■とつげき東北

「命題の真偽」を考える場合には、「反例を挙げる」ということがなされる。
もし「人を殺してはならない」が常に正しい命題であるならば、当然、殺人犯に対して死刑を執行することはできない。
「善悪」のような根源的な概念についての命題の真偽を確かめる以上、まず最初に極端な例から考え始めて、どんな事実がその命題を偽にするか、どういった条件下でその命題に「例外」が生ずるか、ということを考えていくのが建設的な議論である。

だが、大衆との議論においては、こうしたことが不可能である。
「喫煙は迷惑だ、人の迷惑になるから喫煙は悪い」
に対して、
「嫌煙もまた迷惑だ、人の迷惑になるから悪いのなら、嫌煙も同じだ」
と言うと、突如、
「極端だろう」
などといわれてしまうのである。
彼らは彼らの常識から少しでもはみ出るもの、とりわけそれが彼らに不都合をもたらすものについて、「行き過ぎており」「極端」であると考えたがる。
1990年代半ば、女性の髪の毛の茶色さや、スカートの短さについて、「極端」であると感じていた中年のセンスは、2005年の今から見れば「極端」に保守的な思い込みにすぎなかった。

「行き過ぎ」ていたり「極端」であることは、それ自体で何かの欠陥となるわけではない。勉強をしすぎたり、極端にテストでいい点を取る人は、やはりテストの結果では正しい。
自分が偶然手にした常識や知識のみが絶対であるように感じるセンスは、至って凡庸であり、これを脱するためには、真の意味で多様な思想や知識に触れることが必要である。

  • 2009-11-08 (日) 02:45:07
    極端な事ばっかり言い出して話が進まないのが大衆。
    まともに反論する知能が無いから極端っていう簡単に反論できる所に飛びつく。
    極端から普通へじゃなく普通から極端に飛び出す。
    普通から普通へ反論出来ない。
    負けず嫌いな馬鹿が言い訳したいけど言い訳出来ない時、極端に走り出す15の夜

    そんな感じ。
     

  • ここまで読んだよ 2009-11-08 (日) 12:05:22
    >>人の迷惑になるから
    >>人を殺してはならない
    この「人」が誰を指しているかによって話が大きく変わる
    喫煙迷惑・嫌煙迷惑の言い分の双方とも「人」が対極をなすものに限定された話であることを大衆は見落とす
    同様に、死刑囚(註:「殺人犯」から意図的に置き換え)を「人」として扱うかどうかでも死刑執行に対する見解は変わってくる(憲法による人権のあいまいな定義は、ココでは触れないこととする)

    大衆は、もともと「絞り込まれた対象」を勝手に拡大解釈しておいて、いざ元の絞込みに戻ると拡大した枠から見た絞込みの範囲の狭さを見て掲題を発することが多い
    「真の意味で多様な思想や知識に触れる」というのも必要だが、同時に、省略された言葉の裏に隠された真実を看破する能力(言葉を吟味・思考する能力)を身につけることが必要であると考える
     


コメントは以下の作業を終えてからお願い致します。





重要:ボタンを押すか、手動で「OK!」と入力してからでないと反映されません。
一度入力すればクッキーによって保存され、入力の手間は省けます。


トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:40:42 (2949d)