小説、マンガ、映画等の名言性について、「知的に」評論する項目。
(名言的作品紹介2)
(解説)歌詞に見られる名言性

とつげき東北

映画「博士の愛した数式」

(原作未読)

 〜「説明責任」を負わされる同世代的感動の文脈における浅薄さの象徴として〜

 映画、本、音楽等が、決して自分宛てに作られてなどいないことには敏感であるつもりである。博士−愛−数式というリーズナブルな組み合わせで題される本作は、いったい誰宛てに作られたものだろう。数学を愛する学者へ? 癒しを求める若いカップルへ? それとも、原作者へのオマージュとしてだろうか?

 交通事故によって80分間しか記憶が保てなくなった不幸な初老の博士と、彼を世話する若い雇われ家政婦、博士から「ルート君」という愛称を与えられることになる家政婦の子供との、数式(数字)を通じた不思議な交流を題材にした本作は、かといって数式がなければ成立しなかった映画というわけではない。舞台である「過去」と、後日、「ルート君」が教師になった際の授業風景である「今」とをリンクさせてみせたのは、「階乗とは」「eとは」といったいささか退屈な観客への「説明責任」をあたかも「自然に」果たすため、という以上には機能しておらず、その中で「数学的に」誤った表現(eのπi乗が−1になる事実を「矛盾した数字の組み合わせが…(略)…ひとつになる」といったように形容したり、無限小数の桁数が「星のように無限に」あると説明するなど)を織り交ぜる手法から見ても、本作はどうしても数学者向けとは呼べまい。
 当然、専門的な世界の描写をしようとすればするほど、フィクション性を施さざるを得なくなるという真実は、映画が興行収入を目的として製作される娯楽であることから、避けて通れない問題だろう。例えば映画の世界において描かれるハッカーとは、真のハッカーでは決してあってはならず、敵のハッカーからネットワークに進入されそうになった場合には、(オフラインに切り替えるといった適切な処置を講ずる代わりに)犯人とネットワーク上で「追いかけっこ」しなければならないものだからだ。ストーリー上成立してさえいれば、そうした大真面目な茶番も笑って許せるものである。真実の世界は、2時間という枠の中に愛や感動を放り込むことが必要不可欠な映画の世界に比べれば、驚異的なまでに退屈なものだ――いたずらなリアリティの追求は映画の価値を殺ぐ。

 しかし、である。数学の解説をむざむざ嘘で塗り固める必然性はどこにあったのだろうか――。本作「博士の愛した数式」には、この種の「不自然」を越えた何かが描かれていないのだ。
 家政婦が毎日家に訪れるたびに、彼女の靴のサイズが4の階乗であることに思い当たって「潔い数字だ」と笑顔を浮かべる博士は何ら愛らしくないし、それにとどまらずルート君が生徒に向かって「博士は人と接するときにどうして良いかわからず、そうして数式でコミュニケーションを取っているんだ」などと「説明」してしまうのを目撃するとき、私たちは浅薄さ以上のものを感じることができない。
 数式や証明は美しい、ということを知らない者たちは確かにこの世に存在しはしよう。数学が芸術の一つに他ならないことを信じない野蛮な連中もいよう。だからと言って、数学の論文誌で過去最高の懸賞金を獲得した博士が、「数式の美しさ」について「星はなぜ美しいかを説明するのが難しいように、(数式の美しさを説明することは)難しい」→「だが、数式は美しい」といった流れの中で「解説」し、「直感が大切」であるとしきりに促すのは、受けなかったギャグの面白さを解説している無価値な人間との会話のように、目を逸らしたくなる。
 家政婦とルート君の異様なまでの「人間性の高い」設定も、本作とは本質的に無関係の冗長な道徳的名言を撒き散らす際に有効であったということの他に、役割を付与されない。「数式を愛する」深遠さを持つはずの博士が、自分は(世の中の)何の役にも立たない、という理由で臆面もなく頭を抱えてしまい、家政婦はそれに対する「道徳的なフォロー」を実演してしまうのだから。
 時代設定にあわない流行の道徳的名言を過剰に織り交ぜながら、本作においては、すべての「感動のタネあかし」が、手垢にまみれた鬱陶しい言辞によってなされてしまう。
 ようするに、饒舌に過ぎるのである。

