とつげき東北

※mixiのレスを抜粋・加筆

「強い者」への無策な攻撃が必然的にもたらす弱者の蹂躙という現象について

 一つ、「国」への批判といったものを考えよう。
 例えば、国民の代表たる国会議員の多くは、国会会期中、質問通告の締切時間を守らない。そのため「国会待機」が関係各府省庁関係各部局にかかり、しかも夜遅くになって質問が来るので、膨大な人件費と深夜業務、当たり前のように発生する「タクシー帰り」を生んでいる現状がある。それにしても国会議員は国家公務員に莫大なサービス残業があるなどと認めないし、国民の代表が「締め切り」時間を守らないために膨大な血税の無駄を生むことは問題にもしないし、そうですたしかにそれらは存在しないのですという「国の嘘」によって、何かが丸く収まることになる。
 一方でマスコミは、庁舎のロビーで昼間寝ているマスコミ同業者の姿を写真に収めて「国家公務員は勤務時間にもお昼寝」と堂々と記事にし、国民はそれを見て喜び、あるいはますます「国」を嫌悪するわけである。なお、マスコミの記事になるとこれもまた記事想定を作るという作業が生じ、非常にコストがかかる。新聞記事の一面で間違いがいくつあっても(実際にしょっちゅうあるが)誰も文句を言わないが、国の答弁に間違いがあったら大問題になるからである。

 しかしここで、残業代もろくに支払われずに時には徹夜で働く公務員としての私が、「国会議員」やら、あるいは「マスコミ」「世論」という巨大な嘘の装置を恨んでも仕方がない。それこそ駆け出しの記者たちは、多くの若い国家公務員と同様、自らの業務をこなし、少しでもよくしようとし、遅くまで働き、満足な給料ももらってはいまい。

「国」や「マスコミ」といった大きなモノを叩くつもりが、実際には「公務員の経費削減!」「定員のカット」「NHK不祥事」などといった形で1人1人の労働者を苦しめるだけの結果と嘘を生むのはなぜか。どこかに巨大な「悪の中心」があって、自分たちの組織が攻撃されても末端にしかしわ寄せがいかないように操作しているからだろうか? 「議員」とか「国」とか「マスコミ」とか「世論」といった、どれもあてにならないものの中で、特定の誰かが全てを操作して牛耳っているからだろうか? おそらく、事態はそう簡単なものではない(実際、サービス残業など1秒たりとてありませんといった「国の嘘」は、必ずしも一部の官僚や、ましてや普通の国家公務員の利権のためにつかれているのではないし、国会議員のためや国民のために言われるわけでもない)。

 ただわかることは、これらの成員の誰かが自分を「弱者」側とみなして「相手」を攻撃するとき、被害に遭うのは必ずまた相手側の「弱者」だということである。NHKが叩かれて誰が困ったかといえば、集金にまで駆りだされた、悪事とは何の関係もない普通の職員たちである。和田アキ子やみのもんたが、民意を代表するかのごとき態度で「紅白」の番組にイチャモンをつけても、困るのは末端の職員である(そしてそこに生じる弱者の蹂躙こそが、実は「民意」そのものなのだが――)。
 そのような攻撃の方法は、決して「強者」に届くことはない。複雑な過程の中で徐々に築き上げられた体制・制度・文化は、攻撃を受けたときにそれ自体が崩壊しないよう、自らの中に「弱い部分」を必然的に内包し、そうであるがゆえに自らの同一性を保ってこられたのであるし、その成員を守ることができたのである。それは誰かが特別にそうしたというよりは、自然な変化としてそのように組み立てられていくものだ。だから税率を引き上げれば国民の多くに負担がいくものの、それによって困窮するかもしれない真の生活弱者のことについては、「国民」の多くの目にも映らずにいる。テレビのインタビューに答えることもなく途方に暮れている人もいようが、一方で恥ずかしげもなく国への不満を噴出させている主婦もいる。
 この一連のあり方、実際に大量虐殺が今この地球上で行われていながら、呑気に「公務員批判」「JR批判」「社会批判」「政治批判」などをやっていられるある種の人間のあり方、自分側こそが弱者でありたいと願うしかたが、実際には「真の」弱者を生み出すのである。

