Revin

 勲章・資格の一つ。能力の指標としてはある程度機能するが、この指標と完全な相関を見せるもの(名声/年収/料理の腕/センター試験英語の点数/運動能力/平均排便量など)は何一つない。学歴それ自体を決定する、試験における点数獲得能力においてさえ、当人の性格/居住地/経済的理由/夢/嗜好/選抜方法の相違/運などなど様々な理由によって完全な相関はしない。しかし「就職における有利さ」や「(まがりなりにも知的能力を測る意図で開催された試験において)優れていると認定された」などの理由で極端に注目されている、価値のある事柄である。
 ここで注意してもらいたいが、筆者は「学歴主義」を批判するつもりは毛頭ないし、逆に率先して「学歴」を擁護するつもりもない。「学歴が低いやつはダメだ」だとか「学歴なんてアテにならない。本当に頭のいい人は…」などという、「学歴」という概念を過大/過小評価した発言もするべきではない。そんなことを平然と言う人は、「学歴」の意味/本質社会的背景/実情/指標としての信頼性/適用できる事柄などについてさえほとんど考察したことがない人だと見て間違いないからである。
 ただ、例えば自分が書いたプログラムのソースを見てもらう時、高卒の人よりは工学部の学科生に、無名な大学の学生よりは有名な大学の院生に聞いた方が、より的確なコメントをもらえるかな、という期待は抱いても間違っていないだろう。自分の会社に社員として採用し、これから何年か働いてもらう人材を選抜する重要な局面において、どんな教養を持つかわからないような者よりかは、難関と言われる学校を出た者を選ぼうとするのは自然なことである。学歴が高い人が優れているというわけではなく、低い人よりは期待できるのである。だから高学歴でも無能な人もいるし、逆もあるのは当然のことである。そういった意味で学歴という概念を利用するのは間違っていないが、それを盾に「学歴は〜〜」単体で発話される自らの無能さの棚上げや擁護はひたすらに名言的である。

とつげき東北

(掲題語についての解説――ver.1.05 by とつげき東北

 各種の幻想的かつ名言的な諸概念を内包しながらも、社会における/個人の思考における力学として深く重層化された語。

学歴の力学

 組織において、誰の意見でも組織の意思決定に反映されるような仕組みがうまく機能するだろうか。1社員1社員の「個人的考え」に従って組織が方針を変え続けることで、上手に回るだろうか。ある程度以上の規模の組織では、それは不可能である。「指示するもの−指示されるもの」という不動の関係性があってこそ、大規模組織は正常に機能することが可能となる。
 ここにおける「学歴」の役割は、「指示するもの」の選出を、縁故や不透明な選別(だと被害妄想的に妬まれる方法)に委ねることなく、「先天的能力」「総合的な判断力」といった曖昧な基準に置き換えながら、「人々が渋々納得できるもの」へとそれとなくシフトさせることにある。多くの職業において実際に職務を遂行する際に、実質的にたいしてまたは一切役立たない「学歴」は、その幻想性を駆動力としてこんにちまでの各種組織の秩序を維持することに貢献してきた。
 親の年収において東大生が日本の全大学のトップであるという事実は、まさに経済的な格差等による教育環境格差の結果、学歴的なヒエラルキーが決定されるという現実、すなわち「先天的能力」といったものとあまり関係のない何物かで学歴が決定される現実そのものをあらわしていると考えられるが、もはやそのようなことは瑣末なこととされるのである。「学歴=能力」の高い者は必然的に高い地位に就き、また就くべきであり、それによって職務が適正に遂行されるのだと、人々の多くがうすうす感じていて、当該「学歴の高い人物」もまた、組織において周囲から刻印される「ふさわしい役割」を演じようと試みるのである。

