とつげき東北

不自然な言葉、儀式化されたコミュニケーション

 霞むように遠い昔の断片的な記憶の中にも、特権的に保持され続ける印象的な場面がいくつかあるものだ。私にとってそれは例えば、幼稚園の2階の廊下に理不尽に放置された積み木を、同園児が踏みつけて転び泣き出してしまった際に、彼に対して「くやしかったらボクを叩いていいから」と言ってみたことがそうである。あるいは、小学1年生の頃、祖父が亡くなった数日後に、母親に向かって「さっきな、畑でおじいちゃんが見えて、おじいちゃんって呼びかけたら消えた」と言ったこともそうである。これらが今でも鮮明に思い起こされるのは、自分が取り立てて慈悲深かったからでも、稀有な神秘的体験をしたからでもない。「この場面では、こういうことを言うと、良いのではないか」といったような確信じみた気持ちを幼心に感じながら、特に自分が望みもせず、体験してもいない単なる「嘘」を吐いたからなのである。
 自分にとってそれらは、明らかに「自然には出ない」はずの言葉だった。何かわざわざしかるべきものを用意してきて、これをこの場面で投げ出すと褒められるのではないか、気を引けるのではないかというつながりを、薄々感じながら行動したまでのことだったのである。自分の「自然な」感情とは途方もなく程遠い言葉を並べる行為に対する、今思えば一種の猜疑心のようなものが、おぼろげながら自分の中に生じているのを、不思議な冷静さとともに感じたものだった。

 幼い子供の取るに足りない嘘だけに限らず、私たちは生活の中で、この種の「不自然な」言葉の体験を繰り返し生きることになる。
 とかく不気味に感じられた学級会での討論や、道徳の時間の生徒の返答を思い出すと良い。「別に、部落差別は自分と関係ないからどうでもいい」という一番ありそうな意見は決まって語られず、その代わりに「本人の努力と関係ないのに、生まれで人を判断するのはよくないと思います」などという誰のものでもない意見が、妙な感動につつまれながら語られ、まるで部落差別が、はなから誰の得にもならなかったかのように処理される様子は何だったのか。
 同様に、会社の採用面接や事故被害者遺族へのインタビューもまた、私たちが生きる上での現実とは著しく乖離した「暗黙に用意された返答」を口にするための儀式と化している。「御社が業界で着実な実力を伸ばしてきた」ことや、「自分がステップアップできる」ことが平均的な大学生の「御社を志望した動機」とやらを表すはずがない。およそ志望動機に「正解」があると仮定できるならば、「あまり、ありません」がそれだろう。「夫が死んで、少し悲しいけれど、どちらかというとほっとしました」と感じる妻がこの世に存在しないことになっているのは、いかなる理由からか。

 さて、酷く不自然な言葉が執拗に繰り返されるうちに、私たちはいつのまにかそれを「自然な」やりとりであるかのように錯覚しはじめる。ドラマや映画の登場人物の話しぶりは奇妙と言う他ないが、見慣れてくるうちに、自分の日常のそれとは一致しないまでも、「こういうものだ」と納得してしまう。「不自然」が「自然」に置き換わるわけである。
 もしも、仮に今すぐ自分がドラマに出演するとしたならば、どうだろうか。誰に頼まれるでもなくこの「ドラマらしい」話しぶりを演じてしまうことになるだろう、という諦念めいたものを私たちは感じるのではなかったか。なぜそうでなければならないかが問われる以前に、そうであることを理由にそうしてしまうという行為の苦々しい愚鈍さを噛み締めながらも、かといって必ずしも不自然を暴いたり拒絶したりすることにさしたる意義を見出すことができないまま、万一問いただしたりするような機会があっても「みんなそうしているだろう」という返答しかこないのではないかと疑心を抱えつつ、「不自然」を気軽な形で受諾する自分の姿というものが目に浮かぶのではないか。
 必ずしも年齢に相応しい能力を身につけているとは呼びがたい「大人」と呼ばれる人々が、幼い子供の発言や行為のあまりの突拍子もなさにしばしば驚かされる事実は、べつだん子供の奔放さや純真さを意味しているのではなく、むしろ私たちの常識的ないし日常的な「自然な」発言・動作といったものが、いかにある種の偏りへと向けられ、意味づけられた「不自然な」ものであるかを示している。事実、子供はとりたてて純朴ではなく、私が6歳の頃にしてみせたとおり、純真さと対極の各種の社会的適応を、人は物心がつく頃には既に開始しているのである。

