とつげき東北

全国紙の1面での記述が、明らかな事実誤認(国が公表している数字の間違いなど)をしばしば含む現状の中で、自らの記事の正確性担保に対してあんなにもずさんなマスコミが、なぜ各種企業や団体の「ずさんさ」を無邪気に指摘し続けていられるのか理解しがたいが、ともかくマスコミが用いたがる典型的な用語。

論説コンペ「JR脱線事故――いったい誰が悪いのか?」に「魔女狩りが隠蔽するもの」と題して投稿したもの。

「誰が悪いのか?」――私を含むわれわれにとって、それを論じることは容易な作業でない。
 法的文脈で「誰が悪かったのか」を決めること、つまり「悪をあるべき状態に配分する」ことは、損害賠償や行政指導などのスムーズな問題解決を行うために必要な手続きである。法的な「悪の配分」作業については、しかるべき専門家が行い、議論を重ねたうえで必ずしも最適とは限らない着地点が見出されるに違いないから、多くの人々はそれを妥当なものとして受け入れるほかない。
 かといって法的文脈を避けて「悪いのは誰か?」という問いを真正面から扱おうと決意した瞬間から、われわれは素朴な独善を述べること、事態をあまりにも簡単に整理してしまうこと、曖昧な抽象論を吐き散らかすことへの誘惑に駆られるのが通例である。
 そこでここでは以下、「悪の配分」自体をするのではなく、社会的・思想的・道義的文脈での「悪の配分」のされかたや、その構造に関する分析を、JR福知山線の事故とからめて論じてみよう。

 悪の配分という行為においては、必ず「魔女狩り」が行われることをまずは確認しておかねばなるまい。専門家たちに限らずさまざまな人がこの行為に加担する。ネット上で好き放題言う人もいれば、一連の騒動をシニカルに批判する人間も現れる。
 熱狂、つまり流行としての「考察」や、思考力の不足による同調現象と反発に基づく共振現象が起きるのにともない、莫大な量の悪が1グラムたりとも余されることなく、いきわたるべき人とそうでない人にごった煮の状態で配分されてゆく。その過程で、本来悪でないものに対してまでも、執拗に悪の烙印が押される現象が起きる。これが「魔女狩り」である。想定される悪の絶対量が「本来の量」――適正な量が仮定できるとして――をはるかに超えてしまい、必然的に魔女が誕生するというわけである(この仕組みは、「2ちゃんねる」で毎日のように魔女狩りが繰り返されることと無関係ではない)。
 次の報道をみるとよい。
「民主党の現職参院議員17人が今月8日に、尼崎JR脱線事故現場から約30キロ離れた神戸市北区内のゴルフ場でゴルフ大会を開催していたことが16日、分かった。」(Yahoo!Japan 社会ニュース 5月16日(月)21時12分より引用)
 明らかに作りすぎてしまった悪をばらまく過程で、こうした笑われるべき記事が生まれる。
 もちろんこの種の狩りが導く結果それ自体には、たいてい一遍の深刻さもない。増えていない犯罪が増えたと騒がれ、低下していない知力の低下が嘆かれ、結果として税金が無駄遣いされようとも、われわれはそれらを喜劇と呼んで差し支えなかろう。
 この種の過程は反復され続ける退屈な現象であり、時が過ぎるとともに沈静化されゆくだろう。今般の、アメリカによるイラクに対する石油利権侵略戦争についてさえ、もう日本では語られないほどに、人々は自分と一見無関係の事態に対して熱しやすくまた冷めやすい。誰もが昨日の魔女の名前を思い出せない程度に、狩りは幾度となく反復される。

 しかし、魔女狩りが構造的な危険をはらむということも、われわれは確認せねばならない。
 魔女に悪を刻印して「殺す」ことにより、人々が内的に秩序を回復してしまい、ほんとうはそこに実在したかもしれない根源的で多様な問題が隠蔽されてしまう、という構造がそれだ。うわべの、見せ掛けの問題をわかりやすいコードで処理して解決してみせることで、多くの人が問題の実態をつかみ損ねる。
「若い男性(女性もだろうが)の多くは少女監禁事件に性的興奮を覚えた。人間とはそういう動物である」という致命的な真実に対して、人々は「被告は異常な性向を持っていた、美少女ゲームを大量に持っていた」といった「魔女」を要求する。魔女は一貫して簡単でなければならない。シンプルな魔女が次々と殺されていく間中、しかるべき事実は視界から除外され続ける。全ての魔女が裁かれたあとで、人々は自分たちが口にした神話の鈍い醜さを呪うことになるだろう。

 JR福知山線事故についてもそうである。
 問題を起こした企業の職員やその上司がそれを隠そうとしたり、ずさんな管理をしていたりすることは、実はそれほど珍しい光景ではない。朝日新聞(地方版を含む)は記事上で、JRの件に限らず、5月10日から5月13日までの4日間の間に、実に16件もの「ずさんさ」を指摘している(G-Search朝日新聞紙面検索「ずさん」の結果による)。
 実際、JR西日本もまたずさんだったのかもしれない。体質にも問題があったかもしれず、また安全性に関する教育も行き届いていなかったかもしれない。しかしながら、惜しげもなく「ずさんさ」が大量生産され消費され続けるこの事実は、むしろ「ずさん」という抽象的な言葉では、ある事態に固有の、そうあるべき問題を抽出することがおよそ不可能だろうことを示唆する。
 私の知る範囲だけでも、安全にかかわるかなり重要な側面での取り組みにおいて、JR西日本よりひどい例はいくつも存在する。航空機に毒物を持ち込むことは簡単だし、首相官邸の警備レベルの低さを見ても一目瞭然である。
 たった一人の人間が失敗したとき、あるいは知能と悪意とを併せ持ったとき、大災害・大被害・大犯罪を起こすことが実際に(しかも簡単に)可能な仕組みが、日本にはまだたくさん放置されている。
 そうしたカオスをシステムや制度で囲い込んでゆく方法(JRの例で言えば自動停止装置の設置・高精度化、航空機の例で言えば操縦士と客席や客席同士の物理的分離、他に第三者チェック機関による監査制度の確立等)を、それを必要とする人々がしかるべき手段で理解していかなければならない。にもかかわらず、今回の魔女狩りにおいても、実存レベルのわかりやすい内面的要素・人間的要素ばかりが取りざたされているように見受けられる。

 危険は決して、魔女でない者が魔女とされるための一連の運動や、それに対する知性なき悲観とともに現れるのではない。悪が振り分けられる第三項(被差別者)が固定化されてしまう状況よりは、この現代的「魔女狩り」の仕組みはよほど健全で短絡的であり、それゆえに情報消費社会にふさわしい。
「魔女がそこにいる。魔女を殺せば秩序が回復する」という情熱的な思考停止装置は、人々の誇りなき不満・不安のヒステリックな暴発をいつもかろうじて止めているように見えないでもない。
 しかしながらいかなる意味においても、ずさんな神話をとりまくずさんな言説――正義あるいは冷徹を装った単純な秩序維持装置――は、人々を拙速で単調な、恥ずべき方向へと導くほかない。

  • あれはIEブラウザの勝手な解釈か 論説コンペの部分バグってんな -- あ 2006-09-18 (月) 00:43:56

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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:40:13 (3005d)