はじめの「ごあいさつ」。
まるでこのイベントが誉れ高いものあるようなそぶりで、そういったイベントにありがちな、
「高慢でえらそうななはじめのあいさつ」
の文章を書いてみた。ハスミンの「齟齬の誘惑」を明らかに意識しつつ。


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   「自分で考える」ことへの批判


「自分で考える」「自分自身で判断する」ことが重要であるなどと、いったい誰が言い出したのでしょうか。今日では、この自由主義的な呪いの言葉が、およそ「正しい判断」と呼ぶべきものから、人々をできるだけ遠ざけるよう機能しているように思えてなりません。これらの言葉は、誰もがしかるべき思考・判断の手続きによって、あたかも正解に向かうことが可能であるかのような錯覚を与えている。明らかに不適切な妄言です。
 多くの人は、悩んで自分で考えている時ほど、良い判断を下せないということを忘れてはいけません。もっとも優秀な判断をできる人は、常に問題が提示された瞬間、考えるまでもなく反射的に正解を導くのです。ああでもないこうでもないと考えを巡らし始めていることが既に、暗闇に向かって立ちすくんでいることを意味しているわけです――もちろん、幸運にもゴールに到達できる場合があることを否定するわけではありませんが。

 思い出してみればよろしいでしょう。私もそうですが、高度な数学の問題や政治の問題について、どうすべきか問われたとしましょう。自分で考えてわかるでしょうか? 自分自身で判断できますか? できるはずもない(いえ、あなたができるなら失礼)。通例ですとせいぜい、教官や、あるいはマスコミがもっともらしく語っていたことを、そうと気付かれないよう脆弱に反復することができるに過ぎないのです。
 最初からそのような虚飾をやめて、信頼できる何かを探すほうが賢明です。数学の問題が出たら教授に聞きに行く。政治の問題が出たら専門誌を読む。自分で考えたり判断したりするよりも、100倍もまともな答えが出るに違いありません。
 唯一許されるかに見えるのは、自分自身が本当に力を注いで取り組み結果を残した対象について、自分が知っている2,3の事情をそれとなく語ることだけです。

 もちろん、自分で考えることが必ず悪いとは言わない。ことによると、大発見ができるかもしれないですし、まあそういった特権的な夢物語はともかくとしても、「自分の判断だから、失敗しても納得できる」といういささか冷静さを欠いた退屈な安心感のために「考えたそぶり」をすることが愚劣とまでは言いません。
 ところが実際に振り返ってみると、運不運程度ではとても解決できない高度な問題については、俗な人間が「自分で考えて」うまくいったためしなどない。
 人間の認識や思考には、心理学的にあるいは認知科学的にしかるべき錯誤があるので、皆が自分で考えることによって同じ間違いをしでかす可能性があるわけです。具体的なアドバイスとして、私たちは、自分にとって心地よい結論ほど疑ってかからねばならないのです。なぜなら、心地よい結論は私たちに「正しい」と信じ込まれたがる傾向を持つからです。

「思想」的な側面においてはとりわけそれがひどい。数学や政治学と違って、学ぶ機会が少ないからでしょう。
 なぜ「自分で考える」などという非常に下らないことがそもそも必要なのか、「自分で考える」ことがいかに見苦しい結果をもたらすかを疑うことさえできない程度に、思考停止が行われつつあるのが現状です。
 その結果、メディアなどに用意されたできあいの「自分で考えた末に行き着くべき結論」の数々を自虐的な形で先取りして享受せざるを得ないのです。
 情報社会だと言っても、これでは昔と何一つかわりません。かつては権威的な何か、例えば身近には父親ですとか、もう少し高級になると哲学ですとか、そうしたものが思想のために既に用意されていて、それに従うことがいわば「正しい」とされていた。もちろんそれらは正しいとは限らなかったけれども、今はそれがより楽な、消費されがちな、単調なものに変化しただけに過ぎません。それを自分で考えたと過信するから、いかがわしい事態がもたらされるのです。
 何の知識も努力も必要とせずに、なぜかいつのまにか誰にでもある当然の権利として習得されたことになっている「個人の判断力」などに任せていたならば、しょせん、周囲に迎合して自分に都合の良い風潮を「自分自身で正しいと判断」してしまうのが落ちに決まっているわけです。そうして自分で考えて、どれだけ多くの人が宗教やら素朴なヒューマニズムやら、それに類する恐ろしくずさんな「思想」の虜になってしまっているかを見てください。アメリカのイラク侵略戦争について「愛・平和」とだけしかスローガンを掲げられないおかしな連中の一連の動きを想像してください。

 ますます知識が細分化され高度化されつつある情報社会において、全ての物事にいちいち自分が取り組んで考えようなどと思わないことです。まず最初にいったん、自分で考えるという愚鈍な行為を止めなければならない。それぞれの方面にしかるべき専門家や先行者がいるから、まずはその情報を集めることです。ゆっくりとした時間の中で知識を蓄え習得し、その各々の差異や違和感に敏感になることです。
 それでも敢えて自分の考えを持つという蛮勇をふるいたいのなら、最低限、自分の思想は文章にしなければならないでしょう。文章にできない思想など、ないも同然です。文章にしてみて数行で終わる程度ならとても恥ずかしくて思想などといえないでしょうし、コトバが浮かばないなら概念がきちんと整理されていないわけです。
 自分自身の考えや判断、ということを口にするのであれば、それが形に残っていて、なおかつ他者に向けて開示されていなければならない。他者の前にさらけだされる瞬間の、その他者の視線を意識することで、初めて思いが思想となり得るわけです。もちろん批判されることもあり、往々にして、全てが終了した後で自分の浅薄さに気づかされる事態に陥るでしょう。その過程で、思いの連鎖が言葉として形作られ、整形され、変化し、ようやくおぼろげに思想の輪郭が形成されてゆくわけです。
 こうした一連のやりとりを繰り返すことなく、ぽっと出た「考え」だか「思想」とやらを大事に持って生きるなどという野蛮な振舞いを、一体どうしてできるのでしょうか。

 私の母親は、50にもなって、ラジオのパーソナリティーか何かの「どんなことがあっても人を試したりしてはいけない」という言葉を聞いて、「なるほどなぁと思ったわ」などと中学生の私に漏らし、私をひどく失望させました。そのような言葉の真偽については(それがどちらであるにしても)、その歳になったころには、既に幾度となく想定され、そのたびごとになにがしかの知に基づいて判断され、「既に選択されたもの」になっていければならなかったはずなのです。どれだけ永い間、精神が粗野なまま野放しにされ続けていたかを、中学の子供に薄々でも感づかせてしまうような惨めさを私たちは持っていてはいけないのです。
 今お話ししたのはやや極端な例ですが、「考える」作業というのは、それなりの作法で身につけていかなければ絶対にできない。5年間真面目に考え続けて生きてきた人と、40年間とりたてて何もせず生きてきた人との間に、恐るべき差が生じることは、「才能」などという意図の見え透いた前提を置くことなしに、自明でありましょう。

 どうかあなたがたが、他人の高度な判断に対して「自分で判断する」などという滑稽な言説を振りかざして、事態を隠蔽してしまわないよう、自由主義的蒙昧とでも呼ぶべき言い逃れに騙されてしまわないよう、そして他者との齟齬のうちに真の「考え」を磨いてゆくよう、願わずにはいられません。







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