 かつて女性が哲学をすることは「なかった」ように、語る主体は、語りたがる主体であり、語ることが許される主体に他ならない。語ることを禁じられた主体こそが真実を持っていて、それだからこそ禁止されている、という事態がある。表層に顕在化する意見とその反対意見のいずれかが、ではなくて、沈黙している意見こそが真実ということが実際にある。
 郵政民営化など別にどっちでもよい、という民意を代弁する政治家はどこにいるか。郵政民営化は「すべきか、すべきでないか」で判断しなければならないように感じ始める瞬間を、私たちは見逃してはならない。
 あらかじめ用意されたある種の空間、ある種の関係、ある種の文脈において、特定の「語り方」が要請されることがある。主張や意味づけまでも規定されることがある。だからこそ、不自然な言葉、それも時として無様な言葉が、平然とまかり通ることになる。不自然であることが即座に悪であることと照応するかどうかは置いておくにしても、私たちはひとまず、そうしたものから自由であってよろしかろう。

制度としての名言

「不自然さ」と無縁ではいられない言葉たちが、ドラマや映画において典型的に体現されるならば、一種の演劇めいた「セリフ」にこそ、不自然さが内在すると考えてみてもよい。日常生活の上で体感可能な「セリフ」とは、すなわち「名言」である。誰しも幾度となく聞いたはずだ。あんたのためを思って言ってるのよ、ライオンはウサギを追うときも全力なんだよ、といったような、あからさまに不自然で陳腐な言葉を。
 ここでは名言とは、
・執拗なまでに繰り返される定型的な言葉
・何がしか感動的なもの、心を動かすものとして機能するとされる言葉
・理由なくその真理性が成立するかのごとく流通している言葉
の要素を満たす言葉であるとしよう。

 名言の中には、真実を含むものと、真実を隠すものとが存在している。また、一つの名言が各種の状況によって本当だったり嘘だったりすることもある。最近では「ことわざ」など流行らないが、昔の名言はことわざという形でいわば名言目録に収められていたのであったが、それぞれ相矛盾する事実を表すものが数多くあったことを思い出すと良い。
 しかしながら、名言の大半が真実を隠すものであることは確認しておきたい。あえて真実を含むものと隠すものとの量的差異が生ずる理由を述べるならば、真実は真実であるというだけで支持されるために、通常は名言という形で厚化粧を施して流通させる必要がない、ということが挙げられよう。ニュートンの運動方程式F=maは「真実」であったがゆえに名言にならなかったように。
 名言は次のような効果を持つ。

・論証したり実証したりできないが納得させたい場合に、「皆が言っていること=妥当なこと」としてその主張を受け入れさせる効果
・名言を放つことによって、(主として道徳的な)感動や尊敬を誘う効果
・名言の話し手と聞き手との間に「教える者−教えられる者」という相対的関係を作り、指導力や権力関係を演出する効果
・事実を隠すために、ひとつの予定調和の世界を信じさせる効果

