毒と笑いととつげき東北


〜〜過去の日記〜〜      
5)00/02/06〜01/03/01分 
4)00/12/30〜01/02/05分  
3)00/12/22〜00/12/29分  
2)00/12/14〜00/12/21分  
1)00/11/24〜00/12/13分  
 


01/05/03

科学との聖戦

いまだにコンピュータに対して「コンピュータは読みができない」とか「完全なランダムは作れない」などの発言を論拠に、「人間のあいまいさ」の優位を主張したり信じたりする人が多いのには驚く。
確かにある種の情報処理では、単一ノイマン型コンピュータの計算方式がほとんど無力だった時代があった。例えば画像認識とか音声認識、パターン分類などの対象がそうだ。猫の写真を見て「猫だ」と判断するアルゴリズムを組もうと考えると難しい。しかし人間なら5歳児でもこの作業を一瞬でやってのける。

ところがコンピュータの強さは、その演算能力のすばらしさだけでなく、それに携わる研究者・技術者が優秀であるということにある(笑)。ニューラルネットなど、新しい情報処理技術の発達によって、コンピュータはある種の「あいまいな情報処理」において、既に人間の能力を完全に超越している(例えば正確な筆跡鑑定など)。こうした領域は今後ますます広がり、あらゆる情報処理においてコンピュータが人間の全てを完全に上回る時が来ることだろう。

まあ、堅苦しい「歴史」的なことはともかくとして、よくあるコンピュータに対する迷信を解いておこうと思う。

迷信1:「コンピュータはブラフなどが使えない、決まり切った1打しか打てないから人間を超えられない」
全然違う。「ブラフ」などどんな方法ででも実現できる。プログラミング覚えたての中学生でもそれくらいできる。人間との唯一の違いは、コンピュータは「ブラフ」の成功・失敗の状況や様子を誤りなく今後の結果に活かせるという点である。
また「決まり切った1打」も違う。これも、ちょっと乱数を入れてやれば即座に「多様な打ち方」になる。コンピュータは、どのような乱数がどんな結果をもたらしやすいかの統計を取ることができる。

迷信2:「完全なランダムは作れない」
まず、シロウトが考える程度に「少ない」パターンしかないということはない。C言語の標準関数「rand」でさえ、2の32乗周期の数列を作ることができる。2の32乗個の数列を暗記できる人ならともかく、そうでない人にとっては「ランダム」と同じことだ。
また、システムを工夫すれば事実上完全なランダムも作れる。例えば、ランダム数列を複数系列用意して、その処理を行った時間(もちろん時計で測れる程度ではなく、CPU内部の高速なクロックを用いる)によってどの数列を取り出すかを変えてやれば良い。もっと簡単に、1つのランダム数列を順番に取り出すのではなく、他のランダム要素(これもクロックを用いればよい)で「間引いて」取り出せば、それだけで「2の32乗数列を暗記した」頑張りやさんはただのマニアックな人と化す。
ユーザから見て「システム外部」にある要素を用いればいくらでも「ユーザにとってのランダム」は得られるわけだ。コンピュータがネットに接続されているなら、ネットを流れるパケットの「ある部分のデータが偶数か奇数か」の情報をもとにを判断してやればそれだけで「完全なランダム」と言って良かろう。「ランダム発生ハードウェア」として、ある小箱の壁面にかかる圧力を精密に計測して、「下1ケタが偶数か奇数か」で乱数を取れば、これはサイコロを振るのとは比較にならないほど「完全にランダムな」機構となるだろう(サイコロの次の出目を完璧に予測できない程度の人にこの装置の生成するランダム数列を予測させることは、幼稚園児に大学の数学をやらせることに近い)。もっと完璧なものを求めるなら、不確定性原理に引っかかるほど精密にすれば良い(笑)。これはランダム要素を外部から調べた瞬間、その要素が変化するのだから、真に純粋な意味でランダムである。

迷信3:「コンピュータは<読み>ができない」
「読み」のできるジャンケンゲームは、おれが小学生の時に作った(前に日記に書いた)。
まあ、あれは最も単純な「読み」だが、要するに「コンピュータだから→読みができない」なんてのは、迷信も甚だしいというわけだ(笑)。

コンピュータは、普通に考えられているよりもずっと柔軟で、普通に考えられているよりもずっと高度な処理ができ、今後もイメージと能力の差がますます開いていくだろう。「アイボ」などは先進的なコンピュータ技術から見れば完全にただのオモチャである(ニューラルネットさえ使っていない 笑)。人間とコンピュータが、お互いに「考えて」対等に話し合える日は、そう遠くない。言うまでもなく、コンピュータが全ての知的ゲームにおいて人間を超越する日は、もっと近い。



