「流れ」が存在しないことの証明
2000/9/23  (12/5データ更新、一部追記) とつげき東北


導入:

「流れ」「ツキ」「勢い」・・・とつが麻雀にかかわる時、しばしば不満を感じるのが、麻雀界の知的レベルの低さである。
麻雀は社会的な地位が将棋や他の様々な競技と比較して著しく低い。
それゆえ、優秀な人物は、例えば将棋の世界には入っても、麻雀界になど入らないというのが世の中の構造である。
だからこそ、麻雀界にはオカルトがはびこっているし、「プロ」と呼ばれる人々の大部分さえ、麻雀のシステマティックな分析となると手も足もでないのだ。

逆に、理論がないことこそが大衆の蒙昧な「評論」を邪魔せず、彼らの「美学」を刺激する。
大衆に対して人気があるのは、常に数学ではなく文学である。結果が○×ででないから、いつも×を取らざるを得ない彼らにも受け容れられるわけだ。
彼らはさも得意げに「流れ」を「読み」、理論や数式を遠ざけ、「勝負は数字ではない」「最後は直感だ」などと言い出すのだ。
「流れ」なんてものがバカげてる、ということを言った人はいる。
しかし、それが存在しないことを証明した人は、とつの知る限りいなかった。


ここで今一度「流れ」という言葉について、定義を確認しよう。

定義1:「流れ」とは、偶発的現象に現れる一種の「傾向」である。例えばサイコロを振る場合に、毎回独立に1〜6がランダムに出るのではなく、前回まで「流れ」が悪ければ次の出目も悪い、等の傾向を示す。「今の流れではこのカンチャンは引けない」などの使用法が代表的。
定義2:「流れ」とは、人間の心理における一連の「傾向」である。例えば連続して振り込んだ、ということから、当人が弱気になったり、逆に無謀になったりして、普段の打ち方からずれた打ち方に変化する、等の傾向を示す。

代表的に使われるのはこの2つの定義である。

さて、結論だけ言えば、定義1の意味での「流れ」は、明らかにオカルトであって存在しない。昔から実験心理学などで、この種の「流れ」が存在するか、また存在しないのにもかかわらずなぜ人々はこういったものを信じるのか、という実験・研究が繰り返されてきた。正当な実験結果は全て「流れは存在しない」ことを示した。
次に、定義2の意味での「流れ」である。確かに、麻雀に限らず他の競技でも、さっきの失敗が心理的に悪影響を及ぼし、次回の失敗につながる、などのことは起こっても不思議ではない。そこで今回の論文では、この意味での「流れ」が、一般的な現象として存在するのかどうかを解明する。


理論:

では、「流れ」的現象(それが心理的なものであれ、オカルト的なものであれ)が存在するとしよう。
この場合に、麻雀のどのような部分にどのような作用が働くであろうか?
「前回の結果が次回にも影響する」というのが本質的である。
オカルト的な意味での「流れ」なら、ある「流れが良い」状況の次の状況も、そのまま「流れが良い」確率が高いはずだ。もしそうでないなら、「流れ」はコロコロ変動するわけだから結局「流れ」は単なる「偶然」と同じ意味になってしまう(流れが良かった次は流れが悪く、その次は流れが良い・・・という風な特殊な現象を「流れ」として定義することもできるが、そのような定義であっても、以下の研究において最終的には問題とならない)。
心理的な意味での「流れ」なら、ある「うまくいった」状況の次の状況は、「うまくいく」確率が高い。もしそうでないなら、同様に単なる偶然でしかなく、「流れ」という言葉を定義する必要がなくなる。

そこで「流れ的現象」とは、「前回の結果が次回の結果に強く相関する」という現象であるとする。
この現象が本当に存在するかどうかをデータを用いて検証する。

では麻雀のどの部分を切り出して「前回の結果と次回の結果」の相関を比較すれば、最も客観的に「流れ」の有無を検証できるかを考察する。
例えば次のようなものが考えられる。

・1打ごとのデータ
・局毎のデータ
・試合毎のデータ

1打ごとのデータについては、麻雀である1打が「成功」か「失敗」かを判定する定量的方法が確立されていないため、これを検証に使うのは不適切である。
局毎のデータについては、麻雀ではある得点・順位分布の状況によって、打ち方を変えるのが普通であるから、「流れ」的現象以外の要因が多く入り込むことになる(例えば東1で満貫を放銃したら、逆転を狙うために攻撃的になるのが戦略上有効であり、また東1で満貫を和了したら、少し守備的に打つのが戦略上有効である・・・「戦略」による結果の変化と「流れ」による結果の変化のいずれであるかが判別できない)。
そこで、試合毎のデータを用いるのが妥当であろう。