東大出のくせに

 しかしながら、実際問題として、ある種の職務を遂行するにあたり、大学等で学んだ専門知識が活かされることはそう多くない。ましてやセンター試験の成績や、物理や数学、古文漢文といったテストの知識が役立つと期待するのはあまりにも酷である。
 制度に順応しつつ各種資料を適切に理解して判断を下す、といった基礎的な素養を「学歴」で大雑把に判別することは平均的には正しかろうが、リーダーシップ、周囲の組織等との調整能力、情報伝達能力等は「学歴」ではあまり上手に測定できない。
「○○大出のくせにこんなこともできないのか」といった言葉が陳腐な名言に堕しているように、実は「一流大卒」というモノの、職務遂行に対して与える正の影響はしばしばそれほど大きいわけではないし、それは当然のことなのだが、平均的な学歴またはそれ以下の学歴しか持たない人々の一種の「憎々しい理想」としての「学歴」は、人々が「科学」に幻想的な何かを求めすぎるのと同様の形式で、ときおり不実に過大評価される。
エリート
科学は万能ではない

学歴(学力)主義者の誕生

 特に若年層や、「学歴の高い者」が、何かにつけて「学歴」で人の能力を測定したがるのにはそれなりの理由がある。
 ひとつは、まだ学生のうちに、「勉強」以外の観点で優れた結果を残すということは相当困難であり、「それだけが能力の全てだ」とまで感じてしまっても不思議ではないという理由がある。
 次に、人々は自分がある程度本格的に取り組んだ対象において相手に負けた場合には「負け」を認めやすいが、そうでない場合には「自分も同じ程度にやればそこそこできる」と信じたがることも理由のひとつである。
 現代日本の多くの生徒たちは、幼い頃からほぼ例外なく「勉強」に携わり、「社会的に認められる」結果として残るのはほとんどの場合、それのみである。人によってはその後の人生においても新しい評価軸を発見せずに、「学歴による出世」の過当競争に巻き込まれ、「学歴が全て」といった思いを強化する場合もある。このような場合に、過度な「学歴主義者」が誕生する。

 国家公務員のキャリア制度は、まさに「勉強ができる者たち」によって作られた、「勉強ができることによって成功する」予定調和世界の制度的実現に他ならない。政治学士(東京帝国大学)の学位を持ち、大蔵省を経て第78代内閣総理大臣に就任するという「勉強-学問エリート」の典型を体現した宮澤喜一氏は、新聞記者に出身大学を訪ね、東京大学でなければ相手にもせず、第74代内閣総理大臣であった竹下登氏に「あなたの頃の早大商学部は、無試験だったそうですね」といった発言をして激怒させたといった数々の逸話を残すほどの学歴(学力)主義者であったことで知られている。この種のエピソードはわれわれを楽しませるし、また当人の行為がどの程度「パフォーマンス」であったのかはともかくとして、本気で学歴=学力=能力であるとかたくなに信じ続ける者も多い。それは平均的には正しく、非平均的には時々著しい誤謬となる。

「学歴比べ」の言説

 日本において「東京大学」が最高の学歴であるという認識は広く一般的であり、各学部系統別に見ればそれは正しい。2番目の学歴となる「京都大学」についても同様である。
 しかしその下になってくると、事態は混沌としはじめる。
 東京大学・京都大学に次ぐ「一流」とされる大学群としては、医学部を除いて一般的に、一橋大学、東京工業大学、大阪大学、東北大学、名古屋大学、九州大学(以上国立大学法人、以下単に「国立大学」という)、早稲田大学、慶応大学(以上私立大学)等がある。場合によってはここに北海道大学、あるいは筑波大学や神戸大学等その他大学を含む場合もあり、またそれは特段不当ではないが、「その大学を入れるならウチも」的に議論が混乱するため、ここでは割愛する。

 単純に入学者の偏差値(学力)という観点から言えば、2006年現在では、上記大学群のうち、一橋大学、東京工業大学、大阪大学が若干高い。早稲田大学、慶応大学におけるいわゆる「下位学部(判断は人によって異なるが、医・政経・法・経・理工等を除く学部のうちから恣意的に選択される場合が多い)」は相対的に低い。
 しかし各種研究実績や就職実績、昇進実績、世界的な評価、地方における評価、地理的要因、学生環境、入学者の学力、学生の気質、進路の分布等を加味した場合、これらの大学群または学部のうちのどれに進学すべきかは複雑に意見が分かれる。
 たとえば中学・高校の教師になりたければ、上記大学群のうち早稲田大学を除いてふさわしい大学は存在しないため、筑波大学または広島大学に進学するべきかもしれないわけである。