 援助交際をやめさせたい場合に、「親からもらった体を大切にしなければならない」といった名言が使われる状況を考えてみる。「体を大切にしなければならない」には、当然ながら何の根拠もないし、援助交際が「悪い」という理屈などおよそまっとうなリベラリストが使うものではないが、この名言はそうした理屈を飛び超えて作用する。それは、援助交際の主役たる者たちが既にこうした言葉のコミュニケーション、つまり「名言のやりとり=セリフのやりとり=演劇的コミュニケーション」をすることによる受益を、「自然な」ものとして体得しているからに他ならない。不完全な形ではあれ、6歳にして私がそれを半ば身につけていたように。
 わが子を援助交際から引き離そうと名言を放つ親は、何がしかの意味で道徳的ないし感動的な光に包まれ続けることとなろう。そして重要なことだが、名言は、仮にその内容がまったくのでたらめであったとしても、実際に「心に染みる」あるいは「心を入れ替える」者がいて、秩序を維持することに貢献することが少なくないという事実があることだ。
 名言、それを用いた演劇的なコミュニケーションは、秩序を維持するための一種の「制度的なもの」として機能する。

「制度的なもの」を前にして、4種類の人間がいると、いささか乱暴に分類してみよう。

 制度の正しさ信じる信じない
制度への順応   
できる(秩序を保つ) 
できない(秩序を乱す) 

表1:タイプ分類

ブスをいじめることについて (そのカテゴリの割合が高い主張の例)

良い子型実際にいじめない。そうすることが正しいと思っている(人を殺してはいけません)
落ちこぼれ型時に罪悪感を覚えつつも、その場の雰囲気でいじめたり、影口を言ったりする(地球環境を考え、エアコンの温度を高く設定しましょう)
冷静型実際にはいじめないが、そうすることが利益につながると考えているからである(国民の1票が世の中を動かします。選挙に参加しましょう)
カオス型いじめるし、反省もしない(人間はみな平等です。男女を平等に扱いましょう)

※Aが多い制度とは、必然的に、それによって各種の利益を享受できる人が多い制度である。
表2:タイプ別の例示

 以下、表の分類に沿って話を進める。
 演劇的コミュニケーションが成立する関係は、AとBとCとの間での関係である。AとBはそれが劇であることを認識せずに登場人物になりきり、時として感動を覚えながら、制度を受け容れてゆくことになろう。Cはそれを醒めた目で見ながら、AとBのやり取りに参加したりしなかったりするだろう。一方で、Dだけは演劇に参加できない。
 学校教育や社会教育が目的とするものは、不良を更正させるがごとくにBをAにすることであり、あわよくばDをAまたはCにすることである。例えばDであっても、「全ての制度を信じない」わけではなく、ある特定の名言が通用しないだけの可能性もあるために、あの手この手の名言を用いて説得し従順にしようとする。道徳的名言が、感動や連帯、それを信じることそのものの価値だけでなく「人間的な成長」といった別の餌を用意しているように。

 平成13年6月に起きた付属池田小学校乱入殺傷事件を思い出そう。宅間守元死刑囚(死刑執行時の姓は吉田だが、ここでは宅間と記す)が、当該事件名にもなっている付属池田小学校(優秀なエリート校である)に侵入し、児童8名を殺害、他にも教員を含め十数名に傷害を負わせた事件である。事件の内容も去ることながら、動機が「むしゃくしゃしていた」「エリートを殺したかった」並の「自分勝手な」ものだった上、裁判長や傍聴席の遺族に暴言を吐いたり、「殺して後悔は全くない」「反省していない」と表明するなど、各種の意味で衝撃的な事件であった。平成16年の9月に死刑が執行されるまで、謝罪の言葉は一切なかった。このような振舞いは、およそ通常演じられる「べき」演劇ではない。だが、ひとまず感傷的な物言いは避けよう。彼をかばったり擁護したりするつもりは全くないが、かといって私は彼を非難できるほど立派な人間でもない。
 彼はいわば、Dタイプの人間だったのである。彼の心境の全てをここに書くことは適切ではないが、彼は最初に、彼の実存における矛盾、すなわち貧富や能力の差の前に放り出される「人はみな平等です」といった特定の名言への反発から葛藤したのではあるまいか(煩悶するということはすなわち、Bであるということである。「自殺卑怯だからしてはならない」という言葉が抑圧する対象は、B以外ではあり得ない)。そして、反復される名言と現実との膨大な乖離=矛盾を目にするうちに、あるときふと、この制度的な「社会の欺瞞」を看取する。
 社会には欺瞞と呼ぶべきものがいくらでもあり、むしろない方が珍しいのだという――Cタイプが持つ――得心が前もって彼に用意されていなかったことが、彼をBからDへと突き落とすことになる。世界あるいは世間が自分に対して行う全ての制度的な振る舞い、Aになることを強要する振る舞いに対して、吐気にも似た嫌悪感を持っただろう。自分には受け入れ難い「嘘」を、周囲が平然と受け容れてしまう無様さを見てというだけではない。世の中にはAとBしかいないのだと無邪気に信ずる「先生」や「親」あるいはそれを報ずる「マスコミ」が、子供だましの名言でAになるようそそのかすとき、Dはしばしば侮辱されたように感じ、孤立し、悪意をもってそれらと対立するに至るのである。
 これは人間本質的な制度への反動であって、「異常」でも「病気」でもない(もちろんフーコーが示したとおり、こうした挙動を「異常」「病気」に仕立て上げるための制度が、監獄と精神病院なのだが)。