01/05/02

「偽善者」など全然存在しない。なぜならば「善人」も存在しない故に。
いるのはただ、自らを「善人」と信じ、「悪人」というレッテルを貼った相手を排除しようとする権力集団だけだ。

「善」とは「霊魂」と同じく、典型的な大衆のオカルトである。麻雀に「流れ」が存在すると信ずる行為と同様に、「善」の存在を信ずる行為は嘲笑されるべきである。



01/05/01

善人は全てのたれ死ね もし天国と地獄とがあるなら、地獄は「善人」であふれかえる

「善い人間」になるための努力という点に限って言えば・・・彼らはこの上なく怠慢だったのではなかろうか?
ある「善い行動」が、時には他の人に迷惑になると考えられる時、それは「善い行動」なのか?
(例えば「R2荒らしはダメ、みんなで楽しめる東風荘を目指す」時、R2荒らしにとってそれは迷惑な話である)

そこで
「善いとは何か」について考察し、勉強し学習するのが「善い人間」になるための最低条件ではなかったか。
「善」を志向するなら、独りよがりの「善い行動」で満足したり、自分に都合の良いだけの感動的な本に共感したり、
少数者の「迷惑」を無視して自分たちの「迷惑」を押し通すことを「善行」だと錯覚したりするのではなくて、哲学や思想を学び、カント『道徳形而上学原論』程度は最低でも読み、真剣に「善い」について研究すべきであった。
そこで初めて、君たちは「善い行動」を目指すべきであったのだ。それくらいはしてから、「人間性が劣っている!」と他人を見下すべきだったのだ。「善人」たらんとすれば当然するべき努力を怠り、自分勝手な、周りの人に迎合しただけの「善意」を以て
「悪人」を差別し排除し蔑み見下す前に・・・。

しかしともかく、
全ての努力と研究と勉強と考察とを省略する過程において、あの忌まわしい「大衆的善人」が完成する!
自分の好みに合わせただけの、「不都合な力に抗う手段」としての、道具としての「徳」がまかり通ることになる。
「みんなが楽しめる東風荘」? 全然違う。それはお前たちだけのための、そしてお前のための東風荘だ。R2にして遊ぶユーザ以外の人のためのだ! 「人間として立派」
であることを希求する彼らが、なぜこうも自分勝手で独りよがりで無神経になれるのかが全く私には理解できないのだ。

R2を容認しているわけではない。おれはR1000以下は登録抹消して欲しいと願っている。
ただ、その根拠が「みんなが楽しむため」だと? 「他人の迷惑になる」だと?
ふざけるな。なぜ嘘をつくのだ? なぜ相手(R2で遊びたい人)の迷惑は無視するのだ? なぜ「善人」はいつもそうなのだ・・・。


もし彼らがまじめに「善」について研究してさえいれば、彼らが少しでも私のような根気と気質を備えてさえいれば、「善」という概念、歴史、それについての思想を学んでいれば、決して「善」などという大衆的オカルトに引っかかることはなかったろうに。少しでも現代思想を勉強していれば。要するに善であるか否かの問題は、単純に頭が悪いかどうかの問題に還元せられる。
「善についての勉強や研究は面倒くさい。でも善は大事だ、思いやりは大事だ」──自分の手の届く範囲だけを最高のものとする者ども。少しマジメに「善」という概念について語らせると、途端に何も言えなくなり、「理屈じゃない」と自分の蒙昧な信仰、愚鈍な気質をさらけ出す自称「善人」ども。大馬鹿。無神経な差別主義者。キャベツ頭ども。
恐ろしいことに、彼らは「何が善か」「善とは何か」さえ明確にわからないまま、他人に「思いやりある行動」を強要し、自分は「悪人」よりも「人間性が上」だと確信しているのだ。
なぜ? その傲慢な過信はどこから生ずるのか? そしてなぜか「自分たちの方が人間性が上」と思いこんだ彼らは、今度はどんな能力の差より、「人間性」を重視し始めるのだ・・・。こんな自分勝手な人間は「善人」以外にいない。そこで起こった価値転換は、彼らが・・・あろうことか、彼らがいつのまにか(ほんのちょっと我々が目を離しているスキに)──どんな努力も能力も才能も理屈も根拠も結果もなしに──最上に立ったということだ! 彼らが得たものは「我々は〜〜より人間性において優れている」という空虚な優越感と無根拠な信仰と自己満足であった。おめでとう。



それにしてもなぜ──なぜ「善人」たちは不自然に思わなかったのだ?
力強い人が「人格的」と表現される時、勝者が徳を以て断罪されるとき、その内容が全て「負け犬に優しい」システムになっていることに・・・?

