「選抜」に関する話題 (整理中)

(なるべく客観的に)「選抜されている」ということは、能力や性質の評価に重要な要因である。
例えば東大理系の学生は、入学試験において「数学の能力で選抜されている」から、世の中の平均人と比較して数学が非常によくできることが多い。
女優さんは「顔」で選抜されているから、みなきれいなのであるし、プロ野球選手は全国の高校野球部員があこがれ、その大半が挫折するから、選抜され洗練されているのである。
東大生が数学が得意なこと、女優の顔がきれいなこと、野球選手が野球が上手なこと、それらには誰も異論は唱えまい。
以上を基礎とした上で、その周辺の2つの議論を展開しよう。


学歴と選抜と一流大

私は学歴至上主義的な発言を何度かすることがあるのだけれども、この背景について述べよう。
「数学ができる人は理科もできるし、普通の人よりは国語や英語や社会もできる」
これは、極端な例を挙げない限り、真理である。
実際に、例えば入試で数学理科英語しか課していない大学でも、偏差値の高い大学であれば、入学者の国語や社会の実力は高い(ソースは、例えばここ)。

なぜ数学ができるのか?
数学の才能が異常に優れていたからだろうか?
残念ながら、100人のうち90人かそれ以上は、そうではない。
単に、勉強をよくするタイプであったり、飲み込みのいいタイプであったりするから、数学が得意なのである。
逆に言えば、数学ができない人は、勉強が苦手なタイプであったり、飲み込みが悪いタイプであったりするのだ。
だからこそ数学の「能力」は、他の教科の学習にも活かされるし、実際に例えば大学の入学者偏差値で見ても教科間の学力は見事に(異常なくらい)相関するのである。
もちろん個別に言えば、私は社会が苦手だとか、数学だけあまりできないという人もいるだろうが、全体の傾向はデータに現れている通りなのだ。
ここには、「選抜」の構造がある。

いわゆる一流大学に入っている人と、そうでない人の、何が違うのだろうか。

一つの可能性は、飲み込みの良さとか、勉強の才能といったものである。
私自身が非常に進学率の低い高校に通っていたため、これは痛感する部分がある。
毎日家で3時間も勉強しているのに、どうしても偏差値が45に到達しないような人(進研模試で)を何人も見た。
こういう人たちとは、会話なども成立しにくい。
馬鹿な話をして楽しむ分には問題ないのだが、いざマジメに話をしようとすると、同じことを何度も説明せねばならないし、一度説明したことをすぐ忘れるし、およそ論理といったものが通用しない。
必死で理解しようとしているのはわかるのだが、かわいそうなほど何事も理解できないのだ。
昨日教え、一見理解したかに見える問題の類題を今日出すと、もう全くわからない状態になっている。恐ろしい学習能力である。
家庭教師などをしていてもこれは痛感することで、まだ勉強などをあまりやっていないはずの小4くらいの段階でも、できる人とできない人は明確に分かれてきてしまう。
小学校1年の算数の授業で、毎回テストで1番にでき、1番の成績を取っていた人が「なんでみんなはゆっくりやってるんだろう? わざとなの?」と幼心に真剣に悩む経験は、よくある経験の一つである(と思う)。
このような「勉強への適性」において、向いていない人がいるのは明らかである。
一流大学に入ることに大した才能がいるとは思わないが、一流大学に入るのは絶望的な人が数多く存在することは、私の実感するところである。

もう一つの可能性は、努力量の差、我慢強さの差である。
極端に才能が優れていたりそうでない人を除いて、学習到達度の差を作るのは「勉強量」や「努力量」である。
この点については当たり前の話であって異論はないと思われるので、特に具体例を挙げないことにする。

以上から恐らく、一流大学に入る人の大半は、ある程度の才能があり、かなり勉強したか、またはかなり稀有な才能があってあまり勉強しなかったか、それともかなり稀有な才能があってしかも勉強もしたかのどれかであると言えよう。いずれにしても全国の同学年のうち上位1%〜2%に入るレベルに到達すれば良いのだ。
才能のみで上位1〜2%に入るような人はそうそうはいないので、大半はやはり「他人より勉強して」入ったと考えることができる。
入試で問われる知識は幅広く、いくら才能があっても何も知らないで簡単にホイホイ東大に入れるということは考えにくい。
「知識を吸収する才能」とか「努力する姿勢」で、しっかりと選抜がなされているのである。
(だからこそ、高校の勉強とは違う大学の勉強においても、一流大学ほどよりよく身につけるし、資格試験などでも結果が出せるのである)