 年度や社会情勢によっても上記大学群の「偏差値」や人気は比較的大きく変動する。たとえば筆者が大学を受験した当時(1997年以前)の慶応大学環境情報学部は、河合塾の模擬試験ボーダー(合格率50パーセント)偏差値が70〜72.4であり、同大学の「上位学部」との「併願対決」でも圧倒していた。当時の筆者にとっては、当該学部の合格通知は、理工学部の合格通知よりもずっと喜ばしい知らせに思えたものだが、10年ほど経過した現在(2006年)、当該学部はほぼ明確に「下位学部」と認識されている。逆に、「下位学部」の代表とも揶揄された早稲田大学社会科学部は、近年大幅な偏差値の改善を見せている。今後、国立大学の後期日程試験が次々と廃止されてゆくが、それによってまた各大学の「偏差値」は変動するであろう(2009年追記:2009年度入試においては、東京への一極集中傾向と学生数の減少等の理由からか、京都大学の多くの学部における難易度が大幅に低下し、所在地が東京にある一流大学の難易度が相対的に上昇した)。
 より長いスパンで見れば、大学や学部の偏差値・人気序列はさまざまな移り変わりを見せる。1970〜80年代にかけては、私立大学の難易度が全般的に高騰したほか、かつては早稲田大学と慶応大学の比較では慶応の理財科(経済学部)を除いて特に理工系・政治経済系(早稲田政経、早稲田法)・文学系(早稲田一文)において早稲田が圧倒的に優位であったといえようが、ここ数年は全般的に慶応大学の「ブランド」が若干優位となっている。
 また、バブル崩壊以前までは大学・学部ごとの「カラー」や「看板」があり、たとえば「法科の中央」の名を馳せた中央大学法学部は慶応大学法学部よりも断然難易度が高かったが(もちろん現在も難易度は充分に高い)、現在ではどちらかというと「大学の看板」の大括りのブランド化が進行しつつある(現在では慶応大学法学部の方が難関とされる)。
 いずれにせよ「現役」の受験生にとっては「そのときの偏差値」が全てであって毎年上記大学群の序列等にはさまざまな「個人的評価」が下される。

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「学歴比べ」における国立大学と私立大学の対立の構造

 上記国立大学同士は地理的にも各地に分散している上、併願が基本的に不可能または難しいため、主に国立大学と私立大学の間での学生の奪い合いが生ずる。
 試験科目・合格者レベルと入学者レベルの差異等の事情によって、(筆者にとって)卑近な例で言えば、多くの東北大学合格者は早稲田大学や慶応大学の上位学部を受験しても不合格になるであろうし(工学部の場合、2001年度の駿台予備校データで早稲田大学理工学部併願者の併願成功率が40%、慶応大学理工学部併願者の併願成功率が20%であり、当該理工学部合格者同士の併願成功率65〜80%に遠く及ばない)、逆に早稲田大学や慶応大学の中〜上位学部に進学(合格ではない)した学生の多くであっても、東北大学を受験した場合不合格となると考えられる(上記国立大学群の文系学部の2次試験科目にはほとんど数学が必須であるが、私立大学の場合は数学のかわりに社会の受験が可能である。また上記私立大学合格者の少なくない生徒は上位国立大学や上位学部に進学することなどから、実際の入学者の平均的な国立大学併願先は上記上位国立大学より低いレベルの国立大学となる)。

 両方に同時に合格した場合、理系では9割、文系では6割程度が東北大学に進学するが、一方で、地方の大学ははなから眼中になく、東京大学等を不合格となり私立大学に進学する者もいれば、最初から受験科目数の多い国立大学をあきらめて私立大学を目指す者や、名もない地方の高校から(ほぼ無試験に近い)推薦によって私立大学に進学する者もいる。