「勉強ができても鼻に掛けない人は立派」
「傲慢でない人(自分の強さを露骨に見せ、劣等感を煽らない人)は良いね」
「弱者のために力を尽くす人ってほんとうにすばらしい」
「金儲けばかりする人は(心がない人は)やっぱりダメ」

おかしいやん。なんでやねん。
「徳」という概念、「人間性」という概念の発明によって、誰が甘い汁を吸えるのかの問題。
従って・・・誰がこのような概念をでっちあげたのか? 
ムノウ どういう人間が喜んでこの概念を信じるか? マケイヌ
どういう人間がこの矛盾だらけの概念を悪用し、どういう人間がそれによって中傷され叩かれるのかの問題。

銀行の粗品レベルの「人間性」を競い合うめでたい者どもに乾杯。

「生きる価値のない」善人どもにチャンスをくれてやろう。おれのツメアカを飲ませてやろう。黒とつを読みなさい。



01/04/29

「苛立ち」という古い理想主義 この世で最も恥ずかしい主義、即ち理想主義によせて

なぜ苛立つのか? そこには理想があるからだ。

不公平に対して彼らは苛立つだろう。なぜならば「公平であることは当然の権利である」と彼らが信じる故に。

傲慢な人間に対して彼らは苛立つだろう。なぜなら謙虚たることが「人間のあるべき姿」に他ならないと彼らが信じる故に。

常識はずれの「黒いギャグ」に彼らは苛立つだろう。
・・・しかしなぜ?
ギャグは笑いの対象ではなかったか・・・?
彼らはなぜ笑えないのか・・・?

そこに理想があったからだ。
不徳な発言をしないことが、彼らにとっての「あるべき行動」であり、彼らにとっての「徳」であり、彼らにとっての理想であったのだ! にもかかわらず、彼らの望む世界、望む「徳のある人間」が、そこにはいなかった。
彼が彼の命令を、要請を以て相手を服従させ得るほどには、彼の権力は発達していなかったのだ・・・。
現状に満足していれば、どうして苛立つことがあろうか?
彼の苛立ちは、ただ、彼の無力さだけを示している。

自分の理想が達せられないことに対して苛立つ、これは全く自分勝手なことだ。分をわきまえて謙虚になると良い。
自分が置かれた状況を自分が不服に感ずるなら、状況を打破すれば良いのだ。状況を打破するかわりに苛立つ? 何様やねんおまえは(笑)。

以前に日記に記述したような、「差異の感覚」が極限まで薄れた慢心しきったお坊ちゃんたち。
自分の理想が達成されないとイヤだとだだをこねる無能。自分で何とかしろや(笑)。

だからもっとおれに不満を持ちなさい。
「理想的な人間」と「とつげき東北」との距離を、君の手にしたその見窄らしい物差しで測り続けなさい。
おれは一人、勝手に進むから。でもほら、君も前に進まなければ、君との距離が離れてしまうよ。
ところで気付いているか。おれは君の想定する「理想的な人間」になど近づこうとしていないということに。
おれは徳など求めてはいない。おれは人格者になどなりたくはない。おれは正直者になろうとは思わない。
誰になりたいか? おれはおれのままがいい。


理想を放棄したところに、笑いはある。
全ての状況を楽しみ、全ての発言を笑い・・・発言が全てパフォーマンスに転化する時が来る。
暗いニュースにも、悲惨な事件にも、黒い発言にも、成功者の傲慢な態度にも、一片の深刻ささえなくなる時がくる。
その状態に達してやっと、君は19世紀を脱するだろう。
理想を鉄槌で破壊し、徳というオカルトを放棄し、感動を笑い飛ばし・・・ついに君の頭は回転運動を始めるだろう。



01/04/24

古き良き我々の価値 コミュニケーションの形態の変化

「古き良き我々の価値を守る」ことは、常に時代遅れである。
古いものを「価値あるもの」と見なすこと自体が、新しいものを吸収するセンスの欠如を意味する。
「電子メールでは心の交流ができない」とオッサンがわめきちらす中、どれだけ楽しいメールをおれはやりとりしただろう!
古い常識に振り回されている連中の中で、どれだけ「非常識な」、しかし楽しいことをおれはしてきただろう!
毎日毎日楽しくて楽しくてしょうがないよ(笑)。