 マスコミは件の事件の際の宅間氏の挑発を「そのような発言が出ることは、信じられない」といった素振りで扱った。世の中にはAとBしかいないはずだという態度を改めて繰り返すことで、全体としての名言=制度の基盤が揺らぐことを防ごうとしたのである。人々に必要とされることになるだろう名言めいたもの、流行を偽造して流布することがマスコミの主要な「財源」となるからであるが、しかしここではマスコミについて細かくは触れないでおこう。
 いずれにしても言えることは、宅間氏が被害者を挑発してみせた気持ちを「理解できない」教育者や親がいるとすれば――遺族は、憤りのせいでそのようなことは考えられないのだと想定して除外するとしても――、愚昧と言うほかないということである。事件をめぐって繰り返された多数の「名言」がたった一つとして真実を語らなかっただろうことと独立に、宅間氏は「自分と同じ気持ちの人がやっと見つかった」といったファンレターをいくつも手にし、獄中で結婚した。
 世の中にDはいないこととして事態が進行しているにもかかわらず、劣悪な殺人鬼に届くファンレターという皮肉な形で、疎外され隠蔽されているDの存在が浮かび上がる。これに対して、制度側がとった策は気が遠くなるほど無防備で、相変わらずの「信じられない」の一点張りだったように記憶している。「犯人」の思考や感情を分析できずに、「再犯防止」などといったことが、一体いかにして可能なのだろうか。

 私たちの多くに今必要なことは、BがDに転落することを防ぐための新しい方法論を打ち立てることでもなければ、BやDをAにするための新しい名言を産み出すことでもない。そのような「社会的に必要なこと」を実践してみせることは、このつまらない名言=「制度」に加担し溺れることを意味する。かといって制度性の欺瞞を告発し、根底から壊そうと奮闘するのも滑稽である。強力な既存の制度に反発して脱-偏差値や脱-資本主義を唱える者たちが常に、予想通りの、様式美的なまでの凋落ぶりを演じるさまを振り返ると良い。そうではなく、演劇=名言という「制度的な」やりとりが存在することをよく把握し、その中において、いかにその基盤をずらして遊ぶことができるか、が問われなければならない。
 何度も何度も言われる「皆が言っている同じギャグ」に私たちが辟易とさせられるのと等しいセンスをもって、無情なまでに反復される退屈な「名言」の数々と向き合わなければならない。恐らくは、そのように立ち向かわなければ、何がしかの悲劇は必然的な過程を経て繰り返されることとなろう。

戯れの欠如としてのバス床への信仰

信じる

とある偏執的な親の場合

 社会的な不満や不安のはけ口がなくなった際には、往々にしてスケープゴートに仕立て上げられ、堕落が指摘され改革が求められてしまいがちな「教育」が、今日直面している厄介な問題について大上段から語るつもりはないのだが、あからさまに失敗に終わった私的教育というものが存在し、その結果がほとんど必然的に迎えられたとあれば、私がそれについて2、3語ることはできよう。

