システマティック麻雀研究所入学試験 試験D解答例 



概論
(こういった感じの考察を背景にして答えてください。違う前提に立っていてもロジックと分析が正しければよいですが、ロジカルに考えてこれと極端に違う前提に立つことは難しいと思います)

なぜ麻雀界がこんなにも悲惨であるのか。
その主要因の一つは「計測技術の未発達さ」にある。

私は麻雀というゲームに高校生のころに出会い、当時3年ほどはまっていたが、様々なオカルト戦略をうそぶく自称上級者たちに囲まれて「このゲーム運のみちゃうんか」と思うに至り、放り出してしまった。
運だけで決まる(と当時思っていた)小銭の取り合いに、面白さを全く感じなかったのだ。
大学1年の頃にはヒマをもてあましてちょくちょくフリーに通っていたが、麻雀が面白いのではなく、ギャンブルがしたいわけでさえなく、恥ずかしながら「雀荘に行ってる自分がかっこいい」というような蒙昧な理由であった。
しかしPC上でネット麻雀ができるようになってから、状況は一変した。
私は麻雀、いや麻雀の研究にはまってしまったのである。
果たして麻雀の「実力」というものがどこまで「存在する=計測できる=合理的に認識できる」のか、ということが常に私の興味を引いた。
適当な戦術を語るのではなく、失敗して「やっぱりな」と言うのでなく、ただついていて勝つのではなく、もちろんフリーではした金を偶然得たり失ったりすることではなく、「真の実力差」というものを計測する方法について考えることが私にとっての大問題であった。
例えば、友達の中で「強い」と言われている人がいる。その人はフリーでも自称「勝っている」し、仲間内でもそこそこに勝ったりしていた。しかし、しばらく打っていると、その人もかなり連続して負けたりする。皆は「最近ついてないね」と言うが、果たしてそうなのだろうか? 実は、今まで「勝っていた」のが偶然で、フリーで勝っているのも印象が強いだけか、データが足りないだけなのではないだろうか? 確かに彼は「流れを読める」らしいが、その技術は本物なのだろうか? なぜ結果としては他の人より負けているのに、彼が一番強いと思われているのだろうか? むしろ逆に、たまたま勝っていたことが、彼の実力や技術を見誤らせているという可能性はないのだろうか?
出る結果の一つ一つに主観が強く介在していることに不満を持つとともに、そうした「印象重視」ではない実力の計測ができないかということに強い興味を持った。

その興味が「麻雀の成績の偏り」に関する考察を生み、「安定Rとして実力を計測するツール」であるできすぎくんを生んだ。
またそれは発展的に、「保証される実力の計測法」「東風戦と東南戦の実力比較(計測)法」「和了率・放銃率等のパラメータからの実力計測法」「順位麻雀とトップ麻雀との実力比較(計測)法」などの研究につながったわけだ。
結果として、麻雀には実際に「実力」が存在することを知り、「最高R」やら「手さばき」やら「収入」やら「語り」やら「自称上級者であること」やら「何試合か対戦or観戦した印象」などで実力を計測するのとは比較にならないほど精確な実力の定量的計測方法を提案できた。


それに対して、麻雀界の「計測」における状況は依然として進歩していないと言える。

例えば「実力の計測」ということについて考えてみよう。
プロの団体でも「実力」で昇格が決まるのではなく、100ハンチャンなどの短期決戦での結果で決まる。麻雀ゲームにおける「偶然性」を考慮に入れると、知的ゲームとしてはこれほど粗末なことはないが、和了率や放銃率のデータさえもまともに出されない。まともに「実力を計測しよう」ともしていないし、実力者が勝てるシステムを作ろうともしていない。
自分の平均順位さえ把握しないアマチュアにおいては、「語り」「ハッタリ」「知ったかぶり」、せいぜい「数10試合打った結果」のみで実力が測られることになる。あるいは、何試合か観戦してみて「自分の信じる強い打ち方と違う」という理由で、その人を下手呼ばわりするといった状況が生まれた。
東風に限って言えば、「みかけRが〜〜になった」とか「最高Rでいくついった」とか、「(印象として)フリー向け」だとかそうでないとか、そんなものから実力を計測する輩が多数出現した(いずれも非常にあてにならない指標であることはシミュレータによって証明されている)。

