「ちんこんぺ」投稿作品。

この論説コンテストを主催しているRevinが、何かの罰ゲームで主催させられることになった単発のコンテスト「ちんこんぺ」
主として小説や2次創作などの作品を集める方向で開催されているものの、「ちんこ」にまつわる文章であれば何でも良いとか。

まあネタということで、私もざらっと書いた作品を投稿した。
推敲されてないのでそのつもりで。



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   ペニス的な問題に寄せて

 私たちが初めて「ちんこ」の外来語正式名称を学校で教わったときに感じた強烈な違和感とそれに続く一連の騒動は、――それが仮に幻想であったとしても――もはや日本人に与えられた一つの特権としか思えない様相を呈している。
 ペニス――。
 わずか3つの音素から成るその単語が宿命的な作法で背負わざるを得ない滑稽さは、小〜中学生という、性や下品さに多感な年代を生きる私たちにとっては、テニスと呼ばれる伝統的なスポーツに対する自らの態度さえも変化させるものでなければならなかった。
 もっとも短絡的な者は、感情の高揚を抑えることができず、およそテニスをすることを提案するのに全くふさわしくない教室内で「ペニスしようぜ」と口にすることによって論理学的センスの欠如を仄めかしただろうし、羞恥心溢れるより深遠な者でさえも、心の中で「卓球=テーブルペニス」などと連想することを防ぐ手立てを持たなかったに違いない。

 性が隠蔽され遮断された年代であったからこそ演じることのできた神聖で無邪気な振る舞いは、私たちの記憶の中に鮮明で懐かしい思い出として残っているだろう。
 それはすなわち、中学生の頃、友達の英語の辞書を借りたときに「sex」のページに幾度となく開かれた形跡が認められたとか、極端な場合は蛍光色のしかるべき刻印が施されていたといった体験の記憶そのものと同じ何かである。クラスでもっとも真面目で英語のよくできる生徒の一人だった私も、英語表記されるpenisの発音が日本語のカタカナで書けばピーニス、その複数形がピーニーズであるといった「発見」を、当時の確たる親友にそれとなく告白せざるを得なかったわけだし、友達に辞書を貸した際に「恥ずかしい」単語のページに折り目がつけられて返却されたという理由で辞書を買い換える他なかった、追い詰められた内気ないじめられっこの逸話を楽しんだりもしたのである。

 大人になってもペニスという単語で喜んでしまうことは決して推奨されはしないが、私たちはペニスという言葉のおかしさ、それに対する違和感をいつになっても忘れてはならないだろう。ペニス−ちんこがおかしくなくなる段階で、私たちは盲目としての大人になるのである。
 ものものしく深刻なそぶりで何事かが語られるとき、ほとんどの場合はそこに考慮すべき問題は隠されてはいないという事実について、私たちは今一度反省すべきである。もしも誰かがペニスについての悩みを打ち明けてきたら、大笑いしながら、泌尿器科ならびに精神科にいくべきだと遠まわしに説明しなければならないことに疑いの余地はないし、伝統ある国立大学の一つとして知られる千葉大学に、全国で唯一「法経学部」という名を冠した学部が存在することを思い出しながら、世界に先駆けて包茎を学として体系化してしまったかに誤解されがちなこの学部名の危険な刺激を指摘できないクソ真面目な大学論など何も語らないに等しいのだと呟くことができなければならない(もちろん、大学論そのものではなく、大学論の全てがこの種の事情によって無効になると即座に信じてしまうような鬱陶しい性質こそが、ここで批判されているのである)。

「非核三原則 作らない 持たない 持ち込ませない」
 内容には同意できなくもないとしても、明らかに音声学的調和を欠いたこの無様な名言に対して、私たちは核兵器とペニスとを同時に想像しながら、
「非核三原則 作らない 持たない むやみに出さない」
などといった警句を対置する程度に軽やかであり続けたい。
 確かに我々は核兵器を作ってはならないし、核兵器を持ってはならない。その上、ペニスをむやみに出すことも慎まれなければならない。そうでなければ平和な国家は実現されない。これらは常に真理であり、真理であり続けるが故に私たちによって弄ばれなければならない。
 ここで提示されたふざけた箴言が真理である限り、「非核三原則」の真理性はそれと同様の価値しか持ち得ないのだ。

 世の中の全ての問題がペニス的問題であると捉え得るならば、――そしてそれは大部分真理に他ならないのだが――事態は少し好転するのかもしれない。公務員制度改革や政治改革といった名称を与えられ取り組まれているはしたないやりとりは、ペニスの小ささや外部を覆う皮膚の存在が「もてない理由」であり問題であるとして取り上げられ、しきりに促される巨大化や顕在化というペニス改革的な広告によって「解決」されていることと本質的に同一のものでなければならない。歴史的にみて、改革が叫ばれるときとは、必ず全ての事態が終了していて、政治家が失脚する瞬間だからである。
 私たちはペニスの名の下に取り交わされる制度的なやりとりを目にする前に、まずは「ペニス」と「おちんちん」との間に存在するはずの絶望的な差異に、敏感になって良いだろう。

 今ここでこの瞬間、私が、あなたが、「ティブルペニス」と巻き舌気味に、なおかつあくまでも上品に発音することで変わるかもしれない何かこそが、私たちにとって「根本的」でなければならないのである。






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