ゾンビB (項目投稿用から一部修正して掲載)

 恋愛が大好きで、頭が悪い割に語るのも大好きな大衆は、非常にしばしば恋愛についての珍説を得意満面で語りだす。以下の文章はその一例としての、ある凡庸な京大生の日記の引用である。

「日本語、漢字って奥が深いですなー^^; 
 英語にするとどっちも「LOVE」なのに・・・ 
 恋と愛の違い・・・・ 
 愛は真心、恋は下心・・・とかとも言いますね^^; 
 昨日、某先輩が言ってた恋と愛の違い・・・ 
 一人でできるかできないかだそうです・・・」

 彼が分析的視点については完全に捨象している(と思われる)点を斟酌しても、あまりにも醜いあるいは面白い。

 さて、上の彼の日記で挙げられている違いの他にも、「恋は奪うもの、愛は与えるもの」など幾つかの両者の違いが謳われている。そしてこれらは全て恋を貶め、愛を賛美する内容である。(一人でできるか否かについては、引用した日記に明言されていないが間違いなかろう)ここで気になるのは、その理由であり、私はその疑問について一つの仮説を提供したい。
 
 思うに、彼らが恋を冷遇し愛をありがたがるのは、彼らの「成長」という名言的信仰からの帰結ではなかろうか。大衆は、あらゆる経験によって不断に自身が成長し、以前の自分よりも優れた自分に更新されていくことを信じている。故に彼らは当然に恋愛経験においても成長し続けていかなければならない。そしてその成長の説明のために二つの言葉が便利だったのである。
 言うまでもないが、実際には「恋」と「愛」に厳密な先後関係などあるまい。成長したその結果として、ある一方が別の他方になると観念するのは完全なこじつけだろう。しかし、彼らはそれぞれの単語の用法により先後関係を偽造したのである。
 つまり『「初恋」とは言うが「初愛」とは言わない。「本当の愛」とは言うが「本当の恋」とは言わない』という用法上の指摘である。
彼らの成長信仰に当てはめれば、「初恋」時の自分が最も低く、恋愛経験を積んで成長していった結果「本当の愛」を理解するという成長物語の存在を推測することができる。この様な視点から恋と愛の間に先後関係を作り出し、そこから「恋<愛」という構図を生み出したとは見られないだろうか。
 なおこれらの作業は、彼らの意識には顕在化されず、感覚的・潜在的に行われていると思われる。これらの発言の意識的・直接的な動機は、詩的に「良いこと」「珍しいこと」を言って評価されることなどであり、成長の文脈は彼ら自身気付いていない。そのことは、彼らが骨まで名言に浸かりきっていることの一つの発露と見うる。

(当稿では「恋<愛」の構造についての仮説の提供に力を入れたが、その名言性については以下の項目参照)

恋は下心、愛は真心
人生経験
成長
本当の
→詩
 

とつげき東北

「愛と恋は別だと思う」

「愛」や「恋」を英語に直すと「love」になることを鑑みれば、アメリカ人にとっては愛と恋との「差」はさほど重要ではないらしいと察しがつくものだが、日本においては「多くの人がその差について何かしら語っている」という理由から、大衆がそこに何か根本的で非常に重大な差があってそれを知る必要があるのだという強迫観念にかられつつ、だがしかしその差異が一体何であるのかを概念上整理しないままに無分別に放つ言葉。

 自分が「重大だ」と認識する対象についてさえ、何ら分析的に思考しえず、説得的に語りえないのは、大衆のきわめて特徴的なあり方である(→人間関係)。
 差が気になる割に分析も調査も不可能であるなら、辞書で調べて納得しておけば良いのに、という指摘はこの世のあらゆる指摘という指摘のうち、もっとも的確なものの一つだ。
 比較的正常に頭を機能させることが可能な類型の人間であれば、辞書で調べなくとも、「恋」の対象は異性(少なくとも性的な対象に該当し得るもの)でしかあり得ないが、「愛」の対象はモノであっても良い(「私は野球を愛している」等)ことに約30秒以内に気づくはずである。
 このこと等から、「愛」と「恋」との対比においては、相対的に「恋」が性的な側面、あるいは短期的ないし刹那的な側面を強調したものであり、またそれゆえに「恋愛」初期段階に対して用いられがちな表現であって(「あなたに恋しているから結婚しよう」とは言わない)、時間的・関係的に「一定以上」になれば「愛」になるのであろうと推測できる。

 それ以上の差異を事細かに列挙する(「本当の恋」という概念が存在しないと喝破し、さらに「恋→愛→本当の愛」というリーズナブルな恋愛文脈的成長について思考したり等する)よりは、もう少し優先的に思考すべきことがあるのではないかと筆者は思う。例えば「なぜ自分は『愛と恋は違うと思う』などという言葉を吐かざるを得なかったのか」等について。
 それについては、筆者が簡潔な仮説を示しておこう。ある種の人々にとっては、「愛と恋の違い」などについて(つまり明確に一元的な答えが出ない領域において)「考えたり悩んだりする」フリを続けることが、人生で他人から「知的そうに見られる」唯一のチャンスだからであり、そしてまた、彼らは「悩んでいる自分」が大好きだから、というのがそれだ。
 彼らは数学の問題については、さして悩まずに放棄するし、悩んでいるフリもしない(学習性無気力という言葉がふさわしい)。容易にその問題を解く者の出現とともに、彼らの未熟さが露呈するだけに終わるからである。しかし例えば「愛とは何か」について悩む限りにおいて、彼らの中の小さな何かが永続的に守られるのだ。

人間関係
自分で考える

投稿日時:2008-02-05 (火) 13:38:10

  • ・・ 2008-02-05 (火) 16:30:02
    ほぼ同意なんだが、
    >「なぜ自分は『愛と恋は違うと思う』などという言葉を吐かざるを得なかったのか」

    「考えたり悩んだりする」フリを続けることだけでは「言葉を吐く('一元的な答え'とした自説を他人に提供する)」必要性に乏しいと思う。
    彼等が他人の前で堂々と自説を吐けるのは多元的意味を持つ「愛と恋の違い」を「個人の意見」として扱える(逃げる事が出来る)からだろう。
    そういった戦略によって自説が守られているから他人に自説を提供・強要できる
    、という側面(普遍的構造)も必要だと思う。
     

  • ・・ 2008-02-05 (火) 16:33:10
    >(つまり明確に一元的な答えが出ない領域において)

    ああ、書いてあったか。上のはなかったことにしてくれ。
     

  • 2008-02-06 (水) 06:12:32
    Nのように無い知恵絞って噛みつくが結果は醜態晒すだけという悲惨な末路が待っているという図
    送信する前に確認もしないどんくさい自称インテリなのであった。
    このサイトは大衆に対するルサンチマンと東北を崇めながらも隙あらば噛みつくルサンチマンと「あ」で成り立っています。
     

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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:40:29 (2885d)