「流れ」の検証におけるデータ収集についてはどうか。
いぜん、「流れがないとは言い切れない」「流れとは確率の偏りだ」「いや、打ち手の心理的な影響によって必然的に生ずる現象だ」などと愚にもつかない言い争いが大多数をしめていて、何らかのデータ収集を行ったという報告は皆無に等しい。

自分の強ささえ計測できず何が技術か。ランダムさを計測する方法論さえ考えずに何が「流れ」か。
それどころか、彼らは麻雀を数値化すること(計測すること)自体を否定する。
ネットでは実力は計測できないと言い、理論では流れはないとは言い切れないと言い、相変わらず彼らだけが自称上級者であり自称流れやしぐさを読める人でい続ける。彼らが判断する「強さ」(雰囲気・牌さばき・信仰の共有etc)のみが本人や他人の「実力」を決める。挙句の果てには「とにかく実際に対戦しよう」などと言い出す。馬鹿馬鹿しい。

こうした積み重ねが、麻雀界をここまでの惨状に追い込んだのだ。
自称上級者のアマチュアは好き勝手に語り、プロは何ら合理的な実力向上努力をできず、自己満足に浸ってものの役にも立たない自称「戦術」を披露し、短期的な結果でのみ全てが決着した。
努力して強くなったとしてもそれを「計測」する術がないのである。
よって、短期間の勝ち負けで「この打ち方はいい」「やっぱりまずい」を繰り返し、結局安定して技術を向上させることなどできなかったのだ。技術が向上しなければ、戦術論もまともになるわけがない。せいぜいその時その時に成功した印象が強かった打ち方を「戦術」として公開するしかない。
その証拠に、例えば井出洋介プロの過去および現在の戦術書を読み比べてみるといい。過去には合理的で期待値重視の打ち方だったが、現在は「流れ」などのいわゆる非合理重視で打点重視の打ち方を推奨している。「強い打ち方」がそんなにコロコロ変わってしまうのは、先立つロジックが存在しなかったことを端的に示している。また彼が、「実力の計測」を上手に行うことができず、短期的な成功や失敗や、偶然の結果から「実力の変化」を誤って捉えてしまったことを示してもいる。

誰もが「麻雀は運のみでは」という疑念を払拭できず、にもかかわらず「自分は本当はけっこう強い」などと思い込み、自己矛盾と自己欺瞞にとりつかれた。
そのような偶然性を排除し実力を計測(定量化)する頭を持たなかった彼らのうち、一部は、「絶対的な実力」としての「流れを操る」という技術を信ずるに至った。
多くの人が「実力」を実感できないゆえ、多くの人が「真の実力」を身につけない故、「絶対的な実力」「経験が長い→強いという根拠」として、「流れ」は漫画やプロの本でもてはやされ、権化としての桜井が現れ宗教を語り、誰もがそれにまともな反論ができない世界ができあがった。

ここには、麻雀における「強さ」へのコンプレックス、「強さ」への理想主義があったのだ。
「強く」なりたい、しかし彼らは「強さ」が計測できず、「強く」なったかどうかも偶然や印象でしか把握できない。
自分は時間をかけて麻雀をしている。牌さばきなどでもシロウトよりうまい。だから、自分は強くなっているべきだ・・・。
全ての元凶は「実力が明確にならない」ことにある。
いくら時間をかけていようと、絶対的な指標で「あなた下手」ということが納得できる形で示されてさえいれば、勘違いも生じなかっただろうし、下手でなくなる(強くなる)ために頑張る姿勢が生まれたはずだ。
しかしそういった指標はなかった。だから彼らは、妄想や理想にすがるしかなかったし、逆に言えばそうした指標がなかったことが、おそらく大部分怠慢な彼らにとって都合がよかったに違いない。


「デジタル」などという打ち手が登場し、ようやく「流れ」が相対化されつつある今、麻雀界を見渡して何があるか? 知的な意味での進歩があったか? 彼らは自分たちの実力を正しく計測し、より強くなろうと努力しているのか?
ない。何もない。
宗教を馬鹿にする大衆が何の特別な知性も持たず、宗教家と比べて何の努力もしないのと同様、麻雀界には新しい知識が生まれなかったのだ。