「超大国アメリカ」への攻撃としてのテロルが、誰を不幸にするかといえば、「アメリカの国民」であるが、実際には単にたまたま当該の現場で暮らしていた「普通の人」なのである(その意味であの醜い、アメリカのイラクへの侵略戦争は、しかしまだしも「悪の中心部」を幻想としてでも捏造して攻撃したという意味でのみ、評価できる)。
 大きな組織や制度に対して、素朴に善悪の2色で「塗り分け」を行い、悪だとみなされた相手を「弱者の側から」安易に批判することは、まさに、「弱者」を痛めつけることによって「国家」とやらに攻撃を仕掛けているかに錯覚しているテロルに等しい。件の福知山線の事故のあとに、JR職員を殴りつける行為に等しい。
 私には、善悪という色塗りから始めて、善側(弱者側)から悪(強者)を嫌悪するという思考の方法自体が、弱者を必然的に生み出す一つの典型的な過程に思える。世の中の全体を一種の悪があると思い始めたら、事態はすでに終わっているのではないだろうか。

(続き)

 具体的な問題としては、ひとまず自分が暮らしていける立場にいるし、特に「改革」「改善」が不可欠であるとは認識していない。自分よりも圧倒的に恵まれた人が、自分を含め自分以下の人々から搾取しているからといって、その人をこき下ろさねばならないほど、あるいは世界に未だ餓死者が絶えないことを憂慮するほど、私の身辺で事態は逼迫していない。私は「アフリカの恵まれない子供たち」が助かるからといってエアコンをつけるかわりに寄付をしようとは別に思わないし、それが必ずしも「立派な行為」だとも感じない。
 ましてや、巨悪、というものがどこにどのような形で具体的に存在しているか、せめてどの部分をどうやって叩けば事態が好転するかをある程度でも把握することなしに「巨悪」を捏造して批判してみせるなどという(マスコミ的な)センスの悪いことはしたくない。仮に巨悪の中枢を攻撃する方法がみつけられるとして、危険をかえりみずにそこに突撃する気概も無粋さも持ってはいない。

 それはともかくとして、善悪という、とりたてて本質的でもない語の安易な使用が生み出す作用は、「真理」や「科学的」という概念が暴力の発動を正当化する際に果たす役割と似ている(陳腐な例だが、優生学がそうだ)。
 叩くべき悪の集団として「国」を選ぶのであれ「NHK」を選ぶのであれ、あるいは「ユダヤ人」、「アメリカ」を選ぶのであれ、いずれにしてもその被害者の中に「弱者」を大量に含んでいたという事実は同じである。そのような「弱者」の多くは、おそらく生まれつき悪だったわけではない。充分な教育を受けた上で自発的に悪の集団に所属したのでもなければ、教育の成果を正確かつ的確に行為に反映させる能力を持って生まれてきたのでもない。身の周りの状況を踏まえながら、単にそこに生きていただけの「罪のない人」であって、にもかかわらず何か正体不明の暴力によって蹂躙される、まさに「弱者」なのである。
 相手側を集団として憎む、という行為そのものが必然的に内包する圧倒的な暴力性から目をそらして「善」を振りかざして集団を叩く=悪の集団のうちしわ寄せがいきがちな弱者を叩くなら、善の定義が自家撞着していない限り、「善なる行為」ではなかろう。