では、例えば「麻雀」が入試科目・教育課程にあったら、どうだろうか?
おそらく、数学や理科ができ、あるいは国語や社会ができる人は(それらは前提よりほとんどの場合「同じ人物」である)、麻雀も得意になるであろう。
飲み込みの良さからしてもそうだし、「努力する姿勢」という意味でも、勉強ができる人は同じくらい力を注げば、麻雀もできるのである。
「数学や理科や国語や社会や英語は努力できなかったが、麻雀なら努力できるぜ!」というのは言い訳として苦しい。
それは今の社会だからそう言えるだけで、本気で一流大学生がみな麻雀に真剣に取り組み出したら、君は今よりずっと負けるようになるだろう。
もちろん、中には「数学だけが得意」な人がいるのと同様に「麻雀のみが得意」な人も現れるだろうが、それは「例外」であるし、数学または麻雀だけが得意だから一流大学に入れる人はごくまれである。

しかしなぜ、実際には麻雀ができる人は高学歴とは限らないのかと言えば、今示したような「麻雀によって選抜されるシステム」が存在しないことによる。
麻雀は入試科目・教育課程に存在しない。もちろん、できるからと言って大もうけできるわけでもない。
だから、「できる人」が必ずしも「麻雀も頑張る」わけではないのだ。
ちょうど、高学歴の人が「逆立ち能力」において世間一般より秀でているわけではないのと同じようなものである。
ただし、いざ本気で取り組むとなると、高学歴の人の方が実力の伸びが良いことは、経験的にわかるが(知り合いで超ラン常勝組になった人の少なくない人が、かなり高学歴である)。


さらに、入試科目に「筋力」があったら、どうか?
この場合は、麻雀と数学との関係よりもいっそう、使う能力が異なるため、相関は低くなるだろう。
しかしながら、「数学の能力」「暗記能力」などがある(と思われる)のと同様に「筋力が増える才能(つまり先天的な長所)」も想定されると同時に、「才能のみ」で一流大学に進学する例がまれなことからも、やはり大部分は「努力」が選抜の基準となり、したがって東大生はかなりマッチョになると考えられる。


上記をまとめると、
・「選抜」の存在や基準に応じて、結果的に選抜された人の能力が変化する
・一流大学生ということは「努力量」「知識吸収適性」の選抜基準に適合している人が多い
(だからおよそどんな知的作業においても、本気で取り組めば一流大生は世の中の平均と比較して抜群の成果を残すことが多い)
・ただし、努力せずに一流大学に入る人もいるし、そこそこにしか努力せずに一流大学に入る人はもっと多くいる


さて、「努力」という単語に着目してもう少し話を広げてみたい。
現代の若者、すなわち我々が高校までの間に、何を「努力」しただろうか? 入試以外で何か「選抜」されることがあっただろうか?
友達を作ること? 音楽をやった? クラブ活動を頑張った? 馬鹿か。
一流大に入るということは、同学年のうち上位1〜2%に入るということだ。厳しい選抜を受けるのである。
仮にそれが「ガリ勉」の結果でしかなかったとしても、結果としてその上位にいるわけだ。
学年のうち、友達が一番多い人間になれたか? 数あるバンドのうち上位2%に入る程度に認められたのか?
まさか、自称「人当たりが良い」「友達が多い」程度じゃあるまいな?
全力で取り組んでみたか? 毎日数時間かけたか? さぼらなかったか? 客観的な結果は? しっかりと「選抜」されたのだろうか?

「たかが一流大」だが、「努力」という意味で「勉強して結果を出す」ことを超えるほど客観的で甘えのない選抜というのも、なかなかないのだということを意識して欲しい。
確かにクラブ活動を頑張ったということはすばらしい。
しかし、主観で「自分は頑張った」という評価を下しているだけのレベルと、「勉強を頑張って一流大に入りました」というのは、全く違うレベルなのだ。
一流大に入った人のほとんども「自分は勉強を頑張った」と思っているだろうし、一流大に惜しくも入れなかった多くの人もそうだ。
下手すると、大したことのない大学に入った人の多くもそう感じていることだろう。
「頑張った」とかではなく、当然「頑張った」上で、客観的な「選抜」がそこにあること。
「頑張り」が甘えでなく、厳しい評価基準のもとに「確かに君は頑張ったよ」と認められるということ。
それが一流大生が一流大生たるゆえんである。