 とある専業主婦の、名言好きな母親がいて、息子に名言教育を施すとしよう。色々なことに挑戦しなさい、たくさんの経験を積むことが大事、といったことを繰り返す母親はといえば、なるほど滑稽なまでの唐突さで「お琴」を始めたり、あるいはパッチワークに手をだしたり、健康食品を大量に買い込んだりすることになる。一方の息子は興味の対象が狭いタイプで、ファミコンゲームに熱中してはそればかりに時間を割こうとする。とはいっても、必ずしも特定のゲームをしているかと言えばそうではなく、さまざまなゲームに挑戦し、色々なゲーム経験を積んでいると言えなくもないのだが、しかしそうした理屈とは無関係な態度で、この息子から、名言を武器にファミコンを奪い去ることはいとも簡単である。「ファミコンばかり」やっていては新しい挑戦ができず、たくさんの経験が積めない、という主張はなるほどファミコンゲームの奥ゆかしさを知らないか、知ることのできない者にとっては「当然の」理屈となる。
 ファミコンを一切禁じられた息子はしぶしぶ小説やマンガに手を出すだろう。もとより、母親が用意した「少年サッカーチームへの参加」だとか、「スイミングスクール」、あるいは「ピアノ教室」などといったものは、どれ一つとして少年の心をつかむことがなかったのだから。
 新しく開始される小説やマンガへの興味はどのように処理されるか。端的には、雑誌から毎月切り取って保管していた連載小説と、100巻まで集めた漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が、ある日突然、少年の本棚から消滅し処分されているという悲劇的な結末によって、唐突に幕を閉じることになる。熱中しすぎ、偏りすぎはよくない、という名言が念のために添えられた。その後少年がノートに数年かけてしたためた、子供らしい稚拙な「自作小説」の数々も、同じ運命を辿ることになる。

 では少年は何か新しいことに挑戦できるだろうか。残念ながら、小遣いが少なく、お年玉の大半も「あんたのためにとっておく」という名言と共に奪われ、永久に自由に使うことが許されないだろう少年に、何か特別なことができるわけではない。父親が所有していたパソコンに興味を持ち、お金を貯めてプログラミングの本を購入してプログラムを始め、かなり高度な知識を身につけつつあった中学生は、やはり「一つのことに没頭してたらダメになる」「広い視点を持て」という理由で、半永久的にパソコンに触れることを禁止されるわけだ。
 少年に許された「挑戦」「いろいろなこと」とは、例えば父親と行う退屈なテニスの真似事であったり、マラソンであったりといった、非常に狭い範囲のものにあらかじめ方向付けられており、母親が理解できない高度なものであってはならず、したがって母親が発する「選択を与える」かに見せる名言の恣意的な組み合わせは、結局のところ母親の選択を強要するためにしか機能できなかったのである。事実、将来講談社現代新書から著書を出版することになるその少年が、出版について両親に報告する段になったとしても、両親は喜ぶどころか、真っ先にそれに反対することになるだろう。

 気に入った名言を適宜選んできて、気が向いた対象にだけ適用することによる「真理の強要」ぶりは、それを受け取る側にしてみればとてつもない暴力性として立ち現れる。語ることが許される者、関係性において強い者だけが名言を放つことができるために、主張を無前提的に援用する名言は、権力の手段として機能せざるを得ない。そうでなければ、「お父さんは頑張っている、みんながんばっている」という名言で、週に7つもある習い事の合間の休みの日に、小学生に延々と草むしりなどさせたりはしまいし、そのような全体をも「これもあんたのため」という言葉で装飾することはなかろう。「みんながんばっているからといって、なぜボクまでもががんばる必要があるのか。がんばりたい人が勝手にがんばれば良いではないか」という、恐ろしいほど的確で真理をついた命題の出番が、そこには用意されていないのである。
 こうした現実を前にすれば、暇をもてあまし、お琴やパッチワークどころか、麻雀だのお茶会だのをしながら「お母さんはいろいろなことに挑戦している」と得意げに主張してくる「がんばっていない者」が、そういった作業をやれば良いのではないか、と子供心に反発するのも自然の道理である。
 そうはいっても、母親の卑しい暴力性に対して、子供が即座に反旗を翻し、それだけを理由に「ぐれる」とは限るまい。ある「論理的な思考をする」子供が、「矛盾」を感じるほどのことは、まだいささかも生じてはいまい。