「ネットではいきっているが、現実では面と向かって何も言えないんだろう」
この発言について、おれは今までププッと笑い飛ばして来たのだが、今一度考え直してみた。
確かにおれは「現実」ではネットよりも少しばかり温厚だよ(笑)。誰にでも毒を吐くというわけじゃない。
もちろん、普通の人より100倍くらい毒舌だし、面と向かって毒を吐く確率も高いけども(笑)。

しかし、「ネットではいきっているが、現実では面と向かって何も言えないんだろう」という発言は、根本的に違うのだ。
いや、「ネットというそこにある事実」から逃げて「現実」という別の基準にすり替えるダサさの問題ではない。
それはもう何度も言った。
そうではなく、ネットと現実は、コミュニケーションの形態がそもそも異なるのだ。

コミュニケーションの形態というのは、時代によってどんどん変化するものだ。
例えば、「見知らぬ人に馴れ馴れしく話しかける」という行為について。
一昔前なら考えられなかったことだ。非常識すぎた。ところが今はどうか。
「ナンパ」しかり、「メル友」しかり。見知らぬ人と接することも、一つのごく平凡なコミュニケーションとなっている。
コミュニケーションの形態と、それを支える常識が変化している。
ここで「非常識だ!」と言い出すのが、変化に付いていけない、「メールでは心の交流ができない」と言ってしまうタイプの人である。常識が変化したなら、「ナンパ」とか「メル友」を実際にやってみる方が100倍も楽しい。ついてこれないのは、常にただのダサい人らだけである。

同様にして、「ネット」においては、「匿名性」とか「社会的地位に拘束されないこと」が、コミュニケーションの新天地を切り開いたとおれは考えている。
「普段なら絶対に言えない正論」を堂々と言えるということ、しがらみに囚われずに自分の意見を出せること、それから、やや低俗だとしても「普段できない暴言でのケンカごっこ」を楽しめること。
こんなにも素晴らしい表現(コミュニケーション)の場がかつてあっただろうか!
個人の(それこそカスすぎてこれまでは発表の機会が決して与えられなかったような)思想までもが、今や誰でもすぐに世界に向けて発信できる。もちろん、それに対する反対意見もだ。素晴らしいことだ。あらゆる知的刺激が、そこらに転がっているではないか・・・(例えばとつげき東北のHPを見よ! 笑)。

ネットという新しいコミュニケーションの場において、「現実」では守られるべき様々なしがらみを持ち込んで、思想や発言の自由を規制することは全く愚かなことである。新しい知の展開を、なぜむざむざと消し去る必要があろうか?
おれが「現実で言うところの」常識的な行動をネット上でもしていたとしたら、こんな面白いHPができただろうか?
今一度確認すべきは「バカはバカな故に笑えない」という事実である。
バカだから「ネットと現実の区別」がつかず、現実もネットも同じように行動しなければいけないと妄信している。ネットでだけできる面白いこと、現実でだけできる面白いことが、たくさんあるというのに!

「ネットではいきっているが、現実では面と向かって何も言えないんだろう」
について、おれは今、改めて次のように言おう。
「ネットと現実は、コミュニケーションの形態が異なる。従って、ネットではネット特有のコミュニケーション技術を身に付けること。現実では、現実特有のコミュニケーション技術を磨くこと。ところで君は、ネットでのコミュニケーションにおいてドヘタに違いない」、と。


ところで、それだからおれは東風荘の待合室や「2ちゃんねる」において、暴言や中傷があっても、それを規制するなと言うのだ。
それも一つの、新しいコミュニケーション形態であるし、そこから生まれる知的刺激だってある(単純に、エンターテイメントとして見ていて楽しいし)。
「東風の待合いの非常識な発言をやめて下さい」というのは、もうダメだ。時代の変化についていけないイケてないオッサン。せいぜい手書きの文章で心の交流でもしてて下さいヽ( ´ー`)ノ



01/04/10

新キャラの効能

自分の本当の実力を見られないようにする最も簡単な方法が、「新キャラ」を作ることである。
例えばあるキャラでR2000に到達したとする。しかし、試合数が増えるにつれて、本来の実力のRに近づいてしまう。
(新キャラを作ると、平均的には自分の実力より100以上高いRを出すことができる。実力は、新キャラのRの最高値よりも100以上低いことが普通である)
彼は恐らく、打ち続けていれば、1800〜1950くらいをうろちょろする水準だ。
彼は、彼の矜持のための2通りの選択肢「良い結果を出して他人に見せる」「結果を他人に見せない」のうち、後者を選んだ・・・。
1つのキャラで打ち続けて何度も2000に到達する人とは違って、彼は新キャラでだけ、何度も2000に到達することができる。
この両者の実力差は、きっと一般で思われている以上に大きいのだ。
ずっと打ち続けて何度も2000に到達できる人は、新キャラをいくつか作れば、2200にさえさほど難なく到達できるだろう。しかもほとんど毎回、2100を超えることができるはずだ。
それに対して、何度も新キャラを作って、ギリギリで何度も2000に辿り着いている程度の人の実力は、1900もない(適当に言ってるんじゃないよ〜データ出てます)。
しかし仲間内では「どのキャラも2000に到達している」ということで、実力2000だと錯覚を与えることができるだろう。