その結果として、一流大生は「努力量」「我慢強さ」が非常に高い傾向がある。
少々うまくいかないからと投げ出さず、飽きても飽きても勉強をして、我慢してきている。
勉強という嫌な作業を(そう、勉強ができる人も、ほとんどの人は勉強は嫌なのだ)ずっと繰り返した結果、身についた「我慢強さ」があるのではないだろうか。
リアル・ネット問わず、一流大の知り合いは押しなべて性格がやわらかい。
また、東大生の友達に聞いても「みんな性格が穏やか」と言う。
ちょっと他人から文句を言われたり批判された程度のことは簡単に「我慢」できるからではなかろうか。
少しくらい不満を覚えても、嫌な感情を押し付けてなんとかするという行動に慣れているからではなかろうか。
一流大生には、思想などが対立しても、「話が通じる」ヤツが非常に多いし、ちょっと嫌味などを言っても軽く受け流せるヤツが多い。
逆に、一般にはそうした人はごくまれにしか見ない。
(もっとも、これは一流大の私の知り合い30人程度での判断だから、必ずしも正しくはないかもしれないし、一流大でない人の中にも我慢強い人がたくさんいることは確かだ。率の問題である)

嫌なことに対処したり、我慢したりして相手のことを考える余裕。
「嫌だから嫌」と言って勉強をさぼらなかった勤勉さ。
「やりたいことをやる」などと言って逃げず、もくもくと努力して出した結果と経験。
そして、他人と同じだけやれば他人よりできる才能。
それらが一流大生の一般的傾向として見て取れるように思う。

例えば単純にファミコンゲームをやるとする。
かなり偏ったことを言えば、一流大の友達は、ゲームによくはまり、しかも上手にこなす傾向が強い。少なくとも、頑張った結果「おれにはムリです」と認める。
そうでない人の多くは、どれだけやっても上手にならなかったり、あるいは「そんなんやっても無駄」と最初から投げ出す。
特に、ゲームを分析し学習し攻略するといった作業が苦手で、いつまでたっても「ゲームそのもので死んだり死ななかったりを楽しむ」レベルを脱しないことが多い。
こういう人らは、例えば麻雀で、最も勝ちやすい戦略としてベタオリをしたり安上がりをすると「つまらない打ち方」などと考え、「自分は麻雀を楽しみたい」と言い出すタイプである。
努力し、結果をつかみとるという経験、自分ならつかみとれるという自信、それを達成したときの代え難い喜びを知っているかどうかということ、それらに大きな差があるように思えてならない。
(例えばゲームにおいては、目先の楽しさではなく、それを分析し理解し「高度に」プレイし極めるという楽しみ方自体を知らないのではないか)

こうした経験から、私はしばしば極端なほどに学歴偏重主義的発言をするのである。
「学歴とは人間性だ」などと。
(もちろん、そうした発言の大部分は黒いジョークであって本心ではないが、同時に、大勢としては本心からそうした傾向を信じているわけである、アメリカ人は背が高いというのと同じ程度の信頼度で)



選抜されていないものに関して

では選抜という単語を軸に、具体的な議論をしよう。

・一例としての、経験主義

経験主義というと幅広いが、ここでは「テストや思考や机上の論理より、経験が大事」だとする狭い意味での経験主義を指す。
例えば「子供を持ってみればわかる」「社会に出てもっと色々経験すればわかる」「実際に〜〜してみればわかる」という発言に集約されるものがこれである。
経験主義の特徴は「客観的な基準での選抜を無効にする」ことと、「経験という曖昧で自分勝手な基準で、選抜された気になっている」ことの2点にある。

まず第一に、客観的な基準での選抜を無効にする。
努力して一流大学に入ることや、知識を蓄えること、収入の多い職業につくこと、科学的な実験を通して結論を下すことなどは「経験」とは見なされない。
そんなことをしても無駄ですよ、いくら心理学を勉強しても人の気持ちはわかりませんよ、いくら実験しても実際の麻雀は違いますよと彼らは言う。
なぜそうなのかは言わない。
とにかく、彼らが経験できなかったあらゆる高度な物事は経験として無効にならなければならない。
もっとも高度な人類の経験則の集大成である「自然科学」は、決して経験とは見なされないのだ。

次に、「彼らの経験」が最高の選抜基準となる。
子供を作ってみて思ったことや、実際に人々と接して彼らが印象のみで感じてみたことや、麻雀をやってみて彼らが妄想したこと、彼らが単に長く生きていることなどが、彼らにとって唯一の価値とされる。
そして彼らはその点において「選抜されている」と感じる。
蒙昧な頭脳で自分だけが「わかっている側」に立てる基準を捏造して、それをやっていない人は全てダメと見なされる。
結局のところ、自分が体験し感じたことが全てであるというありがちな思い込みを正当化するわけである。
これが悪い方向にいくと「この宗教はすばらしい、机上の空論で批判するのではなく、実際に道場にきて体験してみろ」と言い出すようになる(残念ながら身近にこういう手合いが数人いる)。