 当初は心を閉ざしていた博士の義姉が、博士らの「心の交流」に触れて、あっけないほど唐突に、母屋と離れとを隔離する「象徴」であったらしい木戸を開いたまま母屋に戻る――赤面すべきことに、その行為の意味についても義姉は口で説明してしまう――という残念な描写は、とりわけ圧巻であった。映画という表現手法における経済的限界――一般受けすることが必要である故に、知識を前提とする表現が不可能であり、流行を追わなければならないという芸術的な意味における絶望的限界の存在――に抗う術を模索するどころか、本作はその現状に嬉々として身を売ってしまっているのだ。
 教師になった「ルート君」が、詐欺まがいの「感動的授業」を生徒に対して行ったのと同じことを、この作品は観客に対して強いる。ルート君同様、この映画は数式の美しさや数学の深さを決して伝えようとはしない。「数式は美しい」「数学は深い」という呪文を繰り返しながら、「生徒」にその理由を、嫌になるほど単調に、おずおずと説明することを反復するのだ。その結果皮肉なことに、真の意味での「数式の美しさ」や「数学の深さ」は、完全に生徒=観客の視点から計り知れないほど隠蔽されてしまう。
「数式への愛」「数式の美しさ」を、「描く」ことをせずに性急かつ稚拙に「論じ」すぎた本作は、どれかが偶然当たれば良いといった程度の、投げやりな、脈絡のない感動的表現を繰り返しながら、一応のハッピーエンドを迎えてしまう。
 本作は数式に対する愛を「説明」して矮小化するための映画であり、名言の現代的ツギハギとしての駄作である。数学の問題に取り組んで悩み、時間をかけて正解に達したが、模範解答ではより美しいやり方が提示されていた瞬間の、胸の高鳴りや、全身が震えたあの感覚を、本作は一つとして伝えないし伝えようとしない。
 おかげでデートがイマイチだったかどうかはともかく、一般受けはかなり良い映画らしいから、感動ドラマ等が好きな人には大変お勧めである。

映画「ダヴィンチ・コード」

 何の興味も抱かせないどうでもよい者たちがこぞって登場し、きわめて退屈な運のみの謎解きごっこを繰り返しつつ、戦ったり愛したりするうちにハッピーエンドを迎える駄作。よく眠れる。

映画「ゲド戦記」

(原作未読)

「心に闇を持つ」少年。
 人間の欲望によってとにかく悪くなる一方の世の中。
 偶然出会う大賢人ゲド。悲しみを背負った少女。
 一貫性なく名言的コミュニケーションによって心を打ち解けさせてゆく彼ら「善人」たち。

 週間少年ジャンプ漫画的な、思想的低学年向けのこうした要素をふんだんに盛り込むことが、必ずしも直ちにその映画を台無しにするというわけではなく、興行収入への第一歩であることは否定しない。
 なるほどあの名作「ラピュタ」にせよ「千と千尋」にせよ、冗長な説教的テーマを持っていないではなかった。美しい映像と緻密な世界観と音楽とによって、「背後」に挿入されたその種の下らない主題が一応包み隠されていたことで――後に宮崎監督の口からもったいぶって語られたとしても――、私たちは安心して老監督の戯言を「なかったこと」として処理し、それらの作品が持っていた輝きを忘れずにいられたわけである。

 ところが、「光と闇」「生と死」といった2項対立における、いわば「バランスの大切さ」をテーマとして持つこの「ゲド戦記」が、思わず目を覆わんばかりにそれを前面に打ち出してしまい、結果として「バランス」の悪い相手をみな「悪人」に仕立て上げて権力的に排除してまわる様子は、繊細さとは無縁の何ものかである。実際、主人公たちは、自らの無策によってもたらされるあらゆる苦境を、あたかも名探偵コナンのように運とチャンバラと勢いで乗り越えながら進んで行く。
 いざという時に発揮され、なおかつ観客がハラハラドキドキするまでは決して発揮されない類型の強力な能力の存在は、観客に「最初からそれ使っとけばよかったんちゃうん」という怒りに似た脱力感を与えるに充分な仕掛けである。
 映画のポスターに記載された「見えぬものこそ」などというおちゃらけたキャッチコピーが本来担うべき何らかの感動とはまったく独立に、もっとも目に見える形で顕在化される「強さ」に基づき、何の戦略も工夫もなく敵を倒す(最後には思想的に対立する「悪の相手」を最強の技で燃やし殺すに至る)というのは、何か奥深いシャレなのだろうか。