【同時合格時の進学先】(駿台予備学校のデータ)
・2002年度
東北大学 工学部 73名(90%) − 早稲田大学 理工学部 8名(10%)
東北大学 工学部 25名(96%) −  慶応大学 理工学部 1名 (4%)
東北大学 法学部  2名    − 早稲田大学 政経学部 0名
 (※法学部同士のデータはなし)
・2006年度
東北大学 工学部 82名(87%) − 早稲田大学 理工学部 12名(13%)
東北大学 工学部 28名(80%) −  慶応大学 理工学部 7名 (20%)
東北大学 法学部  5名(71%) − 早稲田大学 法学部  2名 (29%)
東北大学 法学部  1名    − 早稲田大学 政経学部 0名
・2007年度
東北大学 工学部 48名(89%) − 早稲田大学 理工学部 6名 (11%)
東北大学 工学部 15名(100%) −  慶応大学 理工学部 0名 (0%)
東北大学 法学部  4名(100%) − 早稲田大学 法学部  0名 (0%)
東北大学 法学部  2名    − 早稲田大学 政経学部 1名

 これらの理由で、学部や学生個人の資質による落差が激しく、学力の低い者が紛れ込む可能性が高いながらトップ層が優秀な私立大学に進学すべきか、それとも東京大学を「あきらめた組」の上記国立大学群を目指すべきか等の判断は、受験者の価値観等に強く依存しており、どちらが優れているか、またどちらが学力が高いかといった判断は一概にはできず、不毛である。

 2ちゃんねるの「学歴板」等においては、その種の質の差異を無視した総体的な「大学の良さ」が論じられることが多く、残念な言い争いが後を絶たない。
 特に、私立大学では文系の定員数が多く国立大学では逆に理系の定員数が多いことや、東京と地方との各種差異といった要因によって、一部の立場に偏った見解が書き込まれる場合が多い。たとえば神戸大学は、一流国立大学進学者の平均像である「理系」の学生から見ると、ある意味でなかなか優秀な1地方国立大学に過ぎないが、社会全体に占める人数比率の高い「文系的視点」だけから言えば(つまり社会科学系の研究水準や実績等で言えば)上記一流国立大の半分程度に「勝つ」ため、「神戸大>九州大」などといった「比較結果」が提示されることがある。
 また、早稲田大学や慶応大学は「下位学部」や一部の「(実質)無試験入学者」を含み、さらに合格者のうち半数以上程度をより上位の大学・学部に取られることから、「学生全体の平均学力」は見かけの偏差値ほど高くないと考えられる。その種の事情から、「上位学部」の中の上位層は相当優秀なはずであるにもかかわらず、上記一流国立大の平均的な学生から不当に軽んじられたりもする。

 しかしそのような総体的な「評価」に何の意味があろう。
 社会的にそうされるのと同様の安易な作法で、仮に東京大学だけはひとまず「別格」として神聖視しておくとしても(これも多分に恣意的であるが)、他はどこに行っても個人の資質や活動によってどうにでもなる(またはどうにもならない)ものである。「東京大学に落ちたこと」を自慢すべきではないし、「旧帝国大学」に所属していることを誇りに思うべきでもない。諸先輩方が世界的に成功していることについて雄弁に語っても仕方あるまい。
 法政大学卒で司法試験に合格した者は、自らの「法政大学卒」である経歴を紹介するというよりは、「法曹」としての自分を紹介したがるであろう。同様の形式で、一般に「総体としての大学の良さ」にこだわりながら、個人の資質や結果を語りたがらないのは、その個人の資質等が「大学の平均」とせいぜい同程度かそれ以下の場合であることが多いわけである。
 東京大学卒という学歴を持つ愚者は山ほどいて、またそれ以下の学歴の愚かな人間は星の数ほどもいる。

文系と理系の対立

 理系の学生は文系の学生を「馬鹿にする」ことが少なくない。
 確かに英語を母国語とする国々では「誰でも話せる」はずの「英語」の成績のみで、日本では「一流」と呼ばれる大学に入れてしまうのだから(上述の一流私立大学の中には英語のみの入試もあるし、また実質的に配点等からそれに近い入試も多い)、こと「受験」という「機会平等主義的」で「公平」とされるシステムにあっては、数学や物理・化学で好成績をあげた人間が、文系を「よからぬ存在」と見るのも、心情的にわからぬではない。多くの一流国立大学理系学生は、少しだけランクを落とせば(またはランクを落とすことなく)一流国立大学文系学部に合格可能(いわゆる文転)だが、多くの場合、逆(理転)は絶望的に困難である。