「トップ」を取った次の試合は、そのままの流れで、トップを取る確率が普段よりも高い(=普段より平均順位が良い)。
「ラス」を取った次の試合は、そのままの流れで、ラスを取る確率が普段よりも高い(=普段より平均順位が悪い)。
とつの2000年1月1日〜12月5日までの3026試合の対戦成績を用いて、「トップだった次の試合」「ラスだった次の試合」の平均順位を算出し、それらが「普段より良い・悪い」かを判断することによって、「流れ」的現象が存在するかどうかを検証しよう。
ある順位後ごとの平均順位の算出には、とつ作の集計ツール「できすぎくんv2.92」を用いた。


データ:

全体での順位分布は以下の通り。

試合数 3026試合
1位 795回
2位 827回
3位 715回
4位 689回
平均 2.4289
安定R1921.4


「トップを取った次の試合」での順位は以下の通り。

試合数 794試合
1位 215回
2位 206回
3位 185回
4位 188回
平均 2.4357
安定R1907.4


「ラスを引いた次の試合」での順位は以下の通り。

試合数 689試合
1位 179回
2位 179回
3位 178回
4位 153回
平均 2.4426
安定R1906.8


結論:

「ラスを引いた後での平均順位(安定R)」は、「トップを取った後での平均順位(安定R)」と、ほぼ完全に一致した。
各々700試合近いサンプルで安定Rの差が0であるということは、ここに「流れ的現象」による差がないことを示す。

「2位・3位を取った後での平均順位」が、多少高くなっている。700試合単位で安定Rにして40程度の差は、「信頼できる実力評価」の論文で研究した通り、誤差の範疇であるが、もし「流れ的現象」が一般的な現象として存在するのなら、2位や3位の後より、またラスの後より、トップの後の方が順位が良くなっていなければならないであろう。
しかしそうはならなかった。むしろトップの後は「若干負けている」し、ラスの後も「特に負けているわけではない」のだ。
具体的には、1位・2位・3位・4位いずれを取った直後の試合の成績も、全く当初にとつによって予想された通り「確率的偶然」の範囲での差しかなく、またその範囲においても、「トップの後の成績が一番まし」なわけでさえなかった。むしろ「3位の時はちょっとだけ流れがいいカモ」とかわけわからん結論になっとる( ≧∇≦)ブハハハ!
え? 「3位の後は、次はラスは引くまいと集中する、トップの後は気がゆるむし、ラスの後は熱くなる」? わはははは。
「流れ的現象」は一般には存在しない。


考察1「システマティックは強い」:

とつの場合、どんなにリーチに失敗しても、どんなに運悪く振り込んでも、不調でも、打ち方が変わらない。
「不調だから打ち方を変える」「リーチが上がれないから3面待ちだけどダマに」などというオカルトに走らない。
だからこそ成績が安定するし、自分の技術で実現可能な最高の打ち方を常に続けることができるのだ。

上がれないからと言って打ち方を変えるとする。
もしもその「変えた後の打ち方」の方が上がれるなら、最初からその打ち方だけを続けている方が強い。
もしもその「変えた後の打ち方」は上がりにくいなら、そんな打ち方に変えるべきではない。
結局、一時の好調や不調で打ち方を変えているような輩は、たいした打ち手ではないのだ。

数字にも表れない程度の、心理的な意味での「流れ」に翻弄されている段階というのは、単に弱いだけであって、「流れを読む」などと得意げに言える段階では断じてない。


考察2「定義をすりかえる流れ信者」:

麻雀をやる大部分の人は、牌の「流れ」「勢い」などが存在すると思っている。
どんな待ちでも上がれる気がしたり、何を切っても振り込みそうな気がしたりするらしい。
この、定義1の意味での「流れ」は存在しない。実験結果はいくらでもある。
しかしとつがそう指摘すると、彼らは定義2の意味にすり替えてくる。
「おれが言っているのは、そういう意味ではない。麻雀を打つのは人間だから、どんなに小さい影響であっても、やはり調子とか前回の結果に影響を受けるものだ」「人間の心理を無視するな!」とかそういうことを言われるわけだ。
やかましわヽ( ´ー`)ノ
お前、直前まで「牌の勢い」の意味で「流れ」言うとったやろが(笑)。
オカルトの意味での「流れ」を信じていたが、それを批判され、困ったからといって定義をすりかえてごまかすな(笑)。