我々はもう、当たり前のことを言う段階にいるのではない。
「流れはない」「〜〜とは言い切れない」と堂々と言わないこと。
研究するなら、基礎スキルとしてプログラミングや数学を身につけること。
流れのなさをデータ化し、麻雀の解を計測し、新しい知を提出すること。
実力向上するためなら、蒙昧な「戦術論」を読むのではなく、嘘の「技術」を披露するのではなく、理論的なものを大いに活用すること。少なくともそうした方法論を取り入れること。
絶対にやってはいけないことは、印象や信念や短期的な結果(言い換えると、間違った計測)から「自称上級者」になり、ありきたりなことを語り続ける「自称麻雀わかっている人」になってしまうことだ。
特に、習得上何の努力も要求されない「習得した気になれる」嘘の技術、例えば「流れ読み」「しぐさ読み」技術などの存在には注意しなければならない。

繰り返して言う。
麻雀は知的ゲームである。
研究・分析があって初めて、我々は本質にアプローチすることができるのである。
客観的な指標を放棄して印象に頼るなら、当然誰だって自称最強であり得るわけだし、多くの人は(今までのアマチュア・プロが一様にそうであったように)それに甘んじるだろう。
なんといっても「麻雀なんてしょせんゲーム」であることに変わりはないのだから。
しょせんであれ何であれ「ゲーム」であれば研究対象になる。
「ゲーム」の中には、大衆的日常生活とは一線を画した、探求すべき世界が広がっているのである。
すべてのファミコンゲームが、そこらのオバチャンの語りよりもずっと知的な意味で興味深いことと同様に。
我々は「ファミコンなんてばかばかしいね」と言うのではなく、ハイスコアを残せないくせに「俺は本当はファミコンうまいんだよ」と言うのでもなく、ファミコンゲームについての嘘や願望を垂れ流すのでもなく、ただただファミコンゲームに対する研究と分析を続けるべきなのである。



各問題採点基準と解答例

簡単な問題や短答式っぽいものは省略した。
各々、「浮いた」分析や変なことを言っている部分があれば減点する。


1−1

問1)(20点)
「流れはないとは言い切れないのではないか。結局は信仰の問題に戻ってしまうのではないか」
という言葉に対して、あなたはどのような立場を取るか。
賛成または反対の立場を明記した上で、問題点や背景にまで踏み込んで論ぜよ。



<解答例>

「流れはないとは言い切れないのではないか。結局は信仰の問題に戻ってしまうのではないか」という言葉には、「何もかも、絶対確実とは言えない」という使い古された表現以上の内容はないだろう。「流れはあるかもしれないがないかもしれない、神はいるかもしれないがいないかもしれない、麻雀におけるある打牌は正しいかもしれないが正しくないかもしれない」という相対主義的な表現である。
このように極端な相対主義的立場に立つこと自体が、今、麻雀を語る際に適切だろうか?
適切ではない。

例えば麻雀には「上手、下手」などという概念の区切りが存在する。
親のリーチに降りる時、無筋の5マンを切るか3枚切れ西を切るかと言えば、西を切る方が「上手」であることは誰もが認めることだろう。
「流れがあるかどうか」というような論理実証が可能な問題さえ「信仰の問題」だと言うならば、上手下手の技術に関しても、「上手か下手かわからない」という相対主義的な立場に立っていなければならないだろう。というのも、もし流れがあってそのとき「5マンより西の方が危険な流れ」ならば、打ち方に「上手、下手」の区別をすることができないはずだからだ。
ところが実際には技術に関していろいろなことが述べられている。「確実」どころか間違っている方が多いようなうそ臭い麻雀薀蓄が山ほど垂れ流されていることは知られていることである。麻雀において、多くの人は「〜〜は確実ではない」と胸を張って言えるほど慎重な相対主義者ではないのである。

ここでは、「確実ではない」という表明が、現実的な範疇でどのような問題点を持っているかを考える。
「確実ではない」からと言って何もできないと考えるのは短絡的に過ぎる。
確実な保証はないとしても、正しく判断すれば自分の立場や行動をより「良く」変化させられることは可能だし、誰もが人生においてそうした経験を持っている。
そもそも人生の中で「これは絶対確実だ」と思って判断してきたことがどれほど多いだろうか? それほどないに違いない。
重要なのは、信じる人がおり、信じない人もおり、その中で「確実とは言えない」と立ち止まらずに、より確からしい答え、自分の行動や判断を変えるに足る力強い結論を探求していく姿勢である(これができたのが理工学であり、できなかったのが哲学である)。
極端な相対主義は、分析や考察・研究、あるいは知性の進展を阻むという問題点を持っている。さらに言えば、彼らにとって高度すぎるそれらの活動から逃れるためにその言葉が使われることも多いのではないか。