 一流国立大学では文学部等であっても2次試験にほぼ数学が必須であることに加え、一流私立大学に対する相対的地位が理系と比較して低いため、数学受験が必須でない私立大学に対する一種の怨恨、すなわち「数学もできないくせに」といった思いは凄まじいものがある。同様に、理系一般の文系に対するそうした思いもまた根強い。
 確かに人間の頭脳の性質と入学試験の難易度の関係上、「英語」や「文系数学」などではなく、「理系数学」や「物理」等の試験による選別によるほうが、より「狭き門」になることだけは確かだろう。平均的な「高校1〜2年生」などの段階で将来の進路が明確に定まっている者はそう多くないため、結果として科目の得手不得手により理系・文系が選択されやすい。結果として「数学や理科が難しいから」文系に進むケースが多く、母集団の平均レベルも大きく異なる。上述のとおり、理系から文転することは逆と比べて容易であるから、通常、学力の高い者は「とりあえず理系」となりやすいものだ。実際、センター試験受験者のうち「理系」は、「文系」に対して、文系科目を含めて全科目において平均点が高いのが通例である。
 ちなみにこの種の傾向は日本だけではない。たとえばフランスの大学入学資格試験である一般バカロレアにおいても、理系(Scientifique、通称S)、文系(Littéraire、通称L)、経済・社会系(Economique et sociale、通称ES)のうち、理系が最難関であると一般的に考えられている。理系セクション卒業者は全ての分野の職業に就けるとされており、その結果、明確な将来像がない若者は理系進学を希望し、近年理系セクションの生徒数増加、そして経済・社会系の生徒数減少という現象が見られる(070530ウィキペディア「バカロレア」より)。

 しかしながら、実際に社会に出た際に、数学や「数学的思考力」といったものが役に立つ経験はきわめてまれであるとともに、よく言われる「論理的思考力」とそれらの相関もはなはだあやふやであり、「学歴」全体が「無意味」であったのと同様に、そのような「能力」の計測そのものが何かしら幻想的な儀式性をはらんでいたということに気づくべきである。われわれは言ってみれば、「ケンダマの才能」程度に無駄な性能を計測されて大学に入学するのだ。いくら狭き門だったからといって、ケンダマができなかった者たちをことさらに批判し、さらには「ケンダマができないくせに」と言いはじめてもしょうがあるまい。ケンダマのできに優越感を持つことをまずは恥じるべきである。どうせそれによって世界一流に立つ人間は皆無に等しいのだから。

 もちろん、研究水準において日本の自然科学系統の多くが世界でも通用するのに対して、おしなべて社会科学系統は弱く、人文科学系統は日本語の壁に守られるだけの存在に近いというのは事実である(それゆえ、歴史的に見て、一流国立大学の学長は一流国立大学の理系学部出身がほとんどなのである)が、それらはほとんどの学生の実存としての人生とはなんら関係がないことである。
社会」に出るにあたり、上記一流大学の理系(特に工学系)では就職活動などで困ることはなく(そもそも一流国立大学の工学系等では、「就職活動」自体が不要である)、文系に対して一時的に有利になるものの、入社してしまえば同ランクの大学における文系(特に法学系)の方が出世が早い場合が多いなど、よりいっそう学生たちの繊細な感情(○○大学××学部への帰属心)を煽ることとなる。
 これらの事情が、「文系か、理系か」「数学受験をしたか、否か」といった微笑ましい対立を生む原因となる。

学歴と偏差値

「偏差値」は学歴社会の象徴であったはずだが、すでに「学歴とは偏差値である」とさえ言える様相を呈している。週刊誌等にも堂々と「偏差値対決」などの記事が書かれ、そしてその種の記事はたいへん「売れる」という。
 偏差値にまつわる言説に関しては、以下の指摘をするにとどめる。

