とつげき東北

 デジタルの世界では、同じ情報を無制限にコピーできるように思えるが、それは情報の量子化によって微小な差異を「認識しない」ようにあえて取り計らった結果得られた、技術論的あるいは認識論的な同一性にしか過ぎない。実際、磁気記録装置における磁化の諸状態を精密に観測すれば、「同じもの」など一つとして存在しないことがわかることだろう(かつて、フロッピーディスクでソフトが提供されていた時代には、「通常の読み取り」によっては同一性が担保できない「不確かな情報」をあえて埋め込むことによってコピーを見破るというプロテクト――通常はアンフォーマットではないはずの、154トラック目より内側のトラックをあえてアンフォーマット状態にしておくなど――が存在した。ここでは、「0」や「1」の状態に量子化される以前の、磁気媒体がヒステリシス特性を発揮しないような不安定な状態の、0でも1でもないというメタな特性を、デジタル的な認識によって応用したのである)。

 ふつうに生活していれば、われわれにとって、タンポポはタンポポであり、タンポンはタンポンである。それらは決して世界にたったひとつのタンポポでもなければ、世界にひとつだけのタンポンでもない。ライオンにとっては、そのいずれもが自分の生命維持に何ら無関係であるという理由で、タンポポもタンポンも「同じ」である。無理をして差異に敏感になれば、同じように認識できるもの同士を識別することができる。これは美人のあの子が使ったタンポンだ、これは違う、といったように。それは即ち変態である。

 金属の「価値」が錬金術によって金の「価値」に一元化されようとしたように、一元化不可能な価値を諸価値に一元化しようとする奇妙な動きに反対したくなるのはわからなくはない。「学力」あるいは「基礎能力」などといったスカラー値が存在して特定の人間の人生における諸活動のできばえが決定されると考えるのはあまりにもバカバカしい。だが、だからといって、最初から全てのものに備わっている「たったひとつ」さを強調しても始まらないだろう。
 現在では、数学においてクラスで1番でなることだけではなく、数学はできないが体育や音楽において1番になることも「個性」だとみなされる風潮がある。だが、数学も体育もそこそこにできる、ということそのものを「個性」として見なすことができるようにならなければ、全体がぬるくなっただけで根本的に何も変わっていない。

 できない、おかしい、変だ、奇妙だ、という点において逸脱しているということのうちに、ある美学を読み取れるようにならなければ、「たったひとつ」の価値などわかるはずもない。「たったひとつでないこと」が、逆にたったひとつの特性であるような「不確かさ」に、確かな視点から敏感になればよい(これは先の磁気媒体の例のとおり、詞的表現ではない。あるセクタの情報が0でも1でもない「不確かな状態」であることだけが、当該ソフトが正規ソフトであることを保障したのである)。

  • age 2007-09-18 (火) 03:26:16
    ランダム

 

  • ここまで読んだよ 2009-10-17 (土) 17:47:29
    >>世界にたったひとつのタンポポ
    たとえクローンを作ったとしても、今手にしているタンポポは世界でただ1つのタンポポだろうに
    それ以外に原子レベルでまったく同一の固体など存在するか

    どんだけ論じてがんばったって、物理世界は「『たったひとつ』の集合体」
    いかにグループ分けするかだけである
    だから、統計学というのは、そのグループ分けの方法によっていくらでも捻じ曲げた解釈ができる
    捻じ曲げ方が秀逸なのが多くの信者を伴う「占い」、劣悪なのが電源が消えただけで意味をなくす「2進法論理
     


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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:40:15 (2709d)