
「運」がなく作品が評価されなければ転換は起きない
「大衆からの作品の評価が非常に高い作品」により転換する
作品が大衆の心理に働きかける事により転換点を作ります。

●要約
評価は大衆がするものである。大衆からの作品の評価 = 運である。
よって中心主義(流行)の転換は運で決まる。


●疑問1
大衆からの作品の評価によって中心主義(流行)は転換するの?

●回答
>>ところでXX主義からの転換とは大衆が主体になるものなのでしょうか?

>大衆が主体だと思いますよ。
>例えマスコミが流行らそうとしても定着してこなかった事柄を見ても分かるように、
>定着し変化するには大衆が認知し評価する必要があります。

>具体例としては、韓国では反日教育を推し進め、大衆に対して「日本は悪である」と教え込み、
>大衆を反日派とする事で、反日主義を維持してきている訳です。
>これを子供の時から「日本は正義である」と言われつづければ大衆は親日派となり、親日主義となるでしょう。

●回答の要約
大衆は評価をしている。
評価をするのは大衆なので流行の転換は大衆が行うものである。
それは「流行らそうとしても定着してこなかった事柄」が示している。
例として反日教育がある。
子供は反日教育を認知し評価している。


●疑問2(反日教育)
反日教育って「大衆は評価をしている」の例になってるんですか?
評価した形跡が全くないですよ?

●回答
流行語の場合、大衆は評価する。
算数の場合、子供は評価する。
よって教育(思想)の場合も同様に評価する。
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こんな感じですね。
今は「疑問2」についてですよね。

さて評価ってどういう意味ですか?あなた、wikipediaを使ってちゃんと調べましたか?
>物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること
と書いてありますね。

教育について評価とは、その教育の良し悪しを判断する事
になりますよね。

あなたの反日教育の例示のどこに評価(の過程)が記されているのですか?

仮に算数において子供が評価をしていたとして、「反日教育」において子供が評価していると何故いえるのでしょうか?

ついでに算数の例についても触れておきますよ
>りんご1個とりんご1個があったらりんごが2個と言えるからです。
大人になった今は、知らない計算方法によって違う解が出るのかもしれないと思う面もありますが、
>子供の頃は疑いませんでしたね。ああ、その通りだなぁと思っていました。 

『子供の頃は疑いませんでしたね。』
疑うことのできないものをどう評価するんですか?


あなた自身が
>流行らそうとしても定着してこなかった事柄  (疑い)
を以って、大衆は評価する。といっていますよね?

>1+1=2は違うって言う子供が居たんですか?
あなたはこう聞きますがね
こういう例があってこそ評価したといえるのではないですか?
1+1 のコメント欄の記述を参考にしてみてはどうですか?疑問に思った子供はいるみたいですよ

という事で再度質問します。
反日教育の例示は
子供の評価とは独立に、教育が流行する事を示していませんか?
子供が「反日教育はおかしい」と評価した場合どうなるかも考えて答えてね

 

  • 2009-08-28 (金) 03:04:00
    1+1=古
    常識だろ
     

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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:40:53 (2703d)