 偏差値は母集団の「学力=模擬試験の点数」が正規分布すると仮定し、統計学用語における偏差値を求めたものである。したがって仮定が正確であるとすれば、偏差値をもとに、標準正規確率表のZに対する累積確率を求めることによって、当該人物が当該模擬試験受験者のうちの上位何%に入る成績が取れたかを計算することが可能である。
 いわゆる大学入試の「偏差値」においては、模擬試験の受験者層の違いや科目数の違いによって、さまざまな比較上の問題が生じる。たとえば大手予備校である駿台、河合塾、代々木ゼミナールの偏差値は、受験者層のレベルの違いによって異なる。また、「文系」の母集団と「理系」の母集団では平均レベルに乖離が見られるため、「文系」の方が偏差値の値が高くでやすい。特に理系における数学・理科の偏差値は、理系という集団内でのそれであるため、みかけ上かなり低くなる。「国立大文系型」と「私立大文系型」でも同様の傾向がある。
 そのほか、科目数による偏差値の差の影響も大きい。たいていの予備校の「偏差値ランキング」において、入試科目の傾斜配点を加味して偏差値の重み付け平均が掲載されるが、当然、科目数が少ないほど偏差値はみかけ上高くなる。数学だけが得意な人よりも、数学と物理と化学と英語が得意な人の方が少ないわけだ。また、どの科目に傾斜をかけるかによっても予備校の「偏差値」は変化する。受験生にとって負担となる「理系数学」の配点を高く設定すれば、前述の事情から文系と比べて偏差値は低く現れざるを得ないし、文系では「英語」の配点を高くすれば偏差値は高くなる。
 大学・学部により、「合格者平均偏差値」と「合格率50%偏差値」との偏差の高低が激しい場合もある。倍率が高く、歩留まり率が高い学部ほどその差は縮まりやすい。

 ところが、社会の高度情報化にともなってこの「予備校の偏差値ランキング」が逆に生徒にとっての「大学の価値」を決める主要因になるという構造が生まれたために、大学によっては試験科目を減らすことによってみかけ上の偏差値を「不当に」高騰させて学生を確保する(それによって学生全体のレベルを実際に高める)という戦略が採用される現象が生じてきた。立命館大学はそれに加えてさらに受験方式を細分化することで、おのおのの受験方式における「偏差値」を高めながら、併願方式の複線化によって受験料収入と偏差値を同時に高めるという戦略を用いた。それには賛否両論があるが、ブランド的イメージで生徒が大学を選択する現代においては、大学の経営方針としてすでにその手法は「正解」と言えるかもしれない(※)。関西学院大学と立命館大学は、過去の卒業生の実績、歴史等において、比較にならないほど前者が優れていたが、現在では、同時合格の際に後者を選ぶ受験生の方が多くなっている。
 なお、上述の「一流大学群」においては、2006年現在、主に慶応大学と名古屋大学後期2次試験の一部学部等が「少数科目入試」を取り入れているが、いずれもみための偏差値が若干高く出ていると思料され、しかもその「結果=生徒からの人気度の上昇」は、必ずしも失敗していない。
 歩留まり率の低い大学ほど、「入試難易度偏差値」(合格者の偏差値)と、入学者の実際の偏差値との差が大きくなるが、この傾向は、国立大学や他学部との併願が多く、同時合格の際に大量に上位層に抜けられる私立大学において顕著である。

(※)2016年現在では、立命館大学の「虚構の偏差値高騰」は沈静化してしまっている。
   下表にあるように、既に理工学部の一部学科において、近畿大学レベル(河合塾偏差値47.5〜49.9)まで落ちてしまった。
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学歴と幸福

 学歴、とりわけ入学試験の成績と個人の「幸福」は、現代ではしばしば異なる。過去には「学歴が高い」者が、そのまま企業等組織におけるリーダーや優れた学者等としてエリートの道を進み、早期に嫁を迎え「幸せになる」ことに直結する時代があった。貧しくて遅れていた時代にはそうだったのである。古くは、特に社会科学系・人文科学系の学問において、海外の学術論文を日本語に訳すだけで高名な学者になれたのだ。
 現代においても、平均的にはそれは正しいが、そのような一元化が困難になりつつあるのも確かである。知識等が細分化され文化が断片化されたことにより、「学力」といった漠然とした広い知識ではなくて、より詳細な知識およびその「組み合わせ」が重要になりつつあるからである。それとともに、大学進学率の上昇と社会風潮の変化にともなって、「学歴の高い者」が必ずしも「優秀でまじめに、一般的な成功のルートを選択する」ことも減ってきた。
 成熟社会において、日本大学卒の芸人が恐ろしい規模の市場を開拓することもあれば、学歴とは何の関係もないスポーツ選手が大成功を収めることも不思議ではなく、半ニートのデイトレーダーが大成功することもある時代となった。そもそも「社会的成功」などというものの「幸福」との対応自体が、疑われ、あいまいになりつつあるのである。趣味に生きたり、美しい女性とセックスを繰り返すことを目的とすることも、ひとつの幸せの軸となり得る社会になったのだ。貧しく、成熟する以前の社会では、そのような選択肢は少なくとも社会の表舞台には登場しなかった。