なぜこのような醜いことをするのかという問題。
なぜ、「強くなって結果を残そう!」と考えることができず、「強い自分」を嘘で塗り固めてまでアピールするのか・・・。
結果を残し慣れていないのであろう。
「頑張って結果を残そう!」と考えて、何度も何度も失敗し続けてきたに違いない。
そして、彼の能力では、「良い結果を出して他人に見せる」よう頑張るより、「結果を他人に見せない」ことのうちに彼の小さなプライドを保つための全てが含まれてしまっているに違いない・・・。

「新キャラ」を作ることのうちに、彼の残念な生き方の縮図が見て取れるであろう。



01/03/25

雑魚の生き様 「善人たちはすべて弱い。悪人たりうるほど強くないゆえに、彼らは善人なのである」

あらゆる闘争における
敗北が、彼らを必然的にその場所へと導いていくことになるだろう。
私はあらかじめそれを予見していた(12/06の日記において)のだが、全くその通りのことが起こった。
「とつげきは実は麻雀弱い」という指摘の失敗が、「学歴が最高ではない」という嘲笑に隠された卑屈さが、「大したことない」という大上段根拠なし発言に伴うけだるさが・・・彼らにまず、「とつげき批判」の方向性を「人間性」に向けさせたのである。

「とつげきは2ちゃんで削除されたコンテンツをHPに載せた」「とつげきは根拠なく人を多重呼ばわりした」というのが、彼らが具体的に提示できる最高の「とつげき低人間性説」の根拠であった。
しかしながら、それらはいずれも彼らお得意の早とちりであった。彼らの「とつげきは悪いことをした」という指摘は完全にデタラメでしかなかった。とつげきの人間性が低い根拠は何もなく、彼らが私のことを気にくわないという衝動だけがあふれ出てしまっていたのである・・・。残念なことに、彼らは私によってその事実を無惨にも暴露され、彼らの人間性の劣悪さだけが論理的に詳述されてしまう結果となった。
彼らがすがることのできる唯一のもの、無能が手にする唯一の(幻想の)価値、即ち「人間性」という聖域においてさえ、彼らの「聖戦」は敗北と失意のうちに終わりを迎えざるを得なかったのである。

さあ最後にすがるべきは何だろう?
そうだ。「常識」だよ。
能力で勝てないあらゆる対象を、彼らは「道徳」「常識」で断罪しようと試みる。このことは私が何度も日記に書いてきた通りであり、彼らがそのように行動する構造についても既に分析されている(これらは、官僚やお金持ちは傲慢、科学者は非常識だ、などの幻想につながっている)。

私に「常識がない」ことが彼らの心をなぜあんなにも満足させ、安心させ、良い眠りにつかせるのか考えてみたまえ。
常識についての議論は「黒とつ」で詳述している故に既に彼らの指摘の根底から無意味であるということ、仮にそうでないとして、恐らく彼らが持つ「非常識なあまり、社会に出てやっていけないとつげき東北」など──彼らの空想世界を別とすれば──どこにも存在しないということは、敢えてここでは忘れられるべきことである(というか、そんな人物って犯罪者以外でいるのか?)。

従って敢えて私はこう言ってあげよう。
「とつげきは非常識だ」と。
麻雀や議論や人気などの勝負の結果は置いておいて、「常識」では負けてあげよう(むろん、何が常識であるかについての「知識」の領域では負けない。私は常識を知っている。当然、やろうと思えば常識的に行動できるし、日常生活においてはそうしてきた。単にネット上ではそれにしばられて表現を貧困にしたくないというだけだ)。


私たちの勝ちなのだ! 我々はとつげきに勝利した!
さあ、とつげきは非常識だ! 非常識だ! やったぞ!