 とめどなくあふれ出す不実な説教的決めゼリフも、各種道徳を欲張って混入しようとしすぎて拡散したテーマも、「どうせ運良く勝つだろう」と思わせずにはおかない戦闘シーンも、大衆に予測可能な程度の魅力のない各登場人物の心理も、どれもこれもが浅薄にすぎる。
「千と千尋の神隠し」にあやかった「まことの名」という概念の度重なる使用も、商店街の福引で「3等賞」程度が当たった折に過大に祝福されてしまった時のような、ただならぬ居心地の悪さしか感じさせない。

 王である自らの父親を特に理由なく殺害して旅に出た、脆弱な現代日本道徳病に侵された頭の悪い少年が、しょうもない名言に触れる中で虚偽の「心の成長」を遂げたうえで、国にのこのこと帰ってゆくという一連の不祥事が、もったいないほど美しい映像と「ジブリ映画」というブランドによって装飾されて映し出される――本作品は、そんな悲しくも哀れな凡作である。

  • これ、今日見ました・・・だって時間的にNARUTOとこれしかなかったんだよ(涙)途中までは、善悪がはっきりしていてディズニー映画みたいで意外に楽しいじゃない!と思ってたんだけど・・・NARUTOにすればよかったかも・・・ -- 月 2006-08-16 (水) 20:23:29
  • これ=ゲド戦記 -- 月 2006-08-16 (水) 20:25:38
  • BRUTUSの595号に『科学する麻雀』が特集されていると思ったら隣で『博士の愛した数式』が(笑)。 -- dAnce 2006-08-28 (月) 16:41:44
  • 凸さんクラスにもなれば殆どの小説や映画は馬鹿らしくなるんじゃないんですか?特に何かを読んだり観たりして感動するなんて不可能でしょう? -- 2006-11-07 (火) 22:06:54
  • 人間止めてるクラスって事を遠まわしに言っているのか??? -- あ 2006-12-03 (日) 11:13:38
  • 2010-08-13 (金) 04:22:35
    先日、ブックオフに「博士の愛した数式」の漫画版があったので購入後、読んでみた。
    どうやら原作にある程度忠実なようで、映画版に挿入されたらしい各種の残念な描写は見受けられず、
    ほのぼのとした博士との生活を主に描かれていた。
    30分と105円を費やして読む価値があるかは微妙だが、映画版よりは数段マシだと思われる。
    (ちなみに原作未読、映画版未鑑賞)


     
  • fur 2012-06-26 (火) 17:47:22
    どこに投稿していいかわからなかったのでとりあえずここに。
    http://news.nicovideo.jp/watch/nw294997?marquee
    途中から嫌になって飛ばし読みしていたのですが、説明不足な主観や本ウィキで言及されている名言の使用例がいくつか見受けられました。
    お暇な方、どうぞ。
     
  • 2012-08-16 (木) 23:11:35
    「博士の愛した数式」の原作小説を先日読んでみたので、情報および感想を。
    (小川洋子著、例によりブックオフで105円。)

    小節および著者情報
    ・小川洋子はこの作品で、第55回読売文学賞および第4回本屋対象を受賞した。
    ・タイトルから想像し難いが、野球が数式や数と同程度に物語上重要な役割を持つ。
    ・『主題は「3人の交流」で、「数式」や「野球」はそれを組み合わせるピースの1つだった』
     旨の発言を、巻末にて著者がしている。

    感想
    博士が数学や数式を愛したことを、数への愛という形で代用表現しているが、
    その描写が甚だ不自然なのは否定しがたい(漫画版も含む。)し、
    数+野球+記憶が80分しか持たない数学者、という要素の組み合わせの珍しさを除けば、
    凡庸で数多に存在する文学賞受賞作品の1つ。
    しかし、繊細で緻密な心情、風景の描写や、比喩表現、文章構成など、文章力は高く、
    著者が数学に対し畏敬の念を持ち書いたことは、各所の表現から読み取れる。
    (ただし、それは「宇宙」や「地球」について学んだときに抱きがちな、
    理解や想像が及ばないものへの、言わば神への信仰のようなものである可能性は高い。)

    私個人としては割と興味深く読めたが、
    ウィキ的には路傍の石程度の評価、というイメージ。
    数学の面白さを正しく・知的に伝えたという観点であれば、結城浩著「数学ガール」シリーズをより勧めたい。
     


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Last-modified: 2012-08-16 (木) 23:11:35 (1944d)