彼らは、自分たちが相手より低いと思っていないばかりか、同等とさえ思っていない。
自分たちの基準で自分たちは選抜されていると思っている。
それを証拠に彼らは「やってみればわかる」などと、わかった側の発言をするし、相手がやっていて自分がやっていないあらゆる経験は無視するし、そればかりか、彼らがやってみた経験というのは、誰にでもその気になればできる低レベルな体験でしかない。
客観的に選抜されていない選抜基準というものが、いかに当人に甘く、他人に厳しくなりがちであるかの証拠である。

なお、うちの親は「あんたもヨーロッパ旅行してみなさい、世界が変わるから!」などと言っていて、しょうがなく私はヨーロッパ旅行をしたが、何のことはない、全てが完全に想像の範疇であったし世界は変わらなかった。誰にでもできる程度の経験で、普段から物事を深く考えている人の何かが変わるわけがない。変わるとすれば、それは普段から深く考えていないからであろう。
彼らは恐らく、普段の思想水準があまりにも低いため、何かを「経験」をするごとに、常に自分の想像を超えたものに出会ってしまい(想像力と思考力の欠如)、そのせいで「経験がだいじ」と思い込んでいるのである。
彼らには一生経験できないことだが、明晰な頭脳を持つという経験こそが大事だと思う。
以上は私が経験によって得た「かけがえのない体験」であるから、批判してはならない。そんなものは机上の空論だ( ´ー`)


・大衆の思想と思想の洗練

なぜ、大衆の思想があんなにも洗練されていないのかに疑問を持ったことはあるだろうか?
どうしてドラマで見たセリフや本に載っているセリフが垂れ流されるだけで、少しでも深くつっこむと途端に何もいえなくなるのかを?
その答えは既にこの文章の中で出ている。

「思想」は入試科目にない。また、社会一般で言われる程度に「善良な思想」を口にしておけば、生活に困らない。
どんなにクソくだらない思想を持っていても生きていける。
つまり思想は「選抜」される機会がないのだ。
確かに思想をマジメにやろうとすると、論理的な思考力や考察力、もちろん忍耐力が必要になってくる。
だから例えば、入試科目に「思想」があれば、東大生はいい成績をとるに違いないが、実際にはそうした選抜の構造が存在しないわけだ。

では、思想を洗練するにはどうしたら良いだろうか?
一つの方法は、プロの思想家(ある程度は選抜されていると思われる)の思想書を読むなどして、自分の思想にダメ出しすることだ。
思想の入門書などで、自分の考えが100年も前に乗り越えられた程度のものではないかを確認する。
しかし、さらにより確実で良い方法は、「論理」という選抜基準を作って、自分の中で自分の思いつきを厳しく選抜することだ。
普通の人は、何事かをふと考えたとき、その考えがある程度満足のいくものであれば即座に「こうだ」と信じ込む。
麻雀のツモが偏っているように感じて「東風はイカサマだ」と思えば、もうそれを信じる。
そうではなく、反例や反証、別の説明をたくさん自分でわざわざ用意し、また論理的に正しいかどうかを確認し、選抜するのである。
「確率の範疇内の偶然ではないか」「単なる印象ではないのか」というように、自分の直感を疑問視する。
そうして、可能であればデータを取ったり、より厳しい選抜基準、言い訳のできない選抜基準をもうけて、洗練してゆくのだ。

もしも論理という選抜基準がなければどうなるか?
単に、「説明不足で矛盾をはらんだ思想を持ちやすい」というだけではない。
「そう考えることが彼にとって気持ちいいだけの思想を持つことが多くなる」という最悪の事態に陥る。
選抜の必要がないなら、ただそう思いたいだけ、そう考えると気持ちいいだけの結論を恥ずかしくもなく積み重ねていくことになってしまう。
その結果が世の中の大部分の人間の、自分勝手で独りよがりな思想を生み出している。
宗教はダメだと言いながら自分の宗教(教条道徳)を大事にし、広い視点が大事と言いながら自分は変なオカルトグッズばかり買い、「君のためを思って」自分の薄い経験論を得意げに語り。
何も努力せずに身につけた気になれるモノ、選抜されていないのに選抜されたように見えるモノに、我々は気をつけなければならない。