しかし残念ながら、それさえムダなことだ。
「心理的な影響」も、相手が充分に強ければ、数字に表れる程度には存在しないことが今回示されてしまった。
とつ程度になると、オカルトに振り回されて打ち方を変えたりしないわけだ。
だから彼らの「読んで」いる「流れ」は、ただの子供だましのオカルトか、または精神的に弱い打ち手にしか通用しない。
バカが、定義さえ明確にしないまま、「流れ」を得意げに語る。
それは、同じバカには受け容れられるだろう。それと似ている。

麻雀の技術を高めるためには、「流れ」などのオカルト信仰をまず第一に捨て去らねばならない。
バカ同士でのみ通用するバカな思考など捨て去ると良い。

「わかった。お前は流れを読んでいるらしい。で? お前はそんな"高度な"ことをして、R2000ないの? プッ」


補足:

「数字には表れないかもしれないが、ないとは言い切れない」とか言うなよださいから(笑)。
以下は「麻雀毒舌雑言」より抜粋。

たまに「ツキ・流れ」があるか、ないか、という議論をすることがあるわけやけど、こういう議論は大抵かみあわない。
おれは初めから現実的な範疇(数値的に計測可能な部分)でツキや流れがない、と言っているのだ。
それは統計的に簡単に示せる。実際にそういう研究は昔から何度も行われたが、学界では全て否定的な結論が出ている。
そういうことを言うと「数字に表れない部分ではあるかもしれない」とか「絶対ない、とは言えない」などと言われるわけ(笑)。
こういうのは形而上学と言って、19世紀までの哲学者の議論。現代でこんなことを言ってるヤツは相当だめだ(笑)。
「神が存在しない、とは言いきれない」「実験が失敗するように悪魔が仕向けたのだ。だから悪魔はいるかもしれない」・・・。
わかったわかった。いますいます。神も悪魔もいます。ツキも流れもあります。
で?
数字にも表れないようなモノを「ある」と言い切る体育教師的根性もすごいが、要するにそれを使って何ができるの、という話。
神がいようがいまいが、オレにとって神なんてうんこも同然。だっていざというときに神にすがっても何もくれないもの。
リーチがかかったときに「流れがいいから」ぶんぶんいったらやっぱり振るもの。
「流れがないとは言い切れない」と最後の抵抗で言い張って、で、君は麻雀に勝つの? 負けるの?(爆)




追記「麻雀という愚昧」:

答えが明確に表れるものについては、彼らは口を閉ざさざるを得ない。
試みに、数学の問題とか、法律の知識について彼らに聞いてみるといい。彼らは黙するだろう。
しかし、ひとたび答えが曖昧なものになると、彼らは突然はしゃぎはじめる。
彼らの時代なのだ(笑)。劣等生が劣等であることがわかりにくいということ。
「論理性」「理論」が存在しない領域では、彼らは得意の「創造性」「直感」を以て雄弁に語る。

このリーチに何を切る?
期待値計算法などは未だ確立されていない。
また、仮にそれがあったとしても、確率の低い事象がたまたま起こる、というようなこともしばしばある。
結果を見て「理論だけでは対処できない」「状況による」「流れを読めばうんぬん」と、何でも言えてしまうわけだ。
幸か不幸か、彼らが唯一語れる愚昧が、麻雀には数多く存在するのだ。

しかし、もういい。
彼らは何事もまともに「理解」などしておらず、彼らの発言は常に「語ることが気持ちいい」だけの出任せであることは充分にわかった。
「流れからして、ここはこっちを・・・」
曖昧にしか理解していないことを、口からでまかせを、得意げに語るな・・・。
いつもそうだったはずだ。数学がわからなかったのに、わかった気になって進んできたんだろう。
物事を何一つ「理解」せずに、ずっと生きてきたんだろう?

よかったね、麻雀界のレベルが彼ら向きで(笑顔)


余談:

アメリカのある有名なバスケットボールチームの監督と選手が、シュートの入り方に「流れ」があると信じていた。
そこである心理学者が、長期のシュートデータを用いて、「流れ」的な成功・失敗の偏りが存在するかどうかを調べた。
結果、偶然以上に「流れ」によってシュートが入ったり入らなかったりすることはない、と示された。
バスケットのシュートのように、もろに選手の心理状態が反映されるものでさえ、大した影響はなかったのだ。
それも選手自身が「流れ」を信じているにもかかわらず、だ。
その結果を聞いて監督の言った言葉。
「シュートの成功には様々な要因がある。学者が机上の空論でとやかく言うものではない」
いかに様々な原因があるにしても、「流れ」的現象だけは存在しないことがたった今、示されたんですよ、カントク。
シュートの成功には様々な要因があるが、スポーツバカの妄想でとやかく言うものではない。
麻雀も然り。


反論はよこすな:

この論文に対する反論は一切うけつけない。
正確には、愚昧な連中の戯言を聞く気はない。

どうせお前ら、定義をわからないまま反発するだけだろ?
実験方法に対して、頭悪い批判をするだけだろ?
定義をめちゃくちゃにして「強い人には通用しないのは当然」とか言うだけだろ?
それとも、データも出さず「東風と実戦は違う」とかそれ系かな?