さあ、憎きとつげき東北はどんな損害を被るだろう?
まさか、
「評価しただけで終わり」には・・・なるまい! そんなことは信じない!
とつげきは非常識だから、シスマメンツはシスマをやめるだろうか? きっとやめるさ!。
とつげきは非常識だから、麻雀で負けるだろうか? きっと負けるさ!
とつげきは非常識だから、HPのカウンタは止まるのだろうか? きっと止まるさ!
とつげきは非常識だから、プログラミングができないだろうか? きっとできないさ!
とつげきは非常識だから、「とつさんのファンです」と言う女性がいなくなるだろうか? きっといなくなるさ!
とつげきは非常識だから、友達も彼女もいないだろうか? きっといないさ!
とつげきは非常識だから、社会に出て通用しないだろうか? きっとそうさ! ネットと現実の区別なんてできないさ!

・・・。
・・・。
そうでなければ、我々は余りにもむくわれないじゃないか・・・そんなことがあってはならない! 我々はむくわれるべきだ! 我々は「善」だからだ!

(にわかに浮かび上がる不安を振り払って)

とつげきは非常識なのだ! 非常識なのだ! それだけで充分じゃないか!
とつげきを攻撃できるぞ! とつげきは非常識なのだ! 我々の勝利だ──!

論破されてしまったけれど、根拠は出せないけど、我々の方が人間性が上なのだ! 私が上なのだ!
とつげきは
人を見下していて傲慢だ! とつげきは上であってはならない!
麻雀や頭ではなく、この基準でだけ評価してくれ! そして
私を「上」にしなければ!
どんな「能力」も認めないようにしよう! 
私が上になれる基準だけを認めるようにしよう!
人間性だ! 常識だ!

(能力で勝負? とんでもない!!
そんなことをし始めたら、私が生き残れないではないか!
私が生き残るためには、「善悪」の基準を力に変えなければ!
私に不都合な行動に「悪」というレッテルを貼り、同じく力弱い者どもで「悪だ、悪だ」と賛同しあい、なんとか強い者の行動に制限をかけなければ!
「金があっても心がなければ悪」としよう。そうすれば、金がある者が我々に不利なことをしにくくなるはずだ。
「心があっても金がなければ悪」とは決して言わないようにしよう。そうしなければ、我々が勝てる基準がなくなるではないか!
これはいい!
「勉強ができても・・・」「能力があっても・・・」
我々は「人間性」と「常識」を持ち出せばいつでも上に立てる! 
私が「上」なのだ・・・。


ねえ、傲慢って意味知ってる?
あと、頭を使おう。

北斗の拳に出てくるモヒカン男並の者どもに捧ぐ。



01/03/16

天然志向バカ死ね

おかんの話である。
おかんは天然素材志向である。
だいたい、科学技術にルサンチマン丸出しの大衆というのは、「有機野菜」だの「天然の恵み」だのといった言葉に超弱いものだ。
うちのおかんの料理がまずいことは以前に日記で書いたが、その原因の一つは「天然素材」を使いたがるからである。
美味しいものではなく、「身体によい」とされているものを買ってくるわけだ(もちろん、そのほとんどはただのオカルトであって、実際に身体に良い影響があるものなどほとんどないだろう)。

塩も、普通のNaClではダメらしい。
「自然のミネラルを含んだ天然塩」である。
ある日、おかんがその塩を手に入れ、喜び勇んで家に帰ってきた。
「とつ、とつ! これ見てみ。天然の塩」
うるさいわババア。はよ死ね。
「これな、天然やから美味しいねん。今からおにぎり作るから食べてみ」
そういって、おかんは2つのおにぎりを作った。
片方は、ただの塩。片方は、天然塩で作ったらしい。
「食べ比べてみ」

オレが2つのおにぎりを食べるのを、
超うれしそうに見ている。
ババアの笑顔は醜悪である。

そして「どっちが美味しかった?」とこれまた嬉しそうに聞いてくるわけだ。
オレは正直に、美味しいと思った方を言った。
「こっちのやつがおいしかった」
「えっ!?」ババア、狼狽している。
どうやらおれは、普通の塩の方を美味しいと言ってしまったようだ。
「そっちのおにぎりの方が・・・何?」
おいおい! そっちの方がおいしいって言うたで! 自分に不都合な結果やからって認識をゆがめようとしてるよこの人!
これだから大衆は醜い。
「こっちの方が美味しかった」
おれは怒りを抑えつつ冷静に返答する。
おかん曰く、
「それは・・・あんた・・・舌がもう、化学調味料で毒されておかしなっとんねん」
うるさいわ! お前の舌抜くぞ!
仮にそうやとしても、それならそれで美味しいねんからええやろが(笑)。