 アメリカが「偉かった」のは、ナポレオン遠征→第一次世界大戦→第二次世界大戦 と進むうちに明らかに殲滅戦化・国力総力戦化しつつあった戦争の歴史の中で、仮にも「悪の中心」を比較的小規模な集団に定め、他に影響が及びにくいよう任務を遂行しようとしたからである。悪の集団の中にも弱者(偶然生まれ、生きた環境がたまたまその集団の中であって、「誤った善悪」を教え込まれた、生活に窮する青年)はいただろうし、アメリカのそうした選択は政治的な理由によるものに相違ないが、結果として「善による悪側への攻撃」すなわち大抵は結局のところ「悪と認定された集団の中の弱者への攻撃」に落ち着かざるを得ない暴力的措置の及ぶ範囲を、狭く限定し得たという意味において、「NHK批判」や「JR批判」のような「自由主義的・民主主義的で奔放なテロル」的手口よりはまだしも「慈愛の心に満ちた」手法だったからである。
※別にアメリカによる侵略がすばらしかったというわけではない。

 私は善悪といったものを、原理的な意味ではいささかも信じていないし、相対的にさえ「世の中を少しでもよくする」といった想いがどれほど独善的でしばしば世の中を良くしないか(息苦しくするだけか、新たな弱者を作り出すだけか)をよく認識しているが、ひとまずそれについては保留しよう。善悪を公正に峻別する機能がないままに、人々が勝手気侭に善悪を語ることの滑稽さについても触れないでおこう。
「弱者」とやらが、漠然とイメージする「強者」集団に対する反発をする上で、まず最初に「善悪で塗り分ける」選別から始めて、次に「悪を攻撃する」という一連のやり口を選択する際に、どのような勘違いをもって自分の「善性」が保たれ得ると――歴史的な反省を含めた上で――思えるのか、疑問に思ったのである。

 私が「弱者」の視点で語るのは簡単である。公務員もこれだけ苦労しているんだ、善意でこんなに頑張っているんだ、それなのにこんなに理不尽な批判をされるんだ、毎日タクシーを使わないように終電で帰っているんだ、来年から給料が5%もカットされるんだ、天下りもきっとできなくなるんだ(笑)、この先民営化されひょっとすると職を失いそうだ、と哀れみを誘う主張をすることは容易である――気が向いたならもっと悲惨な嘘の現状を織り交ぜることもできる。
 しかしそうした「自称弱者による分別のない反乱」そのものが、テロル的な意味においてしか、そして国力ある先進諸国における資本主義的ないし週刊誌的文脈においてしか流通し得ない、制度化された「弱者の遊戯」であることを私は知っている。
 弱者側にたったからといって、見境なく強者集団を叩くなどという破廉恥な行いはすべきではない。つまり、未だ私の心にもある種の「善」が残っているのである。

(解説)権力

  • '''' 2007-12-22 (土) 23:31:14
    足の引っ張り合いじゃぁ社会は悪くなる一方だわな
     
  • aj 2007-12-23 (日) 13:01:51
    戦争つながりで言うと「誤爆」が凸の言うことに近いように思う。

    北朝鮮を例に取ると、なんとかミサイルみたいな高品位の兵器でピンポイントに中枢を叩くのが理想ではあるよね。金○○様と愉快な仲間達だけにミサイルを当てられれば、カタルシスと実効性は一致してひとまず万々歳のような気がする(その後どうなるかはひとまず置いておけw)。一般国民も巻き込んだら、悔やむけど仕方ないと思うかもしれない。狙いが逸れてどこぞの村に当たったら、狙いは的確だっただけに悲劇だろう。でも「なんかマスゲーム見てたらキモくなってつい撃っちゃった」だけなのに、北朝鮮的なものを打破したぜって悦に浸ってる、て感じ。

    これは、攻撃によって得られるカタルシス(=善性の保持)と実効性が乖離してるという意味での誤爆で、また、システム批判をしてるつもりが実際はシステムの中で比較的容易に代替可能なもの(大抵は弱者、または今この瞬間から弱者とされるもの)を取り替えようとしているだけという意味での誤爆。その結果は、弱者を再生産するという逆噴射。そのような取り替えが望まれ、現実にそれが行われるのは弱者間である。これを弱者の遊戯と言う(?)。
     


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Last-modified: 2010-08-24 (火) 18:39:55 (3005d)