流れがないとは言い切れない、打ち方は人それぞれでどれが本当に正しいかわからない、強いかどうかは比較できない・・・と何もかもを相対化して、客観的な指標を「確実ではない」として退けて、残るものは何だろうか?
自分の信仰(主観)である(例「流れってひょっとしてあるかもね」「おれはシロウトよりは流れを読めているかもね」「こいつはたぶんおれより下手だろうね」「おれって本当は強いだろうね」)。
そして自分の信仰にしか立脚せず、ロジックや理論などの他の信仰を相対化しつつ、マイ麻雀形式を語るのが、麻雀界の平均人(技術において凡庸で、研究において愚劣な)の姿そのものなのだ。

★補足
なぜ、「流れ」においてだけは彼らは「ないとは言い切れない」などと言うのか。
どうしてそこでだけ慎重になるのか?
ということについては問題の趣旨と外れるのでここでは書かないが、さして難しい理由があるわけではない。


<ポイント>
問題の発言が「確実とは言えない」ことの表明であるという構造を見抜くこと
以上5点
題意に答える形で考察すること
以上5点
論理的な表現・分析ができているか
以上4点
文章と文章のつながりは自然か
以上3点
述べたいことが何であるか把握しながら読めるか
以上3点



1−3

問3)(10点)
麻雀にとって、実用的で有用と思われる新しい研究を1つ考え、方法論・問題点を交えて検討せよ。



<ポイント>
新しい研究の発想はあるか
具体的な提案を含んでいるか
方法論としてただしいか
実用性がありその利点について述べられているか
以上で10点。



2−1

問1)(20点)
麻雀には様々な技術要素があり、また、麻雀の打ち手には様々なタイプがいる。
一般に麻雀をギャンブルとしてでなく知的ゲームとして捉えたときに、技術を向上させるために重要と思われることを論ぜよ。
ただし以下の各々のキーワードについて言及すること。
キーワード 「実力の計測」「実力の変化」「実力の向上」



<解答例>

麻雀が技術を伴うゲームである以上、「実力」が存在することは明白である(実際に「上手」「下手」という概念の区分があることからもこれは示される)。
そもそも麻雀に「実力」を定義するとすれば、正確な実力の計測を行うための何らかの指標が必要である。
実力があってそれを計るというよりも、計測手法のあり方が実力を規定する。
したがって、計測手法が正確でないと、「実力」そのものの基盤が崩れる。
例えば麻雀牌の手さばきや、他人の打ち方を数試合見た印象や、東風荘であれば「新キャラのみかけレート」などから実力を推定する人がいるが、実力の計測法としてこれらはあまりにも粗末であるといわざるを得ない。このような方法を用いて「実力」を計測すると、麻雀の勝ち負けや一般的に認識されている「実力」と計測結果とが乖離してしまうだろう。
(私は、牌さばきだけ上手なドヘタも見てきたし、データ上は圧倒的に自分より強いにもかかわらず、自分と好みの違う打ち方を「下手」と言う人もたくさん見てきた)

「実力の計測」の手段としては、平均順位や、金銭的収入や、和了率・・・など様々な手法が考えられるが、いずれにしてもそれを正しく(客観的に)データ化することが重要である。
そして、どんな実力計測の方法が、どの程度誤差を少なくそれを行えるかを研究し定量化することが必要だと考えられる。
精度の悪い実力計測方法を用いると、打ち方を変えて「実力が向上した」と思っても、実際には弱くなっているというようなことが頻繁に起きる。つまり、「実力の変化」の測定で誤差が生ずる。
「実力の向上」のためには、「実力が向上した」ような打ち方の変化(それを技術と呼ぶ)を正確に積み重ねていくことが必要であるが、「実力の計測」がままならないと、「実力の変化」が捉えられず、したがって「実力の向上」を合理的に求めることができないのである。その結果、ムダに経験だけが長い、「+1と-1の技術ををランダムに並べ続けた、意味のない嘘の技術を知ったように語る自称上級者」が大量に生まれるのだ。
知的ゲームとして麻雀を取り扱うのであれば、なによりもまず、正確な「実力の計測」手法を考案しなければならない。