 名言の暴力性が、一種のダブルバインド状況とともに、もっとも顕在化される瞬間は、道徳性も人間性も高くない者によって、それらが語られるときである。他人の心を思いやれ、優しさが大切だ、としきりに促すその母親が、例えば自分が楽しめないゲームや遊びを子供が楽しんでいるというだけで妬み、即座に禁止に向かうといった例を挙げるまでもなく、彼女が日常の数々の場面において醜く自分勝手な作法で子供から搾取を繰り返していたことはいまさら説明するまでもなかろうが、それがもっとも際立ったのは子供が大学に進学するときであっただろう。
 仕送りの送金手段を考えていた折、郵便貯金を使えば、通帳とカードを別々に所有して遠隔地に無料で送金できる、ということを知ったのだが、あいにく既に口座を持っていたため、送金専用の口座を作る必要に迫られた。郵便局の職員に聞くと、「ボランティア貯金」という別の口座を設ければ、複数の口座を持つことができるという。利子のうち一部がボランティアに使われるそうだ。それを聞いた母親の口から、平素から嫌になるほど「他人の役にたつことをしなさい」と言っていたあの口から、何の躊躇もなく、一瞬の間を置くこともなしに「そんなんやめなさい。無駄やん」という、およそこの世にある言葉のうちもっとも醜い言葉がこぼれ落ちてしまった時、子供は恐らく母親に対して殺意に近いとさえ言える感情を抱いたに違いない。
 名言によるあらゆる方向付けと教育が、全てはたった1円や2円の母親の利益のためだけに利用されていたということを確信させるに足る出来事として――もちろん同形式の事件は幾度となく反復されていたにせよ――、この体験は子供の心にあらゆる価値を転倒する必要を迫るものとなったのである。

 私と共にこの教育の犠牲となった姉と同様、私は今でも親と会話することが何よりも嫌いである。それは、あれだけ「偏ってはいけない」と言っていた両親が、結局偏った宗教に入信したからというわけではない。「常識を持て」と繰り返す彼らが、3日ほど電話に出ないだけで、警察を呼んだり大家に電話したりして、大騒ぎになり皆に迷惑をかけるからでもない。電話で話すや否や、未だに私に対して「名言」を語り続け、独りよがりな感動にまみれ、そのついでに「普通社会人になったら、親に感謝し、送金するもんだ」などと言ってくるからでもない。そうではなく、そのような名言=制度を好んで用いる以外に「教育」する方法――正しい世の中のありかたを正面から説くとか、あるいは頑張っている自分を見せることで子供の感動を誘うとか――を持たなかった親に対して、何かを語ることの一切が、すでにむなしいからである。
 従順で、温厚で、友達付き合いも比較的上手に育った「良い子」が、いかにしてあらゆる種類の名言教育から「冷めて」しまうかといえば、この種の矛盾とダブルバインドが彼の精神を苛むときである。これは、「落ちこぼれ」がカオスとしての純粋悪に変移する過程とも同じである。いずれの変化も、その名言教育システムの中では通常は不可逆であり、二度と同じ名言=制度は通用しなくなる。名言を既に完全に相対化した相手に向かって念仏のように名言を唱え続けることは、滑稽なだけでなく相手を苛立たせ、恨みを抱かせるようにしか機能しない。
 名言教育によって、被教育者をある種の方向に導こうとすることそれ自体に何か不適切な部分があるわけではない。一般に教育は、国力の増大だとか、弱者からの搾取構造の構築、といった制度的目標を持つがゆえに、「矛盾」めいたものを孕むほかないからだ。重要なのは、名言教育が破綻した際に「タネ明かし」できる知性があるかどうか、ということである。その教育が相互の生活の充実のために、不可欠とは言わないまでも妥当であったことを示しながら、もはや必ずしも有効とは限らなくなった「愛情」などの言葉の代わりに挿入されるしかるべき単語を用意できれば、名言教育の外部に立つ者との間に頼もしい共犯関係を結ぶことができるかもしれぬ。外部の存在を頑なに隠蔽し続ける教育が、教育であるからこそ必然的に内包する矛盾の露呈とともに瓦解するのは、大量の情報が提供される現代においては、一過性の風潮ではない。