・有名ラーメン店のうまさ

有名ラーメン店の大半は、大しておいしくない。
「ラーメンの味による選抜」が既に機能しておらず、マスコミが「とにかく色々なラーメン店を紹介すれば売れるから得(ついでに紹介料も得←)」という基準で店を選んだり、「ラーメンにかける意気込み、手間」などで選抜してしまっていると思われる。
実はおいしい店というのは、こだわりや手間をかけまくるものや、地元の有名店などより、全国チェーン店などに多い。
少なくとも「全国みんなにそこそこ売れる味が出せる」ことで選抜されている(もちろん、安さや手軽さなどがうけて広がっている場合もあるが)。
もし本当に真においしいなら、即全国にチェーンを出せば売れまくるはずではないか。それができないのは、単にやりたくないだけか、それともそんな実力がないかだ。
私は有名ラーメン店というのを50店くらいしか回ったことがないが、そのうちの一つは、スープがめちゃくちゃぬるく、出るのが遅く、その上これ以上にないほどまずくてちょっと食っただけで残してしまった。
なお、全国チェーン店「くるまやラーメン」を超える味の店は、50店のうち1つだけあったが、他のほとんどは足元にも及ばなかった。
というより、別に有名でもない街のうまいラーメン屋の方が、有名ラーメン店の9割よりうまい。
これは、「近所のうまいラーメン屋」は私によって「味で選抜されている」のに対して、有名ラーメン店は「味で選抜されていない」という構造による、当然の結果である。


・友達のレベル

友達も選抜された友達なのか、単に生活の中で縁があって出合っただけの友達なのかによって、能力が全然違ってくる。
私はこうした「知的な」ホームページを持っていて、しかもネット・日常分け隔てなく友達を作る。
だから、「知的な」趣味の合う友達ができる。能力的に選抜された友達ができる。
それに比べ、単に知り合った人と友達になるだけ(選抜の構造がない)では、頭のイイ友達など全くできない(なんと言っても世の中の大半の人間は愚かだから)。
私が日常ではあまり友達を作ろうとせず、ネットで気が合う友達を作ることが多いのはそのせいである。


・麻雀の実力

ついでに言えば、麻雀の実力にも同様のことが当てはまる。
麻雀は、実力がなかなか目に見える形、客観的に選抜可能な形で提示されにくいゲーム性を持つ。
私のようにデータを出し、そのデータの偏りかたを調べて、客観的な強さを計測して自分を高めようという作業をする人などほとんどいない。
正しく数値化すれば大して勝ててもいないのに印象のみで「自分は強い」と思ったり、読みが当たったかどうかまともに検証もせず「俺は読みができる」と信じてみたり、印象や観戦した感じなどのデータ以外のもので評価したりする。
強さ(長期結果)で選抜されていない「強さ」が語られる。だから、麻雀で強いと言われることと麻雀で強いことの乖離が生ずるのだ。
例えば東風荘で強い人は、たとえ点数計算ができなくても、ドラ表示牌をめくる位置がわからなくても、「麻雀の技術」は高い。が、そういう人は「強い」とは見なされない。
手さばきや目つきや、短期間での勝ち負けなど、強さとなんらかかわりのないことが「強さ」の評価対象になるという質の低い世界である。

麻雀プロは選抜されているだろうか?
されていない。麻雀においてさえ。
社会不適合者を集めてきて打っているだけ。しかも内部での昇格・降格も実力での選抜でなく運のみの選抜であるというお粗末さ。
だから、プロは全て「自称強い人」の域を出ることができず、数学や理科や国語などは苦手だったくせになぜか自称圧倒的に「読み」「観察力」「洞察力」の優れた人となってしまっている。
何ら厳しい選抜がなく、プロを信頼するどんな根拠もない。
その証拠が、研究水準の低さや講座の役立たなさにおいて明確に顕れるわけだ。
せめて学歴の高い人のみをプロにした方が、10倍も麻雀のうまい団体になるに違いない。
(なお、東風の「超ラン」は選抜された空間である。フリーでは小銭のやり取りという点を除いてほとんど「選抜」が働く要素がない。どちらが平均して優秀になりがちであるかは、以上に述べてきた通りである)



以上、「選抜」という単語を軸に論理を展開してきた。「競争」と言い換えても良いかもしれない。
注意すべきは、「得意科目」があるように、相関していても「特例」というものはたくさんあることである。
高学歴は穏やかな傾向があると言ったが、そうでない例外はたくさんいる。
それに、学歴とほとんど相関しない、「良いもの」もたくさんある。ルックスだとか、コミュニケーション能力だとか、根の明るさだとか。
あくまで以上は一つの仮説的な分析であることをよくご理解いただきたい。また、批判反論があれば言ってみてほしい。
ただし、「言ってることがむかつくから→自分の判断を言う」というような甘い方法でやるのはご勘弁を・・・。選抜され洗練された批判だけを待っている。