<ポイント>
実力があってそれを計るのではなく、計測があって初めて実力が定義できるということを示すこと。
以上10点(「実力の把握には計測が大事」などの場合5点、実力と計測の関係がほとんど触れられていなければ0点)

論理的な表現・分析ができているか
以上4点
文章と文章のつながりは自然か
以上3点
述べたいことが何であるか把握しながら読めるか
以上3点



2−2

問2)(15点)
なぜ麻雀界には自称上級者が多いのに、実力がある者は少ないのか。なぜ自称上級者の戦術論はほとんどが全く役立たないのか。
技術や心理状態・背景に踏み込んで論ぜよ。




<解答例>

問1(「実力の計測」の問題)で論述したとおり、「本当の実力」が最初にあるのではなく、実力の計測方法が最初にあって、その結果として「実力」が形作られるのだということを確認しておく。

一般では、例えば金銭的収入やら、あるいは「手さばき」、「対戦or観戦した時の印象」、さらには「最近けっこう勝っているような気がすること」をもとに実力が計測される。
それも、麻雀の成績のばらつき具合などについて知らない者が、短期間のイメージから計測することがほとんどである。
こんな計測方法では「本当の実力」などがそうそううまくわかるわけがない。
たまたま自分に都合のよい計測結果を「実力」だと思い、その他のものは「ついてなさすぎた」とかあるいは「ネットだから」と考えて棄却することもできてしまう。
牌さばきやら印象やら短期間の結果で「実力」を計測している状態では、文字通りの意味で「実力」が存在しない。「本当の実力」どころではない。実力がまともに定義されてさえいない

人間は自分に都合の良い結論を好んで無意識に信じやすい。
例えば人々が「計測」した「実力」は、客観的な「計測」をした「実力」よりも高いことが極めて多いだろう。
実力の精確な計測法が確立されておらず、実力が測れないから、人々は自分勝手に自分の「実力」を高く評価し、または他人の「実力」を見くびり、それゆれに「実力者」と「自称上級者」との数の差が生ずるのである。

技術があって実力があると考えていても、実際には実力がないならば、そこに介在した「技術」はニセモノの技術である。
例えば「表情を読む技術」とか「流れを操る技術」などはその代表だろう。
彼らの「技術」は、実際に「実力の正しい計測」をもって調べれば技術足りえず、「実力の正しい計測」のやり方を知らないばかりか、むしろ知りたくない彼らの頭の中でだけ「優れた技術」なのだ。


★補足
長期データであれば、先制リーチ率、和了率、トップ率などさまざまに実力を測る技術はある。しかし彼らの提示する「技術」は一様に「計測しにくいもの」つまり「自分の中でできているつもりになっている技術」なのである。自称とつげき東北より読みが鋭い人や、自称実戦では負けない人は数多くいるが、とつげき東北より順位がいいとか、先制リーチが多いとか、トップ率が高いとか言う人が皆無なのはなぜか考えてみよ。明確にならない指標、検証不可能な指標、つまりニセの技術でしか彼らが勝てるチャンスがないからなのだ。


<ポイント>
具体例を挙げて論理的に数の差が生ずる要因を示していれば10点。
論理的な表現・分析ができているか
文章と文章のつながりは自然か
述べたいことが何であるか把握しながら読めるか
以上5点



3−1

問1)(15点)
「ネット麻雀では一発ツモが多い」と言われることが多いが、このような認識論的錯誤はなぜ生ずるか。いくつか理由を挙げ、心理状態や背景について説明せよ。



<解答例>

・ネット麻雀では短時間で1試合を終わらせることができる。
同じ時間だけゲームをした場合、自然と一発ツモに遭遇する絶対数が増える。
「今日は何度も一発ツモがあった」というような印象が残る日が多いのは、明らかにネット麻雀であろう。
・ネット麻雀に対して「一発ツモが多いなどのイカサマがあるのではないか」という疑心がある人が多い
このことを知る事例は数多くある。各種掲示板等の書き込みで確認することができる。
疑心がある場合に、実際よりもいっそう一発ツモの記憶が印象に残りやすくなることが予想できる。
・ネット麻雀に対する反発心がある
単に嫌いというだけで、対象に何か欠点があると決め付けてしまいたくなるのは人間の自然な欲求である。