名言とギャグ

(解説)名言とギャグ

センスの死

(解説)センスの死

現代的な病

(解説)現代的な病

  • 俺はどう考えてもカオス型だな・・・ -- あ 2006-07-29 (土) 11:43:42
  • いや、ただのバカだろ -- 2006-07-30 (日) 02:31:24
  • 何度も言わせるな俺に反応するお前等も相当馬鹿なんだよ(笑) -- あ 2006-07-30 (日) 05:57:40
  • ほんまにしょうもないわ -- あ 2006-07-30 (日) 05:58:08
  • 俺が居る事によってカスでも発言しやすくなっているようだな(笑) -- あ 2006-07-30 (日) 06:00:31
  • とつがこんなに捻くれた性格なのは親のせいか。本当ろくでもない親だな。 -- 2006-11-21 (火) 20:12:31
  • あの親にしてこの子あり?何ていうんだっけこういうの?トンビが豚を産む?ナスのつるにカボチャ?だっけ? -- j 2006-11-22 (水) 17:21:31
  • ドラ3に対し ゼンツッパの親にしてボウテン追っかけリーチの子あり -- チェリ 2006-11-22 (水) 19:28:11
  • この文章に示されているA,Bから何も類推することが出来ないのか。 -- b 2006-12-25 (月) 17:25:00
  • ここまで読んだよ 2009-10-17 (土) 16:37:38
    類推できたとしても、あえてそれを書かないというのも選択の一つ
    こうして「話題」は提供されていく
     
  • 仙人 2010-10-28 (木) 01:56:50
    自分はその親御さんも知らないし、その息子さんも会ったことすらないですし、自分なりには両者の気持ちを考えて感想書きます。細かい事情はわからないし、しょんべんくさいマジレスは、wikiにそぐわないでしょうが。

    その息子さんの本が出版され、その世界においては、息子さんはある程度の評価を受け、更に自分の道を進んでいると仮定して・・・。
    親御さんはその事を今どう思っているんでしょうか。
    苦々しく思っているのか、喜び「私の教育は正しかった」と小躍りしているのか、それともそのことすら知らないか。
    その辺がなんとなく興味持ちました。

    親御さんの「他人の役に立て」は、「あんたに取って(自分に取っても?)得になる人間に恩を売れ」「情けは人のためならず」という事だったのですかね。それ自体は、実に結構な思想だとは思いますが、ただでさえ親が憎たらしくなる思春期の時にそんなこと言われれば、綺麗ごとだったのかと落胆したくもなるでしょう。
    ところで、その息子さんは、「どっかの他人のために尽くせ」と言う考えと母親に対して、郵便局の出来事が起きるまではどう思っていたのでしょうか。
    本当にそう思ったこともある、心の優しい少年だったのか。
    バカらしいととっくに思いつつも、そんなお人よしな事を頑なに強いていた母がどこかで好きだったのか。
    それよりも前から、日常の様々な要因が積み重なり、母の人間性をとっくに見限りつつあり、その出来事がなかったとしても、いずれこうなる所まで来ていたのか。また、本当は母はそんな綺麗な考えなどもっていない人物だと言うことにとっくに予感していて、いずれ裏切られると予感していても、それでも信じていたのか。
    またその件も含めて、以後の様々なことでその息子さんを失望させるようなことをして今に至っても、息子さんはお母さんのことをまだどこかで好きなのか。
    息子さんがどう思っていたのか、文でいいので細かく本音聞いてみたいです。