 ここにいたり、「学歴」が古くから再生産し続けてきたある種の固定的な「幸福」と、実存の意味における「幸福」との間に、ことによると、圧倒的ともいえる乖離が生じ始めているのである。

消えることなき刻印(スティグマ)としての学歴

「学歴」といったものが、多くの人々が漠然とイメージするであろうところの「社会での活躍」とある程度の関係を見せることはわかっている。その根底にいかなる構造があったかはおいておくとして、「何々大学卒は東証一部上場企業の役員になれる割合が高い」とか、そういったようなイメージにおいて。
 この種の「平均像」を見るときに隠蔽されるものは、「多くの場合の平均イメージ」から抜け落ちた者、それも数多くいるはずのそれの存在である。高学歴の人は勉強ができて知識も豊富である、と思われるのが普通だが、ありきたりな言い方をすれば「例外もいる」わけであり、そしてむしろ「例外」が多いのである。

 しかしその話はよそう。
 ここで筆者が述べたいことは、そうであっても、「学歴」が「消えることなき刻印」として機能するということである。大学に入って以降、又は社会に出て以降に、より多く勉強し、大半の一流大学卒の人よりも豊富な知識やスキルを身につけることあるいは社会地位的な意味での逆転をすることは不可能ではないし、現代日本であれば、運や人によってはたやすいことである。ところが、「年収」だの「地位」だの「知識量」だのといったものがある種の流動性を持ち、逆転可能な社会を迎えているにもかかわらず、「学歴」は未だに比較的「逆転不可能」なものとして存在するのである。これはわれわれが漫然とイメージするところの「アメリカ流能力主義」の対極をなすところの何かである。

「意志」が変えられない唯一のものは、過去である。過去にあったもの、それも18歳程度の段階に持っていたごく特殊な何らかの性質が人々に抗いようもなく刻印されるということ。これが「学歴」が幻想性を保ち、その力学を保持するための一つの構造となっていることに疑いの余地はなかろう。
「私は確かに成功した。しかし私は東京大学に入学できなかった」――こんな思いを持つ「社会的成功者」がいても不思議ではないし、逆に「私は東京大学に入学できなかったが、成功したのだ」と思う者もいるだろう。その種の想いこそが、「学歴」の持つ神話性そのものなのである。