おれが示したのは、「現象」としての「流れ」は、「確率の偏り」としても、また「個人的な打牌の偏り」としても上級者には存在しないということ(正確には、通用しない程度の水準の人間が存在し、かつ彼はR2000を超える上級者だったということ)だ。「ドヘタには存在する」ような「個人的な打牌の偏り」であるとすれば、それはドヘタがチョンボをするのと同様の意味でしかなく、「流れ」が「一般的な現象」として存在することにはならない──「流れ」が「一般的な現象」でないなら、それは単に個人の打ち方の差でしかなく、「流れ」と呼ばれるべきではない(まさか、個人による打ち方の差も全部「流れ」と呼ぶ気か? 爆)。

まあ、アホには上の文章の意味さえわからんだろうから、もうほっとくね。
ええか? 確認取るぞ。アホは口出しするな。


上記の注意を無視して残念ながらなされた反論:

・「流れの定義が違う気がします。それでは、流れの全てが否定できるとは思えません」


やっぱり定義を変えてきたか。
おれは何も「定義しえる全ての意味での流れがない」などとは言っていない。
「流れとは長靴である」と定義すれば、そりゃ流れはあるわ。
おれはおれ自身で、しばしば一般的に「流れ」と呼ばれるようなあるものを定義して、それがあるかないかを検証したまでだ。
いいか? 色んな定義をとっかえひっかえ持ち出して「ほら、流れはある」という水準の話は、おれには通用しないのだ。
一般に信じられている「流れ」に見合った定義をモデル化し、どう定義した「流れ」はなく、どう定義した「流れ」はあるのかのデータを取り、ロジカルに論じて、一つ一つ明確にしていくこと。
それが「物事を知る」ということだ。
おれはお前たちと違って、もしちゃんとした定義と実験のもとに「流れはある」ような実験結果が出たら、「それは定義が違います。流れがあるとは言い切れないと思います」などとは絶対言わないぞ。
(もっと言うと、「流れ」を信じたいあまり、定義を変えてみたり現実から目をそらしてみたり「あると考えたほうが面白い」などという凡庸な発想をしない)


・「1位、2位、3位、4位の後の試合でも、平均を取ったら平均順位に近づくのは当たり前だ。例えば1111222233334444位という結果からは、この実験では流れの存在がないことになる」

違う。
お前が得意満面に出したその例で、この実験ではまさに「流れがある」と示せるはずだったのだ。
もしも、そういったものが流れであり、そしてそういう現象が存在していたとすれば・・・
お前は実験方法の不備を示したのではなく、実験方法がまさに的確であってしかも「流れは一般的現象としては存在しない」ということを確認してしまっただけだ。


・「長期で見れば確率平均に落ち着く。短期的な確率のゆらぎが流れだ」

だからもっとも短期的な影響(1試合ごとの)を取り出す方法を用いただろうが。実験方法くらい理解しろ。
それとも短期的すぎたか? 君の望む結果が出るのは「2試合ごとの順位」か、それとも「15試合ごとの順位」か?
文句ばっか言ってないで、その程度自分でプログラム組んで追試しろや(笑)。
どうせそういうことできない人が流れ信じるんでしょうけど。
既にやった人は、そういう現象はないという結論に達してるだろうから。



付録:

amatsunoさんからご指摘を受けたので、わかりやすくフォローしときます。

定義1:「流れ」とは、偶発的現象に現れる一種の「傾向」である。例えばサイコロを振る場合に、毎回独立に1〜6がランダムに出るのではなく、前回まで「流れ」が悪ければ次の出目も悪い、等の傾向を示す。「今の流れではこのカンチャンは引けない」などの使用法が代表的。

毎回1〜6がランダムに出る場合は、統計学の範疇内にある。
統計学の範疇内にあるような「出目の変化」については、存在して当たり前だし、「読み」の対象には原理的にならない。
それは(その1回1回の試行において)「決して予測できないもの」としてのみ存在する。
まさか、「決して予測できないもの」としての「流れ」を読んだり、それについて語る人がいるとは思えないのでこれについては書いていなかったが・・・。
この意味で「流れ」を定義しようというなら、それは全く空虚な定義である。定義しただけで終わり。それ以上絶対進まない。






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