    −−−−

    ただ、息子さんの親御さんに対する「こうあるべき」イメージも、筋が通って理屈としてそうあるべきだろうとは思いますが、それもその息子さんの手前勝手で一方的なんじゃないかとも思います。
    確かに「俺にもっともらしい事言ってそれかよ」と親の理不尽な行動に落胆することは、子どもの視点で、これ以外にも多々ありますが、「そういうものだ」と思うしかありません。
    親は子どもに取って欠陥だらけの存在です。理想通りにいくわけがないです。
    親御さんがそうあれと、どだい無理な事を押し付けるように、息子さんの方も親御さんにとって無理な姿を求めることで、気持ちがすれ違ったのだと思います。それが息子さんの出来た自己防衛だったのかもしれません。
    まあ息子さんも、きっとそんなことすべてとっくに承知なんでしょうが。
    そしてその上で今でも自らの嫌な記憶として、ひきずってしまっていると思います。
    この辺は理屈では絶対に片付かない問題です。
    どちらも根っこは頑固者なんじゃないでしょうか。その辺は親子で似たのでは。根拠はありません。

    その息子さんは、もし自分の子どもが出来たとしたら、どうするのでしょうね。自分なりの教育ビジョンをとっくに持っていて、その通りにするのか、まだそれを模索しているのか。はたまた子どもを作る気もないと思っているのか。ぜひ、子どもを持ち、その上で何を自らの糧とするか。子どもによって自らはどう成長するのかが興味あります。

    天性の物か環境の物か、両方か。その息子さんは、親が思う以上に頭が回り、常人よりずっと知能が高く、なんだかんだ押し付けられたことを反面教師としてでも、自分なりに何らかの形で経験として身につけ、自分の道を進んでいるんじゃないかなあと思っています。それによって親御さんの教育が正しかったと言えるかはまあ置いといて。
    ただ、その親御さんじゃなくて他の親だったら、ファミコンをひたすらやらせたり、二次創作にこったりして、本を出して名声を得るような人間にはならずに、平凡か果ては引きこもりかなんかになったんじゃないかなと思います。
    自分は何の根拠も持たずに物言ったり、言葉に説得力を持たせる知能も欠陥に近いくらい無い男ですが、今のその息子さんが、多分一番イケてる姿なのではと思います。
    もしかしたら、息子さんは割と理屈が多くて、敵の多い人になっているかもしれませんが、他人のために自己犠牲を強いる優しい心は、なんだかんだでどこかで持っているのではないかと思います。また、他人がどう思っているかということを考えることは、多分人一倍強いと思います。わかっても優しくするとは限りませんが。根拠は・・・ただなんとなくです。

    また、その息子さんが幼少のころからだけでなく、大人になってもそれだけ親御さんに対して思ってるってことは、失望しつつも、片隅では親御さんのことが、どこかでやっぱり好きなんだろうと思います。
    いずれ時が経てば、どちらかの気持ちの変化が起きるのではと思います。これも明確な根拠はないですが。もちろんならないかもしれませんけど。
    その息子さんにもし連絡ができるなら、そうお伝え願います。
    昨日からきもいマジレスすみません。
     

  • ぎわ 2014-07-09 (水) 20:07:00
    おもしろいです。
    なんとなくカミュの『異邦人』を思い出したというか、あの小説の主人公の態度を分析的に書くとこうなる気がしました。
     
  • やけ 2015-03-18 (水) 14:45:37
    自分の経緯: A→B(疲れた)→D(そうかしなくてもいいことだったんだ)→C(したほうがいいかな)→B(やっぱり信じたけど落ちこぼれ)
     

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Last-modified: 2015-03-18 (水) 14:45:37 (950d)