<ポイント>
いくつか挙げ、とあるので、2つ以上の要因を挙げること。
以上5点
要因ごとに最大5点を与え、高得点の2つを残りの得点とする。
要因として説得力があれば3点、説明・根拠等を含めて追加で2点。
以上10点
ただしあまりにも的外れな要因を挙げている場合は最大10点減点する。


3−2

問2)(15点)
「ネット麻雀はしょせんゲームでしかない」「ネット麻雀と実戦麻雀は違う」という言葉をどう考えるか。同意または反対の立場を取って、この発言の背景や心理状態に踏み込んで詳細に論ぜよ。



<解答例>


ネット麻雀と実際の麻雀は同じものだろうか?
全く同じではないことは明らかであるが、あえて私は、同じものだと考える。

それらが違っているという主張のいくつかについて、根拠を列挙して考えてみよう。
・「ルールが違うから」「相手のレベルが違うから」
とつげき東北の「麻雀和了放銃方程式の定式化」「順位麻雀とトップ麻雀との実力の比較に関して」の研究において、ルールの違いや相手のレベルの違いによって、「実力」の表現にほとんど差が出ないことが示された。したがって、これらを理由に「違う」と言うことは妥当ではない(もちろん、「どんな極端なルールでも同じ」ということが示されたわけではない。例えばサンマとヨンマはかなり違うゲームであろう)。
・「客層が違うから」
実際の麻雀も雀荘ごとに客層が違うので、この理由で「ネット麻雀と実際の麻雀は違う」と言うことは妥当ではない。
・「ラグがあるから」
「ラグ」の存在で、長期の和了率や放銃率が1%も変わるということは全く考えられない。
しかも長期和了率で1%の差がついたとしても、それは平均順位にして東風戦で0.04程度であり、本質的な差とはならない。
ちなみにラグは技術的には簡単に解消できる。解消されないのは、その問題は麻雀というゲームにおいて本質的でないからである。
・「相手の表情やしぐさの読み合いを含めたものが麻雀だから」
例えば、表情やしぐさの情報で、和了率が2%変化するというのであれば決定的な違いだと言って良いだろうが、そのような差がつくことは考えがたい。
・「ツモが違うから」
全自動卓同士も混ぜ方や油の量によって違うから、このことは理由にならない。
・「金がかかっていないから」
金をかけない麻雀を目指しているプロ団体もある。
それに、相対的な実力比較においてはそうしたことは問題にならない。
あと一つ、「金がかかっているより、データがかかっている方がずっと真剣になれる」という優秀な人も存在することを知るべきだ。そうした人の方が知的ゲームが上手であることは多い。

実際に牌を握らないと麻雀をしている気にならないだとか言う頭の固い人間はいるだろうが、こと「実力の計測」あるいは「麻雀のゲーム性」という点から見ると、両者にほとんど差は見られない。
「読み合い」こそが麻雀の本質だと捉えているとすれば、麻雀の本質を見誤っていると言わざるを得ない。
何か違いを見つけて「違う、違う」とわめき散らすことはそう難しいことではない。しかし本質を見抜き、形式化して語るには能力が必要である。

自分の慣れ親しんでいない新しい制度ができることに対して、人間はしばしば保守的になる。
保守的になるばかりか「それは本当の〜ではない」「自分のやってきたものが本物である」とまで考える場合も多い。
「ギャンブルがかっこいい」「麻雀はギャンブルであってゲームではない」という非常にセンスの悪い判断もこの風潮の原因の一つであろう。

しかし私は、「実力」が定義されないようなただのギャンブルと違って、ネット麻雀でこそ麻雀の「実力」が試されることができるし、それゆえ研究の対象としても楽しいのだと考える。


<ポイント>
研究を目指す水準として、「(研究対象としての)ゲーム>ギャンブル」という認識が必要である
以上5点。
発言者の知的低さを合理的に説明すること
以上5点。
全体の論理性や分析性に応じる
以上5点。



得点補正

以下の減点補正がある(各々最大10点)。
文章として読みやすいか
説得性があるか
誤字脱字
受け売りっぽい不理解の言葉が使われていないか
重大な知識不足によって違和感のある説明をしていないか
知識不足によって違和感のある説明をしていないか

この減点補正のうちから、以下の加点修正がある(ただし減点加点の合計は正にならない、加点は各々最大10点)
読者に読ませるようなうまい表現があるか
わかりやすく的確な例示があるか
笑ってしまうような的確な毒舌があるか
今まで言われていなかった新しい着想があるか
その他知識等