おかんの料理がまずい理由がわかった。
おかんの舌、天然調味料に毒されてるからや。



01/03/15

思想弾圧とギャグの弾圧 原始的信仰としての「タブー」

東風荘の待合室のチャットを見ていると、本当に発言がめちゃくちゃでおもろいな(笑)

○○>バファリンの半分は憎しみでできています
△△>産経新聞? 朝日に入れなかったダメ社員たちの作る新聞かね.
■■>おーーーーーーーーーーーーい

この過剰さ、自由さは、他のどんな場所でも得られないものだ。
日常生活で、こうした自由な表現をすることは難しいし、ネット上の普通の掲示板でもなかなかないだろう。
強いて言えば2ちゃんねるの過剰さはこれに近いものがあるが、例えば2ちゃんねるの麻雀板では「東風荘の個人叩き禁止」という制約があってちょっと残念である。

発言が自由にできる場所がある、ということは、普通の人が思っている以上に、ずっと素晴らしいことだ。
少しでも未開の、前近代的な、不自由な社会であれば、様々な発言が「タブー」とされ、数多くの思想が禁止され、罰せられた。
戦時中の日本なら反戦思想は論外だったし、戦後でもしばらくは天皇問題はタブーだったし、要するに社会が「タブー」をたくさん規定しなければならないということは、社会が未だ未成熟であることを示すわけだ(ここらへんは思想を勉強して下さい)。

社会の成熟=社会の自由化に伴い、変化についていけない世の愚昧たちは「自分の理解を超えた過剰なもの」に対する不安を隠しきれなくなる。
オヤジが「電子メールでは心のふれあいができない」と声高に言ってしまうのと同様に、「エロ本をコンビニに置くのを規制すべきだ」といった頭の悪い発言が平然とまかり通るのと同様に、「掲示板だからといって何を書いてもいいわけではない」「自由だからこそ、責任を持った発言が必要」だのと言って、自分たちの嫌いな発言や行動を「タブー」にしようとする動きが生じ始めるのである。
ぜんぜん違う。全くわかってない。

全ての発言を容認すること、大量の無道徳が可能であることが、素晴らしいことなのだ。
最初からそれらを規制してしまったら、思想は全て死んでしまう。生の過剰は死んでしまう。
ロリコンである、オタクである、SMマニアである、鉄道マニアである・・・そうした「生きていくために必要ではないが、本人にとっては時にとてつもなく重要なもの」を全て解放してやること。人間の無意識の過剰を容認することが、ぜひとも重要なのだ。
オタクはダメ、「変態」はダメ、エロはダメ・・・と規制して「あるべき社会」を理想に掲げるのは19世紀以前のバカげた神話である。
掲示板や待合いでの発言も同じこと。
「うざい」発言を禁止しようとするな。他人への中傷はダメとか言うな。
それらがあり、それらに反対する発言があり、清濁あわせたものが初めて「面白い」のだよ。
「こんにちは」「今日の調子はどうですか」「役満あがりました」なんて発言しかできない待合いに、何の魅力がある?

2ちゃんの麻雀板でも、面白いスレッドは「とつげき個人叩き」とか「多重疑惑」のスレッドだよ。
麻雀の戦術を語るのもまあ、面白いけど、それはどこでもできる。
他ではなかなかできない「中傷」「批判」が平然とできるから、2ちゃんは面白いんだ。
「タブー」が少なく、自由だから楽しめるんだよ。
2ちゃん見て腹立ててるようなヤツはダメね。センスのかけらもない。

全てを容認し、全てを笑い飛ばし、どんな変化にも対応できるセンスを磨くようにしよう。
掲示板や待合いが荒れたら、閉鎖したり、「荒らす人はかわいそうな人だ」とかわけわからんことを言ったりするのではなくて、それを楽しめるセンスを持ちなさい。
他人に中傷されたらギャグのネタにしてやりなさい。
「失礼な」発言をしないように気を付けるのはやめろ。失礼だからこそ笑える、「タブー」を相対化するからこそ楽しめるようになれ。
その意味でも──タブーを生み出すあの「道徳」「常識」が、まず相対化されていなければならない。

それができなかった人が「めちゃイケのこのコーナーは不徳だ!」とか言い出すわけね。
おれが日記で言ってきた「バカはバカな故に笑えない」というのはこのことだよ。
腐った常識や「タブー」を抱え込んでいるから、時代が変化し、センスが変化し、常識が変化した時に、ついていけなくなる。
もう生きる価値のないおっさんになってしまっている。
とつげきの毒を笑って読めないヤツ、お前だよ危ないのは。お前がバカだから笑えないんだよ。ただそれだけだよ。