  • あくまで「一時点の」能力であることをやたら強調される能力。帝京大学の学生がその後も凡庸な人生を歩むのはどうしてだろうか? -- ro 2006-06-03 (土) 01:26:09
  • この能力の高い人間人間性などの能力に欠けると言われている -- 月 2006-06-03 (土) 21:22:28
  • もう既に同じ名前の人がいましたね。失礼しました -- 失敗 2006-06-03 (土) 21:23:53
  • ちょっとびっくりした(笑)>月 学歴・・・ブランド品のようなもの。武器にもなるし重荷にもなる。 -- 月 2006-06-04 (日) 09:34:24
  • A「凸は学歴の低さ故にこの項目を書けないでいる。」でファイナルアンサー -- ここ一 2006-06-04 (日) 19:10:24
  • お前が書けよ(笑) -- あ 2006-08-15 (火) 10:32:27
  • 東大受けようにも偏差値が恐ろしく低く無理だった人書いてみ -- あ 2006-08-28 (月) 23:12:43
  • あ?は最近面白いこと言うね? -- いか 2006-08-28 (月) 23:44:41
  • 「学歴とは」みたいなことを正面から論じたいとは思うんだが、このウィキの1項目には収まりそうにないな(笑)。このウィキは「名言とは」というくくりだが、それと同じくらい色々なことが書かれなければならなそうだな。学歴と愚行ウィキでも立ち上げて偏差値表や会社での出世、その他アンケート結果など含めて色々情報収集すればそれで本になる気もするな(笑) -- とつげき東北 2006-08-29 (火) 01:07:08
  • とは言うものの実際本にまとめるのは面倒すぎるし例えできたとしても東北の知名度で少しは売れるものの麻雀とは無関係なので信者ぐらいしか買わないだろう事は予測がつく 学歴に関して東北は言い訳番長に変化するよな(笑)何度上げても無視するしw -- あ 2006-08-29 (火) 05:25:24
  • ある友人にそれまでの経歴を尋ねた事がある。出身や学歴を聞いたつもりだったが彼は鑑別2回少年院1回と答えた。米国では軍歴が重視されたりと人によって自負心も色々だ。 -- 原田 2006-12-11 (月) 23:12:33
  • 低学歴の人に使うときと高学歴の人に使うときの用法が違うよね。低学歴向に向けて使うときには、所詮〜大学だからその程度だみたいな感じ。烙印的な使われ方 -- ヤミテン清掃員 2006-12-13 (水) 02:06:41
  • ”女のくせに”とかと同じ使われ方。馬鹿の一般化かな。それで高学歴に使うときは学歴の話だけで終わらなくて必ず逆説してそこから否定的なことがらが入る。例えば”高学歴だけど心が冷たい”とか”高学歴な人は勉強はできるけど仕事で役にたたない”とか。ルサンチマンってやつなのかね。 -- ヤミテン清掃員 2006-12-13 (水) 02:13:50
  • 逆説→逆接 -- ヤミテン清掃員 2006-12-13 (水) 02:16:28
  • とゆうか高学歴は”エリート”っていういい項目ができているからそちらにリンクしてはいかがでしょうか。 -- ヤミテン清掃員 2006-12-13 (水) 02:27:01
  • とつの学歴に対する凄まじい執着(あるいは執念)を感じた・・ -- 2007-01-02 (火) 11:23:02
  • やっと概要を書き終えた感じで、これから学歴にまつわる「名言」の解説を考えるのだが(笑) ぼちぼちとやります。 -- とつげき東北 2007-01-02 (火) 12:00:42
  • おおやっと書いたか確かに凄まじい気合いの入れ方だなそんなに学歴に劣等感持ってるのかこいつは・・・バロスw -- あ 2007-01-13 (土) 00:01:51
  • あ?の理屈で言えば、おれは麻雀に対してどんだけ劣等感もってるんだよ(笑) -- とつげき東北 2007-01-13 (土) 00:26:37
  • 亡国 2007-05-29 (火) 23:38:44
    う〜む、色々と考えされられるが

    >宮澤喜一氏は、新聞記者が東京大学卒でなければ口も聞かず

    を校正しなければ先を読んでやらない。
     

  • とつげき東北 2007-05-30 (水) 23:50:29
    へいへい、修文修文、と。
     
  • にんじん 2007-06-04 (月) 21:23:38
    学歴不問で採用したら、東大卒が増えちゃった。
     
  • 2007-08-04 (土) 07:38:41
    麻雀に科学入れるなんて相当な劣等感を持っているんだな
    科学を使っても最大R〜安定Rで1位になれねーのか(笑)
    科学の力でR2250超えてみろよwwwwwwwww
     
  • 亡国 2007-09-18 (火) 21:25:42
    >へいへい、修文修文、と。

    そうか、小枝か!
     

  • 匿名希望男性 2008-05-19 (月) 03:00:57
    健康が一番。健康が人生の勝ち組。うつ病になれば、病気のつらさ、健康の大切さが分かる。
     
  • 2008-05-19 (月) 05:11:47
    鬱とか患う前に健康の大切さくらい知っとけ。

    まぁなんだ、頑張れ!
     

  • とつげき東北 2016-08-21 (日) 20:29:17
    立命館大学の最近の偏差値表を加えた。
     

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Last-modified: 2016-08-21 (日) 20:29:17 (698d)