01/03/14

小数の理解者と数多くの敵

HPで何か発言し、数多くの賛同者を得ようと思ったなら、どうすれば良いだろう?
簡単である。
凡俗な常識に従って「差別はよくない」だの「科学が全てではありません、心が大事なのです」だのと垂れ流しておけばいい。
そうすれば「色々考えているんですね」「感心しました」など、これまた愚昧な賛同者がいくらでも現れることだろう。
東風関係のHPでも同じこと。
単に仲間をたくさん作りたいなら、クソくだらないワイワイ団体系HPを立ち上げれば良い。毒を吐いたり誰かを攻撃したりといったことは一切せずに、迎合していればいい。そしてその程度のことなら、誰にでもできることだ。

とつのHPはどうだろうか?
「敵が多い」というのがとつのHPの特徴である。
ニーチェ系の思想(黒とつ)といい、麻雀関係の毒舌といい、とにかく敵が多い。
そして同時に、小数の優れた理解者がいることもまた特徴である。

例えば思想部分で言えば、「子供みたいな思想」「本当に最低の人間性」だのと、全くわかっていない人が敵意をむき出しにするのと同時に、早稲田大学の哲学科の方から「こんなにもすっきりと現代の哲学の行き詰まりの原因を記述した文章は初めて見た」という推薦文をいただいたり、他の思想系のHPからも「おすすめ」としてリンクを張られているわけだ。

麻雀部分もしかりで、「とつげきは下手」だの「研究もたいしたことない」だのと適当に言うのは簡単だが、実際のところ、順位の偏り方の研究や、今後行う「待ち牌の分布」などの研究が、どれほど「麻雀界」にとって良い研究であるかに気付いている方は多いはずだ(ちいといつ氏とかちっぱん氏などの、東風で「エライ人(笑)」がよく訪れてくれることからもわかるだろう)。

ついでにシスマでオフ会をやったら、半分は旧帝大の人間だったな(笑)。
別に学歴が全てとか言うんじゃなくて、逆に、どうしてとつの発言・主張・周りの人間には、優秀な人が「たまたま」集まってしまうのかをよく考えろ。なんで「とつげき最低!」とか言ってる人間の周りにではなくて、とつの周りにだったのかを?
おれが正論を吐いているからだ。
バカの神経を逆なではするが、しかし理屈がちゃんとしているからだ。
バカがバカな故に反発を覚えること、賢い人なら当然理解できることを、おれが言っているからだ。


数多くの敵がいると同時に小数の、ハイレベルな理解者がいるという現象。
この形式を持つこと自体が優越性であると考えても良いのではないか?
大衆は科学技術だのを嫌う。数学を嫌う。つまりそれらは数多くの敵を持ち、一方で学者などのハイレベルな理解者を持つ。
むしろハイレベルであることそのものが、大衆(数多く)を敵に回すための一つの原因ではなかったか。
ハイレベルなものは必然的に敵を数多く作るのではなかったか。

そうだ、「とつげきはダメ」という言説は莫大に垂れ流されてきたし、「そうだそうだ、とつサイテー」と言える賛同者は君たちに多かったことだろう。しかし、そこには・・・誰一人として、とつと対等にやりあうことができる人物がいなかったのだ。
劣等者の互助会おめ。

敵を作らないのがえらいのではない。そんなこと、やろうと思えば誰にでもできる。
センスのある人間は、敵を作りながら、敵とのやりとりをも笑いのネタにし、より多くの、より優秀な味方を得て進んで行ける。



01/03/02

笑いの精神

「僕は〜〜するために生まれてきたんじゃない!」
こういう感動的なセリフ聞くと虫酸が走るが、ハラを立てるのではなくて、これを笑い飛ばせるようにならねばならない。
例えば第一打でドラを切ってポンされてしまった時に、「あ〜〜ごめん」とか言うのはダメね。
「僕は・・・僕は、
ドラをポンされるために生まれてきたんじゃない!」
と、ドラマチックにムダに盛り上がるとちょっと楽しいよな(笑)。
同様に、この日記でおれが何度もバカにしてきたようなセリフを、バカにするのではなくてギャグに持ち込めるセンスを持とう。

やべ、ドラポンされたよ・・・。
「いや・・・オレが上がれると信じてる、むしろ
信じたい
「おいおいドラポンさせるなや! 思いやり足りねえええ!」

こういうのを「攻めの浮き」と言うんだな。
ここまで抽象的な概念をわかって日記読んでる人どれくらいいるんかわからんけどね(笑)。
いくら言っても言い足りない。平均人がいかにバカか、バカであるが故に笑えないかということを。